『おかあさん、お星さまってどこにおちるの?』
消えてくれと願われることがある。
消えないでいてと願うことがある。
流れる星の願いの中に、掬う望みがないとして。
『それはね』
手を伸ばす。いつか滲んで落ちてくるかも知れない光の為に。身勝手から惨酷な手段を望み、足元を踏み荒らしては探し歩く。そんなことをしているうちに、気付けば外はもう明るみの中だった。
「それは——」
天井にある光の屑達は地上には決して落ちては来ないことを、くるくると流れる、部屋の天井に映し出された星の川をぼんやりと眺めながら、思う。
『おーい天川』
うっかり返事をしてしまったのが運の尽きだった。
「あつ……」
屋内にあっても、校舎、取分け廊下に充満した熱気という熱気は外気と殆ど変わらなかった。立っているだけで斯くも鬱陶しい汗の感触が不愉快で仕方がない。夏季休暇期間の校内に残るのは部活動連か、それに近い集団の燥ぐ声
首筋に纏わり付く不快感を追い払うようにシャツの襟で頸を拭う。
暑い。肌の表面だけじゃなく、身体の内側から燻されている気がしてならない。真夏の砂浜とはまた違う熱に頭に靄がかかる。気休めに持っていた下敷きで扇いでやり過ごそうかとも考えた。がそれに先んじて、というよりその時丁度見つかってしまったのだ。担任という非常に面倒な存在に。
丁度良いところに来たと言わんばかりの人の良い笑みを浮かべた男性教諭は手招きをしながら自分を呼んだ。
『課題の提出か?随分早いなぁ。感心感心』
足元にはダンボールが何箱か。常日頃から大体そうだった。物事を早め早めに済まそうとすればする程何故かやる事が後から後から増えていく。気付いた時には始めの倍を数える荷物の山に対峙している。
今回も例に漏れずまずはと機嫌取りから始めようとした担任を横目に分りの良い生徒に徹する以外に逃道なんてなかった。
『いいえ。先生もお疲れ様です。どうしたんですか?』
言い止しながら角の拉た箱を見下ろした。よくぞ、と柏手を打つ教諭は見た感じ他に用があるから雑用を頼みたい、という風には見受けられなかった。大方この酷暑に早く冷房が稼働している職員室に戻りたいのだ。きっと教師からすると生徒の方がいい身分だと言いたいのかも知れない。悪びれもせずに、社会から無条件に赦免され、切り離していられる身分。悍しくもあり、また利用しがいのある貴重な資源でもある。けれど世間話の応酬に付き合うのが既に億劫になり出した挙句の果てに『何処に運べば良いんですか?』と口走ってしまったのがつい数分前のことだった。
中身を聞きそびれたが、ずしりと腕に響く重量からするに紙類や不要になった書類や本か資料なのだろう。もう片方はそれに比べればかなり軽いものの左右に揺らすとガラス同士が打つかる音がした。実験で割れたビーカー?いや違う。廃棄物なら生徒には任せないだろう。集積場の方向とも異なるしあの教師の担当は理系ではない。蓋はガムテープで固く閉じられていた為中を確認することは出来なかったが、もし下校する時までに担任が残っていたら聞くことにしようと頭の隅に書き込んでおく。
配達先は、『四階端にある』教室にあった。
この学園内の校舎は二つある。県内でも割と珍しい作りだといつだったか聞き及んだ、が興味がないのでそれ以上は覚えていない。
この校舎は足早に歩を進める一階を含めて計三階建て。対して渡廊下で繋がれた片割れは四階建てだ。そして反対側に辿り着く為の通路は一度二階まで上がらなければならない。完全な二度手間である。何故こんな構造なのかも不明だが、あちら側の校舎の出入り口、昇降口にあたる部分が現在封鎖されている事が手間の原因だ。つまり、廊下を通る以外の移動手段がない。今時流行らないだろうが、七不思議に名を連ねていてもおかしくは無い。不便が許せる程余裕のある性格をしていない。ともかくだから引き受けるべきではなかったのに。爛れそうな肺で吐いた息が悲嘆と共に落ちていく。
◆
管楽室、実験室に美術室。資材置き場に多目的室。様々な役割を持つ部屋が多くある校舎は未開の地に見えた。帰宅部には縁がない。
横目に眺める人気のない教室は何処も薄暗く、それがより一層外からの強烈な日差しを際立たせる。茹だる暑さと目が潰れそうな明るさに反比例して伸びる黒々しい影のコントラストはいっそのこと感傷的ですらある。昔はよくこんな場所に忍び込んでは夜まで隠れていた事があったな。遠い記憶は擦り切れてしまって至る所が朧げだ。どうして隠れていたんだったかな。
その内欠片も思い出せなくなって、それを忘れたと気付く事も出来ず、一人でに消えていく。誰が嘆く事もなく。
上靴とリノリウム床との間で起こるベタついた足音がいやに響く。長い廊下のずぅっと奥にまで、まるで警笛のように甲高く。次第に飲み込む唾液も粘ついて来てげんなりした。
何も疚しいことをしていないのに誰かに見つかりやしないか、バレてしまわないかと無意識の内に足音を消すように歩いていた。背負った鞄と抱えた箱の重さ以上に足取りが重い。
四階の端、四階の。
口の中でいつしか呪文のように唱えながら階段を踏み締める。漸く最上階が見え始め安堵した。まさか逃げる訳もないだろうに、心底ほっとしている自分がいた。呼吸を整えてから荷物を一度抱え直し一歩踏み出す。
あった。ここだろうか。
やっとのことで到着した教室は、他のそれと遜色のない些か立て付けの悪そうな引き戸、掲示物でも貼ってあったのかテープの剥離跡が四箇所一纏まりに残っている。急いでいたのかも知れないが、少し雑な、手荒な印象を受けた。
ほんとにこんな所に置き去りにしていいのだろうかと疑問を覚える。これなら体育倉庫の方がまだ人の手が入っている気がして。
扉の上部に備え付けられた小窓は内側から目張りでもされているのか外から様子は伺えない。
もう一度大きく深呼吸をする。積もっていた廊下の埃と一緒に顎も上がって、自然と視線も上がった。
視界に入ったプレートには今にも消えてしまいそうな字でこうあった。
「文……部?」
文芸部、だろうか。それにしては字間がおかしい。追い出されてしまったのか、「芸」の入るスペースが明らかにない。
「あっ」
どうせ誰もいないだろう。高を括っていたがいざ扉の前に立ってハッとした。担任から教室の鍵を貰っていない。どうやって開けろというのか、鍵開けの特技なんて持ち合わせていない。暑さを言い訳にはしたくはないがこの凡ミスは間抜けの謗りを免れなかった。
また向こうに戻るのか?いいやそんなの御免だ。何往復もしたい道程でないことははっきりとした。ただ開きもしない戸の前で突っ立ていても仕方がない。じっとしていたら倒れる自信がある。心なしか息苦しい。
どうするか。正直このまま置き去りにしても良いんじゃないかと魔が差して来た頃
がたん
室内から物音がした。
気の所為だ、勘違いだと思い込もうとした途端二度三度と立て続けに中からした異音に後退った。鼠か?こんな最上階で?まだ迷い込んだ鳩か何かの方が納得出来る。だが数秒と経たずにそれが小動物の立てたものでないことが分かった。
がらがらがらっ
崩れた。いや何が?と自問しても答えなど出ない。校舎を包む空気はじっとりと生温く感じるが、背筋を伝うのは冷汗だ。寒いのか暑いのか最早判別はつかなくなっている。まだ正午を過ぎて間もないのに、不気味というには臆病が過ぎる。たかが正体不明の音くらいで。そんなもの日常茶飯事じゃないか。他人の声も犬の遠吠えも、仮にそうだと決め付けているから気にならないだけだ。恐る恐る教室から目を離さないよう視点を固定し荷物をその場に下ろす。一応念の為に。意を決して扉に手をかけた。たった数秒前までは開かないなんてと案じていたのに、それがもう開いてくれるなと現金にも願っている。笑えない。
ガララ、がた
予想に反して扉は呆気なく開いた。ガタついていたせいか半分辺りで止まってしまった、が開いてしまった。湿気と黴臭い匂いに思わず咽せてしまい、口元を汗ばんだ腕で覆う。中を覗くと広さは精々物置程度しかない空間が目の前に飛び込んできた。ただ異様な暗さに眉を顰める。窓の一つくらいはあるだろうに、光源がたった今開け放たれた分以外にはほぼない。
しかも校舎の立地的に扉側からの光量は決して充分とは言えないのに。一歩ずつ慎重に足を踏み入れると、段々と闇に目が慣れて来た。壁際の棚の位置、無秩序に積み上げられた機材、立方体。円筒形が数本。床中に散らかったよく判らないものの輪郭達がゆっくりと立ち現れる。
何とか触れる範囲にあった壁面に手を突き出して踏み場のない空間を更に奥へと進もうとした。電灯くらいはないと困る。
その時、足に何かがぶつかる感触があった。
何だろう。硬い角材などではなくて一安心と、それに腰を屈め顔を近付けた。台座の上に乗っているらしい球体はつるりとした手触りで、丁度天井の方向に拳大の凹みが開いていた。何だこれ。
もっとよく調べて見ようとしたのが仇になったのか、球体に付いていた突起に指が触れてしまった。反射的に身構えてしまう。爆発するでもなし……しないよな?
カシャン、と駆動音と共に動き出した球体は、程なくして淡い光を放ち始めた。室内の埃をその光線上に巻き込み、映し出す。暗室となった部屋をスクリーンにして。
「————」
息を呑んだ。物置がプラネタリウムへと姿を変えていた。光の帯。それも人工の星海はただ投影されているだけではない。所々星が瞬いていて、実物など街明かりで滅多にお目にかかったことが無かった目には現実味に欠けている風景だ。誰が残していったものかは知らないけれど決して安価な代物じゃない事だけは分かる。
「と、ぁっ……⁈」
暗室に灯った光景に見惚れている内に再び蹴躓いた。なんだってこんなに何度も。今度は一体何に。目を遣る。
見えたのは脚だった。一瞬マネキンかとも思った。投げ出された二本の両足。紛れもない人間のものだった。
「ぁぇ、ちょ……なっ」
情けない嗚咽が漏れて、人間、と頭が認識した瞬間恐ろしい勢いで我にかえった。生きているのかいないのか、兎に角明かりを探さないと。
倒れている誰かの真横はすぐ壁になっていて、重く垂れたカーテンがあった。窓はあったらしい。ご丁寧にテープも使ってある。無造作に掴んで力任せに引っ張った。すると物凄い量の日光が一遍に溢れ出し、両目が焼けたと思うほどの威力に暫く目が開けていられなくなり蹈鞴を踏んだ。
「あの、大丈……」
棚に凭れ掛かる肩を軽く揺すってみても反応がない。項垂れた顔は見えず、染め戻したのか傷んだ髪、ピクリともしない身体はそれほど大柄ではないようだ。身に付けているのは夏服。同じ生徒であることは疑いようがない。もし夏服の意匠が何十年も前のもので、なんてオチが付いたなら幾らか笑い話にもなったろう。でも指先で触れた腕はゾッとするほど冷たくともまだ血が通っている。スラックスに包まれた下肢は依然びくともしない。
「っ……っ」
「!」
辛うじてか細い呼吸が聞こえた為、もっと楽な姿勢にさせようと抱き起こして苦しそうなくの字に折れ曲がっていた状態から床へと横たえさせる。埃だらけになってしまうのも申し訳ないが、汗で濡れたシャツを脱いで敷く訳にもいかない。代わりに襟元を緩めて気道の障害となるものを取り除く。首筋を通る血管は確かにまだ脈打っている。まだ大丈夫。早く人を呼ぼう。話はそれからだ。
「——」
ぐったりと力なく眠る顔には、一筋の乾いた跡が見えた。
◆
未だ雑務に追われていたと思しき担任、芝沼の手を借りて保健室にあるベッドに運んで来てからかれこれ半刻は過ぎていた。
教師の消えた保健室は空調が利いていて数センチの壁を挟んだ向こう側の世界とは雲泥の差だった。
症状は重篤ではないようだがはっきりとした意識がない上に脱水症状も出ているから救急車を呼ぼうという養護教諭と、彼の保護者に連絡をする必要があるとかで慌ただしく出て行った芝沼を見送って一息ついた。第一発見者だとは分かっている。だが実際の所何の関係もない自分が関与出来るのはここまでだった。何故あんな部屋に居たのか、どのくらい居たのか。生徒の名前も知らない。役に立ちそうな要素はない。見覚えがあればまだ良かったのだけれど、幼い頃と違ってクラスメイトの半分すら曖昧にしか覚えられない自分には無理な話だ。
淡い色のカーテンで間仕切られた向こうに、清潔なベッドで伸びた生徒が眠っていた。気を失っている、が本来なら適切な状態かも分からない。
シーツに手を付いて、改めて顔を覗き込んだ。童顔だな、こいつ。長めの前髪がそうさせているのかあどけない寝顔がそう見せているのか。身長も自分より少し低いし、全体的に華奢だ。肉付きが悪いと言えばいいだろうか。別に取って食おうと言うんじゃないがそんな生徒。どんな声で話すのだろう。気にはなる。もう会う事もないだろうから、関係ないけど。
手遅れにならずに済んだと喜べる程性根が良く出来ていない。待つ間、下らない事ばかりが取り止めもなく浮かんでは消えた。
もしこの生徒があのまま誰にも見つからないことを望んでいたのだとしたら。
例えばその私怨をいつか買ってしまわないだろうか、と言った不安が芽を出し始めていた。
放っておいてくれるだけで良い、だから近寄らないでくれ、と願う心の奥に潜む結末を、あの時歪めてしまっていたとしたら。
「……運が悪かったな」
開き直って、ふと呟いていた。そんなの、諦めて貰うしかない。二度目を行う気があるならせめてもっと閑散とした廃墟にでも行く事だ。邪魔が入って欲しくないなら。
横にあったパイプ椅子に腰掛けて、あの回転する偽物の星空を思い返していた。そうして上の空になっているとドアがノックされた。担任が戻ってきたようだ。漸く帰れると、床に置いた鞄へ身を屈めた。
◆
非常に気まずい。何だろうこの空気は。
だけど引いたら負けだという謎の意地が一歩足を前に出させていた。
「あれ」
たった今気が付きましたと言わんばかりのリアクションに虚を衝かれて僅かに鼻白む。あっけらかんとした様子の生徒は声を掛けるなり手を振った。ん?覚えてるのか。いや、後から誰かに聞いたのかも知れない。心当たりがないでもなかった。担任の顔が過る。職員室を目指していた所で以前倒れていたと思しき生徒と鉢合わせてしまった。駆け寄る姿は何処も問題なさそうに、顔色もあの時よりはずっとマシに見えた。緊急搬送だけで済んだのだ。出会したい相手ではなかったけれど、大事がなかったのなら喜ぶべきだろう。そうこうしているとその低くも高くもない声が近づいて来るや否や頭を下げられ面食らった。
「ごめん」
「え」
「助けてくれたって聞いて」
「いや別に、ほんと偶々で」
早和木と名乗った生徒は大袈裟に礼を言う。大したことはしてないし、と言いかけてはたと思い直した。額面通りに受け取っていいものか。早和木が不思議そうに首を傾げている。どっちなんだ。覚えていない?軽々しい雰囲気に呆気に取られていたからか、どうしてだとかもう平気なのかとか、聞くべき事が何一つ言葉になっていかなかった。絵空事にすら思える出来事を辿ろうとする。でも上手くいかない。もういっそなかった事にすれば万事解決するような気がして居たところ、何か思い付いたように手を合わせている早和木が頬を掻きながら苦笑していた。
「あー、その、あのさ」
「?」
「助けて貰いついでに、ちょっといい?」
通算二度目に立つ扉は一度目と比べて何ら変化のないままだった。距離的にはちょっとではない。
そういえば早和木は今日何しに来ていたんだろう。関係ないけど、と遠慮なく引戸を開く。開いた。抵抗はない。実は鍵のない施錠出来ない仕様なんじゃないかと疑う。そんな不用心な事あるだろうか。仮にも校舎なのに。目張りもテープ痕も丸切りそのまま残されている。せめて中は覗けるようにしておかないと早和木の二の舞になりはしないかと思いつつも結局何をするでもなく狭い室内を見渡した。あった、まだ。
散らかり具合もそのままに、床へと転がされていた球体を拾い上げた。早和木の物だという、そのプロジェクターを。
『見覚えあったらでいいんだけどさ』
ない訳ない。寧ろ遭遇したのはこっちの方が先だった。私物だったらしい。俄かには信じ難いが、頼まれてしまったのだから既に遅い。ノーと言えない性格でもないのに、結局引き受けてしまうなら同じか。
断れなかった。いや、断らなかったのだ、と憂鬱に納得を与える。酷い既視感の中でぼんやりと思う。にしても今日はカーテンも暗幕も光を遮るものは何もない。徐に再び部屋中を闇に染めてみる、開ける、閉じる。
だが見えこそすれど四方の壁が主張する圧迫感は激しい。物置を引っ掻き回しては秘密基地と称していた身分としては童心が擽られないでもなかった。どうしてあれほど嬉々として汚れた場所に居たがったのかが今はもう到底理解出来ないが、この部屋はというと倉庫にしては広めと言えても、これだけ物が押し込んであれば殆ど納屋だ。
手の中のプロジェクターを間近で眺め回すと表面にはアルファベットでロゴが入っていた。しかしとうに掠れて驚くほど読めはしない。扉を振り見る。廊下の表札にしてもそうだ。此処にあるものはどれも隠れるのが得意だった。一人を除いては。また反対の壁際を見てみる。そこだけ丁度空間が開けている。きっと早和木が退けたのだろうと分かる。幸運にも丁度いい空白地帯だっただけかも知れないけれど。
「……あれ」
早和木へ届けに行きすがら、何度かスイッチを入れてみた。投影レンズを覗き込む。反応がない。いやバッテリー切れだろう、恐らく。何せ数日以上は放置されていたのだから。
もしかしたらあの後も作動し続けていたとしたらそれも頷ける。
結局、早和木が何を見ていたかは皆目見当も付かなかった。顎先を伝い落ちる汗を拭う。
夕陽の差した教室に一人で居たからだろう。声を掛けるとハッとしたように早和木は振り向いた。
「見つからなかった?」
本当に?と懐疑的な視線を受け取る。多分、気付かれてはいない。ポーカーフェイスではないが表に出難い性格が初めて役に立った。嘘は吐いていない。早和木の求めていた「正常な」プロジェクターは、あそこには無かった。代わりに故障した方は今鞄の底に沈んでいた。