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羞明の瞼

空き地のアンブローズ2

 一度手放した何かを買い戻そうとした時。挫折した本を開き直す時。途方もない時間をかけて来た自分の一歩が、他人の半歩にも成り得ないと実感する時。困難だと思っていた道程が、想定以上に緩やかに終わった時。
何とはなしに、開けた場所に足が向く。どんな場所だって良かった。手近に存在して、寛く誰の為にもある空白地帯へ。

 吹き荒ぶ寒風から逃げるようにして貯水池の前を足早に抜ける。バイパス道路近くの土地柄か、周辺の家々は概ね嵩上げを施してある地区はどれも平地より一段と高く建てられている。低地という立地を度外視したものか、数年前に建てられたマンションの地下駐車場が大雨の増水で頻繁に水没する十字路を抜ける。低いから水が出る土地に、犇き建つ家並みに見下ろされながらかつて拓けていたところの前を過ぎる。
 伸び放題の叢は影もなくなっていた。バイパスを囲う遮音壁越しを大型トラックに追い越される風景、季節の変わり目に伴う水気の変化。錆びたままのガードレールと、有刺鉄線を巡らせたままの台地は殆ど何も変わっていない。取り払われた買主募集看板の位置は既に私有地の舗装が施され、新たに表札のかかったコンクリート製の門柱は無機質ながら真新しい出立ちを隠さない。戸建てが一棟と、駅に近い立地を生かしたアパートにすっかり様変わりした、空き地を除いては。
 誰の為にでもあると嘯いてみても客観的にはどうやっても勝手侵犯で、空き地は空き地として管理者と所有者が要るものだ。当然ながらプレミアシートに利用するのは御法度だ。抜け道に使うなどというのもまた同様に。

 といって、どちらの非に秤が傾くかを考えてみたところで詮無い。足繁く通う土地ではなかった、というだけで免れたそうした事柄を、新築の物件を眺めていると眼裏に描き出している。
彼のことは今でも時折、文庫判に収まった文字の中に見付ける。無意識にもならない意識の下に、事切れた弦の息苦しさを。
 河原の畔には水鳥の間延びした響きばかりになり、極稀にするのは甲高い金管楽器の、これもまた水鳥に負けずとも劣らないくぐもった演奏だった。もしかするとそれらは楽器本来の演奏ではないのかも知れない。バイオリンを代表として、木製のボディで構成された弦楽器は湿気で音が変わってしまうという性質を持っている。外で弾こうとはしないものなのだろう。皮張りの三線とは別ものだ。室内楽の為のものなのだろうか。確かに、海だとか川だとかの演奏会というのも、牧歌的だがあまり馴染みがない。疎いのだ、と言われてしまえばぐうの音もないものではあるけれど。

 今までの時間はそこにはなくなった。
遠く、見えないところからの拍手を彼に届けようとしたことはなかった。聞こうとして聞いたものではない機会だったからこそ、空き地という荒涼に吹く隙間風の快さの中にいつかの彼の影を捜していた。彼がここにいないのは喜ばしいのかも知れない。誰もいなくなって初めて取り残されているのだと気付いた場所だった。また元の通りに開けたところを探そう。誰の目に留まらないそういう空間を探すのは得意だ。
 いつだったか咲いていたのは何という花だったか、思い出すことも忘れて暫く整えられて様変わりした元、空き地の目前で突っ立っていた。

 彼の音はもうない。自分も早く立ち去らなくては。

 バイパスの真下には反対側に抜けるトンネルがあって、子供がジャンプすれば手が届く高さに天井がある。真上の道路を支える橋のような役目のボックスカルバートと呼ばれる作りの小規模なトンネルだ。内部は角ばっていて蛍光灯が妙に明るい。低く掘り下げてある為に、結露が発生しやすいのは何度か通って分かった。抜ける時はひやりと冷たい。内部壁面のカラフルなグラフィティはきっと夜間に描かれているだろうものだから、いたちごっこ好きらしき犯人は、冷え症ではない人々に違いない。

 実際の高さが高さなだけに頭の心配をしながら通る必
要のあるトンネルはたった数メートルもない距離を潜ると、近隣では比較的大きい公園に辿り着く。そこから公園の中心を並木に縁取られたアスファルトが貫く。

 トンネルから続く舗装道で分けられた公園の右手には設置型遊具がスペースを遠慮がちに使い、左手には丘になった砂地の広場と木立とだけが占め、他に公園らしいものは殆ど何もない。囲うように生える木と少し距離を置いて、椿の幹が地面から束になって伸びている部分とがあった。バイパスが隣接している所為で道路が壁のように迫り出していて、何とも言えない境界線を公園に作り出す。察するに、住宅街と街道の緩衝地、もしくは位置関係としては騒音対策の結果だろうと思わされる、そんなところ。
 ある方とない方とでは、どうにも「ない」方を選ぶ性格上、時に損をすることくらい分かっていて足が向いた。見かけていても入らないでいた場所を選ぶ時は決まってそんな動機に身体が従う。

 暖かい時期には埋め尽くすようにあった緑葉も今は枯れ落ち、幹が唐突に地表へ刺さっている、といった具合の椿達が一際目を引いた。太く育った他の樹木より、何だかその唐突に植わっている姿を見る。大小互い違いに土からはみ出すものとはまるで違う、木枝の向こう側を何かが過ぎった。
狸だろうか。それとも栗鼠?公園の周りでは電線伝いに移動する外来種が散見される。実際目にすると鳥と見間違えたかという素早さで、それなりに驚きもする。
 とはいえやはり見間違いだっただけなのだろう。枯れ枝の間からは鳥一羽も飛び立たない。
冷え込んで来た。ここで寝そべるには随分風当たりが強い。指先の温度は確かめるまでもなく、立ち去りたがっていて。

「あ、れ」
「ん?」

雲は透明

くもはとうめい

きみはそうめい

いみはとうめい

みちるそうめい

目も開かぬまま

うそつきのてんきあめはあきにそそぐ 2

 空をすり抜けていった手の先をいつまでも眺めていた。一体どのくらいそうしていたか。開けた筈の目が開いている気がしないのはそういう曖昧に漂う流れに逆らわなかったからで、閉じ忘れた窓の向こうに流れる市内放送が頭蓋を直撃したのとは関連がない、ということにした。
 気付けば時節は過ぎ、秋はまた遠くなった。あれがもう、去年のこと。港の付近ではこの所、雨後の筍然とした海小屋が次々に建てられていた。地元の名物として風物詩的な光景であり、次第に近付く猛暑の気配をうんざりする程知らせる号砲だ。そんな時期に差し掛かっていても毎夏のことながら手際良く何棟もの小屋が短期間で出来上がる様は驚く他ない。瞬く間に完成し、そうして惜しむ間も無く海岸からは始めからなかったように痕跡一つ残さず消えている。一夏の蜃気楼、と称賛するには少々風情に欠けたそれら作りかけの夏が現れては消えるのを延々と淀んだ空気の部屋の壁に描いてしまう。とうに慣れて久しい風景は何処か異郷の祭りを眺めるような傍観に浸らせていた。ずっと前から知っている。なのに、見知らぬ姿を垣間見ている感覚があった。そしてそれも束の間現出したと思うとまた何処か意識の深みに沈んだきり浮かんでは来ない。気紛れな想像の中からは不意に不必要なものばかり見えて来る。
 あれきり、あれきりだった。過ぎた秋が遠くなって、酷暑を再び迎えるようになった今の今まで放ったらかしにしていたのがそんな不必要なものだった。秋らしいものの姿を夢に見る度、何度となく悔いた。あんなことを言わせる必要はなかった筈だ。結局、あいつの元には行けなかった。それは秋が過ぎても変わらなかった。
 隣に立っていたくはない。そんな想像はしたくもない。
 あんな風に笑うくらいなら、笑わせてしまうくらいなら——いっそ消えてくれた方がマシだ。
 何処かで聞いた見知らぬ人が言うのだ。人の想像し得ることは可能な未来であると。なら隣にいる想像が出来ない俺の描くあいつは、一体誰なのか、と。何処にもいない人間。可能性の低いもの。だったら一刻も早く夕凪に溶けて消えて欲しい。
 それなのに、それなのに。会いたいと思って止まないのは一体いつの俺なのか。目も開かぬまま茜差す斜陽の部屋は痛々しい西陽と半音ズレた時報の残響ばかりで満たされていた。気分の悪くなる季節だ。隣にいたくない、消えて欲しい。あいつを探さなくていい理由が欲しい。理由がないのなら堂々巡りを続けるしかないことに、何か正しさを。
 
「……っ馬鹿馬鹿しい」
 
 何も知らない。何もかも間違っている。何処に正しさがある?ある訳がない。だってあいつは何も知らないのだ。だったらこっちも何も知らないままでいるしかないじゃないか。見なかったことにして惚けているしか、もう他に何も。
 
「なーにがよ」
「⁈」
 唐突だった。扉のすぐ横に見たくもない顔が当然のようにある。でもしどろもどろのままひっくり返った声で受け応えるので必死になって上手く形になっていなかった。まさか頭の中まで覗かれたりはしていないというのに、嫌な汗が吹き出しかける。
 
「え、なんで」
「いや連絡しただろ。急に休むっつーから優しい俺がわざわざ来てやってだな。もしかして見てねぇ?」
「あ、ああ……そう。悪い、見てない」
「へーぇ?何、寝起きみてーじゃん。よく寝れてたんなら良かったわ」
 
 何の気なしにそんなことを言うものだから、思わず閉口する。何を言うのかと思えば、そんな当たり障りのないことだった。ないことだったのだが、平気な顔で言われたのに少々、いやかなり、呆れ返ってしまった。
 
「あ?どした、具合悪い?」
「別に、頭痛がするだけ……」
「あっそ。んじゃ諸々置いたら帰るわ。拗らすと面倒そうだしな」
 
 あ、と口が形作ったまま固定する。何を言おうとしていたのか、飛び起きた時にはもうすっかり抜け落ちていて、間の抜けた顔同士を突き合わせていた。
 
「何?」
「いや……何も」
「はぁ?いや気になるわ。急に何だよ」
「だから何にも」
「何にもって顔じゃねーだろ、それ」
「怒ってんの」
「キレてはねぇけど。ただ最近恒例のサボりかと思ったらガチっぽそうだし?これでも大分心配してやって」
「来なくていい。もう来るなよ、頼むから」
 
 堰き止めたつもりの想像で舌が縺れて、先走った挙句また間違った。どろどろに焦げた色をしながら、恐ろしい速度で日は傾く。うんざりしていた赤さは瞬く間に地平線の先へ。
 
「あ……違——」
「はいはい分かった、すぐ帰るって」
 
 何を繕おうとしているのだろう。今更何を正したかったのだろう。散々好き勝手喚いたっていうのに、こいつは意にも介していなかった。
 それはそうか。俺は一体何に振り回されていたんだか。勝手な想像だ。誰でもないこいつが頭から出て行くまでは続く馬鹿馬鹿しい想像にもう一区切り付けなくてはいけない。
 
「あそうだ。ちょい待って。そろそろ……」
「何、帰るんじゃないのか」
「まぁ見てろって」
 
 疑問符だらけの眼前で、こいつは中途半端に引かれたカーテンを完全に開け放った。一息に飛び込んだ景色に瞼が震え、反射で遮る。何をやるにも急制動気味なのにはもう慣れた。だから嫌になる。慣れるまでの距離、時間、流れの厚みの束に潰されそうになる。そうとも知らず、相変わらず突拍子のない姿を横目にする。そうして、視線の先までをも。
 
「お、見えた見えた」

「な?」と、何処か自慢げに上がる語尾を気にも留められなかった。
 
「お前の部屋さ、実は結構いい眺めなんだわ。知ってた?」
 室内を塗りたくっていた夕陽は濃淡を刻一刻と変え、光は層をなしやがていなくなる。十分にも満たない日没の最中に折から差した赤光は、上空の高い所を流れて行く斑状の雲を巻き込んで鮮明な景色をより強いものにする。

「すごい雲」
「ほんとだ。明日は晴れるかもなぁ」
「さば雲って雨の予兆だろ」
「そうだっけ?網目のは晴れるって聞いたことあるけど。蜂の巣のやつ」
「はぁ……じゃあそれでいいって。呑気だな、ほんと」
「分かってねーなお前。大事だろ天気」
「天気の話題は会話の墓場だって話、知らないの」
「会話に墓場とかあんの?」
「知らない」
「んだそれ、雑いなおい」

心底どうでもいいのだろう。吹き付けた涼風の合間に伸びを一つした横顔を見まいと努めて、なのに逸らせないままでいるのに呆れて、この繰り返しを断ち切る為に話題を逸らそうとして、なのにどれも奏功しない。堰を切ってしまいそうな出しゃばりたがりはその内洗いざらい喋ってしまいそうだ。けれど今、こいつの見ているものの中に入っていくのには気が引けた。多分、何処にも俺はいなかった。そして俺の前にも誰もいない。想像の出る幕はなかった。

「なぁ」
「んー?」
「今度さ、付き合って欲しい所があるんだけど」
「また急だな」
「お前よりはマシだろ」
「どう答えて欲しいわけ」
「別に。断りたいならそうしろよ」
「何で断る前提なんだよ。行くに決まってんだろ」
「即答かよ。まだ何処とか教えてないのに」

「何処かなんか行けば分かるだろ、そんなことよりも俺は」

聞き逃す筈なかった。聞きたくなかった続きがはっきり形を伴わない内に、カーテンを再び閉じ切って手を伸ばし、気付くと眼下に身体ごと引き倒していた。二人分の重量に沈むベッドが責め立てるように軋るのに、それを真っ向からこいつが否定してしまう。

頼むから、もう何も聞かせないでくれ。

「いいよ」

俺はまだ目を開いていないのだろうか。それともこいつも?大して驚きもしないのは試すような仕掛け方があんまりにもどうかして見えるからか。喉奥が燻されているように熱くなっていくのに堪え兼ねて、辛うじて絞り出した言葉はもう、嗚咽混じりに濁り切っている。


うそつきのてんきあめはあきにそそぐ

 西に落ちる夕日を庇うように薄雲の群れが過ぎ行く。烏が鳴く代わりに鴎と、そいつらを追い回す鳶を都合の良いように取って、二人は帰らないでいた。とっくに退社して後は電車に乗るだけの人混みから抜け出ると、駅から続く商店街を歩いている。
 時報の鐘が鳴るのは午後五時の合図。市内の放送無線は河川の増水時には防災だの、真昼間には徘徊者だのの知らせを流した同じスピーカーから、それまでよりも三十分前倒しに時報が流れた。

「早くなったなぁ。秋って感じ」
「お前の季節感そこなの」
「ぶっちゃけると秋ってすぐ終わってるイメージ」
「まぁそうだけど。すぐに戻ってるだろ、時報」
「それもいつの間にやらなんだよなぁ」

 自分だって秋らしさというものを知っている訳でもないし、冬に向かう時節は、単なる寒暖のインターバルとしか思えなかった。休憩時間、というのがまさに的確だろう。ここは乾季と雨季の繰り返す国とは違う。思い出の中に秋の居場所がないのは、近所の公園にある銀杏の並木に満足している所為だった。ひょっとすると一面銀世界ならぬ銀杏世界になる程の量にもなる並木道が貫く公園で、まだ銀杏の幹に腕一杯に回して半分にも届かなかった頃はそこら中に散った黄色い海を掻き分けたり、抱えられるだけ抱えて頭上から撒いたりして、それで終わる。だからどちらかというと、記憶の秋は赤ではなく黄金色に染まっていて。
 だからどうということもなく、あてどなく歩いている内に時報が鳴り止むと、肌寒い路傍の上でふと潮風が吹き抜けていた。日暮の秋はまた一段と楓色に様変わりしていた。塩辛い風で巻き上がる浜の砂塵が悪さをして、眩しさに細める目は痛みも伴っている。
 漸く開けた視界には渚が広がっていた。

「約束してたんだろ。良かったんだ」
「え?ああ、あれな。いいよ、多分大袈裟なだけだろうし。寒暖差アレルギーってやつ。やだな、平気だろ」

 平気かどうかの自己申告は概して信用していないし、それを知らない奴ではない。

「聞いたことない、そんなの」
「はいはい、それでいいよ」

 まったくもって良くはないが、一度も振り向かないのには、食い下がる気も失くしてしまう。そこで打ち止めにしてくれ、と煙に撒かれてそれっきり。口を出すのは別に誰でもなく自分が気がかりだからで、だからそれっきり。
 そうこうしていると薄暮れに雨気が立ち始めた。潮風の合間に漂って、鼻をつく匂いには向こうも気付いたらしい。

「そろそろ雨が降るって」
「この辺りじゃ傘があったって凌げないだろ」

 寂れた船屋に飛び込めばいいのだろうが、錆臭いそこで雨宿りするくらいなら急いで引き返したいのが本音だった。こいつが見たことがあるか知らないけど、そういった岩縁に近い場所にはフナムシがわんさか湧いていることもある。雨以上にそっちに遭遇する方がぞっとしない。

「そう?じゃあ……」
「ちょ、え」

 夕景に轟く波濤を割っていく背中が見える。
 それじゃあも何もなかった。

「おい、危ないって!」
「あー、すっげぇこれ。しょっぱい」
「当たり前だわ」

 果敢というか無謀というか、どういうつもりか知らないが濡れ鼠になるのも厭わず進んでいく。水遊びにしては度が過ぎている。ところが慌てふためいたのをいいことに、頻りに飛沫を上げながらしたり顔になった。

「どうせ濡れるなら同じだろって、ほーらお揃い」
「溺れるっつーの、ふざけんな。どうすんだよ帰り」
「大丈夫大丈夫」

 深みの手前に差し掛かった時、嫌な感傷に小突かれてしまって咄嗟に前に出た。

「待って」
「うそつき」
「は?」
「ここまで来てみろよ。そしたら許してやる」

 何を許すというんだろう。何が嘘なのだろう。待って欲しいことが?行って欲しくなかったことが?

「あー、ははっ見ろよこれ」
「なぁ、今度……」
「あー?きっこえねぇって」

楓色の海に溺れた記憶に、居場所はあるのだろうか。流される前にネクタイを引っ掴んでいたら、続きは潮騒が覆い尽くしていった。
結局その後雨気は雨気のままで終わり、少なくともベタベタに張り付いたシャツの不快さは互いの間でだけ秋らしいものの一つになってしまったのだった。

兄弟部屋




何度となく決心をした筈だった。もう何度となく心に決めて、真っ直ぐに来たつもりだった。そうでなかったのかどうか、確かめに来たのではない。

物心ついてから付き纏い続けていた違和が行き着いたのは一枚の扉だった。
階下の集合ポストはどの部屋もプレートの番号が割り振られてある貸家の一室。見間違いは決してしない。いっそ何もかも間違っていて、一切を忘れようとすれば後先の問題にも出会さずに矮小な失望の影を踏むだけで良くなる。
しかしこうして裏切られたことでどうにも立ち行かなくなってしまっていた。このまま部屋の前にいればいつか戻って来るかも知れない。不在が持つ期待はこんな時とてつもなく厄介な相手だった。この扉の前の『もしかしたら』から、逃れられるだろうか。

今日は一日ずっと、眼前の部屋は無人のままなのかも知れなかった。不必要に物静かな部屋だと、居合わせた隣人から教わっていたことは確かに都合が良かった。日を改めようと決めて、扉の前から離れることにする。

貸家は眺めの良い坂上に建っていた。階段の軋りが耳障りになりそうな年古りたアパートとは違った居住いは、急勾配の坂道を下るにつれ段々と遠くに、そして高くなって来訪者を見送っていた。ごく小規模のロータリーを備えた私鉄の駅舎に、丁度電車が滑り込むのも見通せる高さがある。部屋の主がたった今停車した車両のどれかに乗ってこの道を向かって来ていれば何処かですれ違うこともあるだろうか。僅かに首を捻らせてみたが、すぐに引き戻す。そうして、環状の滑り止めが作る縦横無尽の模様が敷き詰められた坂を、一目散に駆け降りた。
一度も躓かずに走り切るとやがて玄関を潜った。家内に人気はなく誰の迎えのない、いつも通りに無人の廊下が待っていた。一番に鍵を開けるのは日課で、皆仕事か同等の用に出払っている。冷ややかさの温もりは、汗に張り付いた服を幾らか乾かした。荷物ごと自室に身体を放り込めば、それまでの一から十まで、一切は部屋の外に追い出せた。他にどうにもならなかった。肩の上下が小さくなるまで待つ他に。

食卓を囲む人々を家族と呼ぶように、家には父母がいて、少し遡れば祖父母も暮らす二世帯住宅で生まれ育った。月並みの人々の間にある血縁関係が築かれた中に生まれたのは一人だけだと聞いていた。祖父母が孫の存在に対して目をかけていて、過保護のきらいはあっても過干渉まで達さない両親に囲まれて、何不自由なく育てられた。
だが、本当に?
本当の不自由のなさには何か、何かが程遠かった。間違っているとは思わない。家族を称して属する以上、各々は大なり小なり誤っている。外を窺おうとドアスコープ大の接点から他所を覗き見ても、到底手の施しようがないらしいことが分かる程度だ。その根底は変えられない。いつ頃からだったのだろう。それはほんの些細な、日曜の午後にふと気付くくらいの僅かな奇妙さでしかなかった。瞬間は日常となり、付かず離れずついて回るようになっていった。欠けているのではない。ぽっかりと空いたまま足りていないから、ただ探そうとした。仮想の友人などには代役は務まらない。短絡な希求、それらの発端は部屋の数の所為でもあった。数だけなら世帯数にしては多寡に口を出す必要もない。だけれども、訊ねずにはいられなかった。物置にしている一室が、自室の並びにある一室が、同じ間取りに作られているのは何かの間違いではないのかと。けれども返って来るのは明確な否定ばかりで理由がある素振りは誰一人として見せなかった。家にあるのは家族。ないものは、家族ではないものだ。祖父は以前から繰り返しそればかりを唱え、また他に六つの瞳も無造作に追従しては頷くだけだった。
片方が没してから違和はより募っていった。祖父母に違わず父母が繰り返すのは否定。そしてまじないのような一言だけが降り積もっていった。家にないものは家族ではない。けれどその家には足りていないものがあって、影も形も掴めない。ないものだと断る二人と、ある筈だと思う一人が同じテーブルを囲んでいる。テーブルランプの下で立ち昇る湯気は、まだ食卓に温みをもたらそうとしている。

元から広く作られていた家は更に手に余るようになった。二人分の物を収めていただけの一室は、いつしか使う頻度のごく限られた客間として使うよう取り決められた。数少ない回数の内の一度目は、然程親密でもない同級生の招待に使われ、穿って見れば否定の延長線上にあった。
こうして客間は招く人々に振り回されながら使われるようになった。物置よりはいいが、かといって部屋が負う役割は変わらない。空白が部屋の輪郭を伴ったに過ぎなかった。そこにある不存在が立体感を持っていて、二人がいた頃より遥かに整頓された部屋が一層の力を持っているのに向かい側で閉じ切られている。部屋の真ん中に立つとすとんと全身から力が抜け出ていく気さえした。いつしか部屋の前に立てば、その感覚が必要性と不存在の間を取り持つ楔になっていった。部屋そのものによって、短絡的な探求は増されていった。

客間が最も多く使われていた時、周囲は単に都合の良い溜まり場として利用している認識があった。招く側と招かれる側の立場は完全に一致していて齟齬はなく、違うのは一人だけだった。集まった数人の中には外で走り回りそうな調子者、活発なのもいて、裏手の山に秘密基地が作れそうな場所があるとか、年相応に集団の興味を集めそうな話題を持ち寄った日もあった。一時何人かは行ってみたいと手を挙げたが、別の一人は秘密基地よりずっと面白いところを知っている、と強引に話題をひったくった。場の期待を一心に浴びて満足そうに鼻を鳴らして続ける。しかし坂の上の貸家に空き巣が入った、というところから後はさっぱりだった。次第に客間は噂話の市場となり、山奥の人影がどうだとか、この地方の集落の因習だとかを休み時間の暇潰しと同じように言い募っては盛り上がっていた。
知っているか、と一人が話し出したのは、ある種の珍しさから来る噂の切れ端に過ぎなかった。

『貸家の納屋には夜な夜な誰かが押し込まれて泣いている。』好奇心に手足の生えた集団は、秘密基地よりずっといい玩具に飛び付いた。集団には逆らえなかったのだと嘯いて、続く方を選んでいた。興味がなかった訳ではなかったし、何よりも口の端に上がって広がる泣き声が納屋の出す軋みか何かだろうとは誰も言い出さない、暗黙の了解を持ち出してみても、この時の好奇心は説明し尽くせなかった。
ライ麦畑の真ん中で誰にも手を伸ばせずにいるような気分になった。幾重もの罠が潜んでいて、但し手が出せない。子供達は誰も彼もが走り回るのに夢中になった。噂の帰結はごく単純な結果となった。

子供達は放課後に待ち合わせて、揃って目的地に向かうことにした。住宅街を抜け坂を越え、気付けば街灯も疎な頂上に着いていた。駆け上がって来た為に上がった息を整えることさえ愉快だったのだろうか。燥いでいる後ろで彼らが向かわない方を振り返った時、急にぎょっとした。遠目には光の点がちらちらと走る。家並の間に駅が見えた。あの辺りは商店街、あっちは確か取り壊しの決まった空き家のある並び。

強く歯を食い縛り過ぎていた。顎の痛みを堪えるのも忘れて、夜が目の奥に染み込んでいくのを抑えられずにいた。食い入るように見入って、誰かに肩を叩かれるまで目的を思い出せずにいた。どうしたんだと言われても、ああ、とかうん、とか短く答えるので精一杯になっていた。


ワゴン車が一台通りを過ぎて、坂道を曲がっていった。ヘッドライトが徐々に光量を増して走って来る。ライトの流れだけ目で追いかける。エンジンは切れた。例の貸家の目前の電柱に、もう何度もそうしているような動作で停車した。すぐにても運転手が飛び出して来て怒鳴り散らされるかも知れないと、何人かは早々に逃げ出して行った。残った内の一人が脇道の裏手に隠れるよう慌ただしくも手招きしていて、咄嗟に近い方を選ぶ。たっぷり五分は経ち、ヘッドライトが点いたまま前方を横切る訳にもいかない。物陰にじっとしている子供がいたからといって、幾許もない背丈では視認することはおろか存在にすら気が付かなかった。事実車の主は見向きもせず部屋のあるらしき階に向かった。実際には何分も経っていない。しかし切れかかった蛍光灯の明熱を思わせる拍動が長いこと掌の内に残っていた。
何かとんでもない場所を見付けてしまったのではないか。夜更けの街を一望する坂の上に、今夜見付けたものは本当は人の住む貸家などではなかったのではないか。
幾日か経って、遂にその夜の話を口にしてしまった。咎め立てられないよう用心深くこの話題に触れたのが直接のきっかけだった。
食卓は丁寧に営まれていた。食物に感謝を捧げ、皿に取り分ける一つ一つの動作が何年も同じように積み重ねられて来たと分かる。二人は完璧な再演を成し遂げていて、向かい側の三人目の黙考を完全に消し去っていた。切り出すと、二人から一切の言葉という言葉、動きという動きが失われたことが察せられた。

どうやってそこに?お友達と行ったんだね?

二人の間は独特だった。当然、誰かの誘いがなければ見つけられない場所を知ったのだ。そういう類の断定を与えた。一歩間違えればどういう事態が起こっていたのか今では想像も出来ない。二度と近付かないように。釘を刺さされた暁に、一体どう受け応えたか定かではなく、気が付くと一人部屋の前に立って、じっと扉の蝶番を凝視していた。自室とは違う部屋の前で、何時間か突っ立っていた。知らず知らず、誘われたことを感謝すらしていた。好奇心に負けて良かったとすら欣喜し、二人の反応の意味も部屋の数もこの頃にはさして問題にしなくなっていた。
きっとあの場所には何かがある。それでなければ変なのだ。何もなければそれでいい。漠然とした欲求の尾を捕まえられる機会が今ならば、二人の意に反する行動を取ってもいい。確たる意識の外側に、必ずそれはある。空想などではない。
例えば、登校の途中で耳にする奇妙な響き。例えば、いつからあるかも曖昧な路端に転がる不定形の塊。そのいずれもが、単なる鳩の鳴声であるとか不法投棄の成れの果てであるとかいう、確からしい判別がされた今となっては見向きもされない。これと何らも変わりがないことなのだ。今回もきっとそうに決まっていた。何か病的な観念に突き動かされているのは一種の感冒みたようなもので、それが長いこと巣食っていたばかりに表出したものだ。違和、と思っていたものにどんな風であれ形を与えてしまいたかった。それでどうなるかは知れないけれど、息が吸いやすくなればどんなにか楽になれるだろう。
何不自由のなさが、決定的な枷と化していたことは疑いようがなく明らかになった。

これで二度目だ。これで漸く二度。途中見覚えのある車両が坂の下に停まっていた。よくよく確かめれば、車両は真新しく広さも十分にある。持主は忘れ物でも取りに戻ったのだろうか。まだ日も暮れない頃に何処へ出かけるのかを気にする間もなく貸家のすぐ脇にある例の納屋から悲鳴がした。勿論、正体は大したものではなく錆びた戸の悲鳴だった。同じく貸家の住人の借りたものだろう。敷地内の端にガレージ状の空間があり、車の持主はそこへ用があったらしく中身を引っ掻き回していた。噂の正体の一つが全くの不可抗力で明かされつつ、恐る恐る近付いていった。
背後、しかも住人に含まれない子供が立っていれば驚きもしただろうし、実際そんな反応をした。男はやや訝しみながら、友人の部屋が分からないという方便で快く貸家を案内をした。友人と説明しながら、どの階の何号室だかの連絡を取り合わない仲だったのかどうかまでは年恰好が奏功して踏み込まれなかった。
貸家はロビーから各部屋に至る作りとなっていた。男の部屋は一階にあり、防犯上の観点から狙われてしまいやすい一階の特典として、外の一部を借り受け相殺しているという。案の定、悲鳴の噂は軋みに端を発したものだそうだった。期待外れを超えてしまえば、いっそ期待通りと言っていい。賃料と公平さのバランスが取れているのかどうかはさておくとして、どの部屋に誰がいるのかはおおよそが分かって来た。大抵は男のように単身かつ、朝には働きに出て遅くとも深夜には戻るような勤め人が主な住人の層で、眺望を求めて越してきた入居者がいる他は、希薄な関係ながらトラブルも殆どない。男からもそういう住人ばかりの何の不思議もない住宅だとの認識があり、同意を求めて来た。この男の日常は過不足なく完成されていた。或いは足るを知っただけのことか。どちらにしても、ただ一点、男の認識から外れる部屋があることまでを話し終えると、再び車両に取って返していった。

思い返しても『友達の部屋』は、やはり防犯意識を体現しているらしく、表札はあっても肝心なものがなかった。代わりに日に焼けた無地のプレートだけが、ともすれば住人の警戒心をより強く訪問者に植え付けてもいた。尤も、男に友人と伝えたのはこの部屋だった。何とか聞き出そうとしてよく口が回ったものだと驚いた。その成果は、正に決定的なものだったのだから成功と言って良かった。

そういえば君と名前が同じなんだ。親戚の人?言われてみると確かに似ているね。

扉の前に立つとまるで不自然なくらいそれまでのことは抜け落ちていた。無貌の、完成された日常の隙間に忽然と紛れ込む扉と夜景が蝟集し、渾然一体となって頭蓋の内に犇めき合っていた。
ぱたっと、廊下の隅に抱え込んだ膝の上に落ちたものがあった。それが乾かずにいた汗だったか涙だったかは分からなかった。肌の上を滑っていくひとしずくが、軌跡を作って落ちていくまで、不意に強く背筋を震わせていた。怒りともつかない後悔が押し寄せ、止められなかった。
次は絶対に、あの扉の先を確かめよう。それが最後になるのだ。

希求も何もかも終わりにする。単なる不自由のなさ、その発端は一枚の扉だった。これまでは違和と呼んで、最後に行き着いたのも一枚の扉。表裏一体の扉一枚を隔てた反対側に血を分けた人々が隠し通したかった何からしきものがあった。見覚えのある姓名の住人が近隣に住んでいる。この符号を繋げたのは紛れもなく当人達の警告と態度の変化だった。一度の話で食卓は様変わりしたが、どうあったかを逐一覚えていようとはしなかった。次の計画を立てるのに細心の注意を払った。計画といっても、何をどうするものでもない。細心の注意とは、突き詰めれば二人の目を盗むことに他ならなかった。カレンダーの日付に書き込まれた記号は、数ヶ月の後、二人が家を丸二日不在にすることを意味していた。
都合のいい不在が二人にしてみれば決して楽観視出来ない状況だったことは、それから後に起こった騒動で嫌というほど知れるところとなった。予定の取り止めに至らなかったのがせめてもの救いであり、同時に最悪の事態だった。


坂の街に生まれて坂を疎まなくなることはない。頂上からの眺めで一時騙されるだけ、そして慣れるだけで、次もそうだった。男に聞いた通り、部屋の殆どは閉じ切っていて無人か、同等の静けさに包まれていた。時折、到底届きようのない、駅舎に停車するブレーキが雑踏を掻き分けて響きそうなくらいだった。空間が息をしていて、昼の内は熱心に音を食べているような、深雪を思わせる余韻を、ひたすらに持っていた。そんな只中に、一つだけ。窓の開け放たれている一室に目を奪われた。階下からでも分かる薄いカーテン越しに、ゆっくりと濃くなる人影があった。酷く鈍間な影がはっきり像を結ぶと、そこからは一瞬の出来事だった。

煙草か何かを吸いに開けたかに思われた窓からは、半身を乗り出して人が見えた。寝巻きにしては堅苦しいシャツに上着を引っ掛けた出立ちで、脱色した髪が日に透けている。先に案内を買って出た男に比べればずっと若く、学生にしては妙に草臥れている青年は、初め階下から他人が窺っているとは知らずに覗き込んだ様子だった。あ、と口が形作られ、互いは鏡像になる。しかしすぐさま青年は中に取って返して窓を閉じ切り二度と出ては来なかった。叫ぼうと思った。いや、泣こうと思って、結局はどちらにもならない。直立不動になって呆然とするばかり。どうしようか、部屋の前まで行くべきだろうか。無貌の部屋、その主に直接会って、それからどうすべきだろうか。家がおかしいのだと伝えるか、それとも、それとも。探すことを目的として据えた時間が相当にあったのが原因かして、後先のことがこれっぽっちも続いて行こうとしない。何分もそうしていたようかに思えたが、時が戻ったのは一瞬だった。青年は慌ただしく階段から降りて来て、険しさはそのままに立っていた。初めて相対した。初めてだった。
この人がそうなのか。似ているかどうかは分からないが、並んで写真でも撮りもすれば分かることだった。家には青年の写真は一枚もなかった。あって当然のものだったのに、一枚たりともなかったのだ。

「に……」
「何してるんだ」

青年は肩を強張らせたまま怒気を孕ませるが、一方でとてつもない嫌悪と恐怖が滲んでいた。檻から逃げ出した猛獣と遭遇して狼狽えているような。どう返しても、納得させられる気がしなかった。求められているのは『何をしているか』で、具体的には『何をしに来たのか』。これは至極明瞭で、会いに来たのだ。だから目的は既に達成されていて、新たに作らなければならなかった。青年はそれでも返答に迷っているのを頭ごなしに咎めるつもりはなく、思慮深い内容も期待してはいなかった。反応がないのに焦れたのか本来そうすべきでないと分かって青年は腕を引っ掴み、部屋の前へと引き摺っていった。僅かも触れていたくないのか、扉まで来ると乱雑に振り払った。

「お前が来るようなことがあればすぐ連絡するよう言われているんだ」「通報だよ。実の親にさ」「だからもう彷徨かないでくれ。困るんだ」

矢継ぎ早に言いたいことを告げ促すが、当の二人なら今はいない。青年は一切を知らされていなかった。連絡先を把握しているということは、青年の元を訪れる想定は予めされていたのだろうか。「通報されたらお前はこっぴどく叱られるのだ」と言いたげでも、脅しになっているようで全く意味をなしていなかった。この場合、標的になるのは青年だ。会いに行った、と誰にも告げずに家を出た。状況としては不自然な家出が成立していて、真っ先に関係者を当たって青年が免れるとは思えない。だが、そんな心配が今必要なのだろうか。

『どうして家にいないのか』。会いに来れば楽になれる。そんなのは想像力の欠如が見せた幻覚だった。迷っていたのは初めだけだった。聞きたいことは積み上がり、とうとう雪崩れを起こしていた。

「そんなのが訊きたかったのか?態々ここまで押しかけてそんなこと」

そうだ。知っている人々はあらゆる方法で口を閉ざしてしまった。だからこそここまで来たのだ、どうしても訳が知りたかったのだ、と哀願した。実親は言うに憚って教える気もなく、それが裏目に出ていることが分からない。それに青年が横暴な相手に見えていたら、きっと引き摺られている間にも逃げ出していたし、叫べもした。寧ろ恐慌状態なのは青年だった。頑なに引き下がろうとしないでいると、何処かに通話している。しかしながら通話先は固定電話回線だったのか受話器は上がらない。不在に諦めるまで、青年は粘り強く待っていた。通報が失敗に終わると、青年は吐き捨てた。
そんなに聞きたいなら教えるから、聞いたらすぐ帰れ。でないとお前が同じ目に遭う。

「おなじって、どんな目」
「だから、追い出されるってこと」
「追い出す?」
「父さんも母さんも、祖父さんもそう。近付きたくないんだ。俺も近付かれたくない。会いに来なくていいし、来るなって言われてる。でも目の届く所に留めて置きたいからここに住んでるんだ。祖父さん達の葬式にいなかっただろ。そういうことだ」

 青年は捲し立て終えると勢いは急速に萎んでいった。ばつの悪そうな顔がふっと自虐的に歪む。下がった眦が今にも泣きそうになっていた。

「帰ってこないのって、誰の所為?」
「帰れないよ。誰の所為でもないんだから。俺はもう兄弟じゃない」
「でもだったら、二人には知られないよ」
「そうみたいだな。留守番ほっぽって、何でここが」
「会いたかったから来た。だって、ずっと探していたんだよ。少しも……見付かると思ってなかった」

 兄さんとは呼べなかった。長いこと口馴染みがなく咄嗟に出ては来なかったが、奇しくも呼ばれたがっていないようにも見えて口篭れば青年は少しほっとして見せた。それでもやはり扉をすぐにでも閉じたがっていたが、無理に身体を割り込ませて玄関口に追いやった。吃驚してたじろぐ。心なしか身体が動揺で震えていた。見なかった振りをして、後ろ手に扉を閉めた。こうして室内に踏み入った時、全く身に覚えのない空間にも拘らず安堵した。違う室内に繋がる扉を潜ったと思って、それは全く見当外れだった。ここに、この部屋に繋がっていたのだった。青年も青年で、追い出そうとしてもかえって騒がれるのを危惧して無理に帰そうとはしなくなった。

 帰りたくなかった。帰れなかった。あの家には何もない。ここには家族がいる。『家にないものは家族ではない』。違う、真逆だ。家が先で、家族が隷属するのではない。家族と住む空間を家と名付ける。ただそれだけだった。青年は追い返そうとはしなくなったが厄介事に巻き込まれたとあれこれ思案している風だった。厄介事の方から押しかけられるとは夢にも思わなかったのだ。青年にとって、唐突に現れた家族は最早悩みの種でしかなくなったようだった。
 一刻も早くこの場から立ち去って欲しそうに青年が背を向ける。やはり上げるべきではなかった。そういった沈黙の中に、居た堪れなさを色濃く滲ませている後をついて回った。もっと話していたかった。もっと見ていたかった。部屋の突き当たりで、階下から見上げた窓と正対していると矢庭にカーテンが勢いよく引かれてしまった。元々日当たりが悪くなかったのか、外部からの光を遮られただけで薄暗さが際立つ。

「何を見てたの、さっき」
「別に。何にも」
「何処か出かける時間だった?」
「予定なんか作ってなかった。することなんてない」
「だって、服」
「服?」
「でかけるみたい」
「違うよ。用事ってほど大した所じゃ」

 直前、言い止してフローリングへ潰れるように座り込んだ。横に並んで座って続きを待つ。呆れ返って半歩分離れる。追う。二者の距離は平行線を保ちつつ、最終的に折れた方が話し出した。

「教えてって言ったよな。どうして追い出されたか」

 青年は明快に四人から受けた仕打ちを明かした。話の端々からは汚水に塗れた雑巾を何とか摘み上げて見せるような遠慮があった。その手付きめいたものは、多寡はあれ覚えのあるものだった。祖父母の葬儀に不参加であったのも、指示があったから従った。仮に呼ばれたとしても断るつもりだった。以降もほぼ絶縁しており、一階の男から『友達』の報せを受けた後は気が気でなかった。いっそ越してしまうか、新しい部屋探しに悩んでいたところに、折悪しく。つまりはこういう事情だった。

 彼は異性愛者達には受け入れられなかった。

「引越すの?」
「折半……向こうが半分家賃持ってるから、出る時は会わないとならない。それで縁を切って、終わり」
「待ってよ」
「なぁ頼むから、会いに来たとか妙なこと言い触らすなよ」
「言わない」
「なんで来た」
「空いてる部屋があって、変だなって」
「それで?」
「誰が使ってたか気になって、それが始まり。誰も知らないって顔した。絶対に知ってたのに」
「悪影響だからだろ」
「一緒に住むのが?」
「お前が俺をどう思うかじゃない。お前の周りがどう扱うかだ」
「よくわからない」
「他人を考えているようで本当は違うところが問題なんだよ」

 再び捲し立てそうな語気を引っ込めて、戻して、その繰り返しで始めの恐怖は立ち消えていたが、今度は苛立ちが現れて来た。外光が途切れた室内では隅の方から怏々とした埃混じりの空気が充満しつつあった。辺りの空気を肺いっぱいに押し込んで吐き出された舌端は、控え目に聞いても独言だった。

「気になって、終わりなんだろ。お前のその好奇心みたいなのは一過性だ、勘違いするな。飽きたら覚えてもいない。こっちは、こっちは飽きたからって仕方ない。何とか認めるしかないってのに、どうして……」

 長いことこんな部屋に閉じこもっていたからどうかしてしまったんだ。きっとそうだ。一度連れ出さなければ彼はもっと悪くなる。そう思った。但し体格の違いで簡単にはいかなかった。見兼ねて腰を浮かせるがそこから一歩たりとも動こうとしない。

「おい、待てったら。何だよ、急に。出ない、離せ」
「外行こう。ここじゃ駄目だ」

 言い出した手前ながら、無理矢理に連れ帰ってあの物置にもならない一室に押し込みたいとは思わなかった。絶対に違う。でも当てがわれた部屋だって違う。何処もかしこも彼の居られない場所だ。じゃあ、何処へ行けばいいっていうんだろう。彼と家族になる場所なんて一つもない。探しても探しても見付からないのは、我が物顔をした家の模造品の中に僅かもその余地がないからだろうか。追いやられて甘んじることで、末席を演じようと。

 違う。そんなのはおかしい。

「行けやしないよ」
意地の応酬の末に駄々を捏ね合う形から、気付くとこれまでになく食ってかかっていた。
そんなことが聞きたいんじゃない。
こんなことが、聞かせたいんじゃない。

「なんで決め付けるんだよ。だって、それならそっちにだって分かりっこないんだ。どれだけおかしなことが起きてるか」
「……おかしなことなんてずっと起きてないよ。お前が生まれて来たら出て行くからって言ったんだ、俺から」
「なんで?」
「なんで、なんでって訊かれたって知らないよ。俺が訊きたい……なんで、俺が出ていかなきゃならなかったんだ。言わされたなんて思ってない。決まってたことだ。おかしくなんてない。なんにもだ。そうだろ、なぁ」

 生まれて初めて兄弟喧嘩をした。けれどどれだけ言い争っていても、兄弟はどんな兄弟より希薄な関係だった。だから似て見えただけなのかも知れなかった。いずれにせよ彼は支離滅裂に弁明していて、これっぽっちも納得がいかない。それなのに突き放したり、増して手を離すなんて到底選べなかった。

「……わかんないよ」

 時報が遠い。心底欲しかったものが指の先に項垂れている。彼はいつしか何でもないものになっていた。

「あのさ、何しに来たのか、言ってもいい?」

僕は彼を見付けに来たんじゃなかったのだ。

「ねぇ、遊びに行こうよ」
胡乱に合う視線の先で、互いが漸く見つめ合う。

スピン

果たして、出来事は記憶違いだったのだろうか。あった、という憶え違いの産物に彼は悩まされ続けている。こうした一つの決着を与えようと試みたのはひとえに、彼はもう治りようがない、というはっきりとした兆しがあったからだった。詳述を省いて挙げるとするなら、彼は特質として、駅の構内を含めたホームの内側に立っている。だが一度車内に潜り込むと様相は一変した。恐らく同様の類似は、病院に居並ぶ長椅子の待合席、あるはまた客入りの多いカフェ、機内でも見受けられたろうし、実際の場面ではもっとずっと頻発し得る兆しだった。特筆して驚いたことの一つには、彼の動揺とも呼べる幾つかの反応の中で、これまではっきりとした事態は確かにそれと区別しようとしない側には不明瞭だとも言える。だろうものの、兆しを示す空間への到達をよりも明敏に伝える出来事があった。

スピン。一筋の。

彼は真に熱心な読書家ではなかったが、その時々の取り留めもない想像にあたかも合致したかに思われる一文を見付け出すのに長けた読者だった。願望を他者に書き表される瞬間、彼は途轍もない神秘を見、同時に途方もない深淵を垣間見た。実際はなんてことないな、という印象を受ける一文であろうとも、彼にとっては福音たり得た。一般の範疇に十分収まっていながら逸脱を決行し損ね続ける、ごく常識人であるところの日常は、懐具合との相談もなしにして散財しては読み耽ることに費やされ続けた。手近な紙片を即席のマーカーに使わずにいる自負があり、これを良識と言って憚らない、そういった観念を同時に持ち合わせていたことは彼への注目を失わせない要因だったと言えた。彼は自宅から書店に向かった。他国の何とかという、辛うじて覚えられる長さの著者名を手動入力の検索機に照会する。例によって彼の眼鏡に適う一冊を探そうと目論んでのことだ。そうして入力の覚束なさに自覚的になりながら在庫数を眺めた。発刊からの年月が相当数経っていたが為にその後の購買欲を飛躍的に増長させる、「0」の一桁を確かめた。入念さに欠けていたといえ、落胆は拭えない。しかしどう探し当てるかまでの諦めの悪さについてはここでは取り上げない。何らかの彼なりの努力があったのだ。
そして意中の本を手にした末、彼は暫く棚にも収めず、かといって目の届かぬ場所に放置もせず、本そのものの動作を失わせるのに徹した。これには重要な訳があって、彼の言に従えば共生の一歩目に必要なことなのだった。物質と空間を共有することが、表紙を開く前の健全な儀式で第一条件なのだ。この第一条件を満たした紙束は本へと役目を戻された。売り手の挟んだ注文伝票を手早く引き抜き、彼が蓄えた何冊かと同等の扱いを受けた。即ち、表紙を乾燥した指で割られ、ソフトカバーであったが為に喉の撓りを限界まで折り曲げられて。この繰り返しの終端に使われることを専ら期待されて付随しているものがある。細長い末端は毛羽立ち、新書のレーベルで共通している深緑の一本が、前小口から無闇に飛び出さないよう畳まれている。彼は開き切って癖のつきかかった頁に挿入しようと試みた。期待通りの内容だったか否かは、大抵もうこの頃になると頭の何処か四方に散逸してしまう不誠実さを恥入りはしたが、しかしそれすらも、ピンと張った墨糸から含ませた墨が払い落とされるのと同じ手際良さで消え去ってしまうのだ。
ギコギコと鳴るまで凝り固まった背を伸ばし、数秒と待たず一連の動作は完結し、再び続きに際して進捗を報せるだけを意図されていたスピン。少なくともこれまではそうあった。彼は瞬きの間に瑕疵に気が付いた。確かスピンは、全体の中程の位置に入れたままにしてある。四百頁に満たない全体の半ばほどのところに。

いつからそうなってしまったのか、或いは彼の努力が報われなかったのか。いや、努力一つにあっさり賄えるとは思い難い。紙面と文字の間を跨いでいる一本の川が彼にとってどういう意味があったか?


彼の手が躊躇いなくスピンを引き抜いて、瑕疵を発覚させた。咄嗟に別の棚まで飛んで行って他の本もまさかと思わされたが、結局はどの本も違った。どれも違う。
ならば何故、彼の前には縺れたスピンがあったのか。
全体の半分の位置に、二重の丸を模った縺れ、続いて、細かな丸の連続が、彼が掴んだスピンの有様だった。何処を引っ張ってももう元には戻らずかえって酷く解れてしまった。そこで彼は修復を諦め、本を手に入れてから開くまでの間に思い当たる節がなかったかどうかに考えが至った。とうとう思い浮かばず、彼は、『こいつとは共生出来そうにない』と決めて頁を閉じた。内容はもう一切合切、一行も頭に残らないよう努めた。癖が戻らないまま浮いた表紙を下、裏表紙を上にしておいた。二度と開くまいと誓って、閉じた。
あんなことは起きなくて良かった。彼は常日頃、スピンが真っ直ぐでなくなることで動揺したりしなかった。それよりも自宅近くに壊されずにある廃屋同然の一軒家がそのままにしていた割れ窓の方が気になっていた。街灯が毎夜照らす窓の割れ目がガラスとの明暗差を際立たせている通り。彼は捩れたスピンと割れ目の隙間の中央に立って、どちらからも距離を取った。通りを避け、本は隠した。これ以上の侵犯をされたくなかったのだ。
しかしどちらにせよ。だがどちらにせよ。彼はそうなってしまった以上は誤魔化し切れないと悟った。最善策を練った結果、再び本は本になったが、もう以前と同じではなかった。開かずの共生と再開との両方から、彼はどちらからも距離を取った。読み進めるのを放棄しても、頁だけは常に開いて持って歩いた。彼の格好は歩きながらでも行われたし、列車の移動でも同様だった。車内では彼が特筆すべき行動をしていないことは明らかで、大方の乗客は吊り革に捕まっているか、俯いているかのどちらかだった。彼は、この中で所在なくいる回数が多かったが、本を——正確にはスピンを——手に乗り込んで、呆然と視界に入れていた。
彼の兆しは、ここで輪郭を帯び、そして結実した。

私は、今になって正体を残す私は、彼と頁とを隔てるスピンが時をかけて縺れ、遂には絡まっていき、境界をすらなきものとせざるを得ないだろうことを光栄に思う。私はそれまでの紙片の内側から彼の頭の外側に向かって伸びる、一筋の光明を頼りにした。或いは、やはり一本の印が持つ効果は並ではなかったことが、然るべき機会を得て語られることを願っていたのだ。

スピン。一筋の。











瞳の座礁

 窓を開けて、カーテンを閉める。窓を閉じ切って、静止するカーテンの隙間から光は仄かに紙の上を貫き通した。一枚の布切れが夕窓に揺られている中、柔らかく拒まれた斜陽の一閃で漸く無言の紙面に気付いた。
 五本幾らかのボールペンは高過ぎた筆圧に堪え兼ねた挙句にインクを切らして、白紙の上に白い足跡だけを遺していた。ラムネ瓶の側に置いていた為に、紙の端はじわり滲んでいる。既に飲み干されたラムネの表面に、僅か纏わりつく結露がその原因だ。ビー玉の底に、カーテンと白紙が混ざって映り込む。
 また駄目にしてしまった。
 仕切り直し、とばかりにペンとインクを机上から退かし去る。新たに用意した紙片の白さを眩しがっても、いくらでも外界の日は高いままでいる。そうして、庭先のビニールプールが萎まされず置き去られている光景に何度も眼裏を支配されて、眼下に再びの黒い染みを作り上げた。
 ああそう言えば、実家のそれはもう譲られたんだったか。確か、近所付き合いのあった誰かに貰われて行ったのだ。『もう二人には要らないから』と、手元を離れて行った。どんな絵柄だったか、何色で描かれていたか、意匠はもうとうに思い出せやしない。ただ日差しに熱されたビニールの手触りだけはまだ思い出せた。夜店を真似て幾つも沈めたビー玉を足裏に軽々しく踏み付けていたのを思い起こすが、今ではぞっとしない行いだ。想像するだけで痛みが脊髄を駆け上がった。昔日の蛮勇には声も出ない。水に濡れたビー玉をアスファルトに落として伸びる、影のような線を追いかけていた頃が——酷く、もう酷く遠くにある。
 ビー玉一つで溢れたにしては、柔らかく、不快な暑さの裏側に瞳は座礁している。

あいつは、もう忘れてしまったんだろう。もう二人には要らなくなった話の端を、まだ書き留め続けている。

雪が降る町

 銀白色に積もる新雪の上には未来があった。何にも穢されない、荒涼とした未来が。その上に連なる足跡は、狐でなければ子供のものか、さもなくば知り合いのものに違いなかった。しかしながら左右に覚束ない足取りのすぐ先に、子供の足跡はもうない。徐々に大きくなった靴跡が暫く続いたら、何処かの地点でぱったり途絶える。
 雪の上の未来はある形を示し続けていた。奴は早くに兄弟を亡くしてからというもの、一人で二人分の兄弟になろうとした。兄も弟も兼ねようとして新雪を踏んだ。
 あいつは昔飼ってた犬のようだった。俺は止められなかった。燥ぎ回っているのを止められなかった。数時間後、愛犬は自慢の毛並みを二度と梳けなくなって、奴は骨と皮だけのままになって転がっていた。

 ここは雪が時を奪う町。誰もが春を待ちながら二度と雪が去って欲しくないと願う土地。俺の知らない雪下に、見知った、春を待てない未来達が横たわる明日を待っている。

 俺は戸口に立っていた。

my condolences.

 男は窓辺にダイヤルを回していた。大小図形を組み合わせたはめごろし格子窓が隔てた路地は猫も好まない道幅で、二人も並べばすれ違うのもやっとになる。そんな道ばかりが深閑とした店内で男は受話器を上げた。受話器の質量とは裏腹に先方の不在を意味する無機質な間と、男は座っている。
 もう毎晩の日課になるが、通話が繋がった覚えはない。少なくとも、繋がることで平穏には結び付かないのである。日の出の遠い辺り一帯では、男のかけた先に誰もいない事実を歪めずにいることこそが日常の証拠だったが、欠かさずかけ続けていた。
 気の毒に。延々と回され続けているダイヤルには本来ならもっと多くの声を届ける役目があった。今はもうない。
 男のすぐ横を影が通って行った。店先の外灯がぱっと遮られる。これでもう何週目になるだろう。通行人は恐らくその週もこれまでと同一人物であると思われた。現に窓際を通れば必然、おおよその背格好や歩調は知れた。大柄の巨漢ではない。路地の先によく転がっている中毒者の痩身でもない。相手は至って中肉中背の男と似たような体躯の人物で、荒い息遣いを時折溢しながら去って行った。
 何処の通りをどう渡り歩いて来るのか隘路を足早に抜けていく影の数は週を重ねていく内に、いつからか二つに増えた。受話器を壁に戻す。無言で椅子から立ち上がると、格子窓が目に入らない店の奥まで後退り、そのまま店を飛び出した。二人になってしまった。
 男は店番を早め路地に立っていた。右手は常に影の去って行く方向。左手はT字路に合流する枝道。

 何処に引かれた配線かも辿れない窖の先を進んで、二つ目の角で曲がろうとしたのは目指していた場所がなかったからだった。進まないのであれば戻るしかないがそれだけは出来なかった。進退を考えるべき岐路に差しかかった。後戻りをすることはなかったが、前にすら踏み出せなかった。
辺りを騒がせたのは一発の銃声で、どうやら店からはそう離れていない通りで起きたらしい。
振り返ってみろ、どうなっても知らないぞ。遠く離れた町で起こった災難として通り過ぎろ。でないと次はお前だぞ。耳にしたのは受話器の向こうで、この所男の相手をしている幻聴だった。

 三つ目の角を越え、四つ目、五つ目を曲がる。途中何処かでベルが鳴った。男が更に路地を行く。進む内に偏狭な頭上を仰ぐ頻度が増えた。電線が縦横無尽に這うが、薄がかった霧雨によってはっきりとは見通せない。よく見ようとして目を凝らし過ぎた所為で、何かにぶつかった。ドラム缶だ。そこはガラス屋の入った店先で、男にとっては不慣れな番地だった。やけに重い当たりが気になってドラム缶を覗き込んだ。中身はガラス屑で、大小に破砕されたものが詰め込まれている。いずれ再び溶解され、また積まれるだろうひび割れた屑の上で、黒線と男が交差した。

 ガラス屋を抜けて、男の息も切れ出した頃。投げ売りにでも遭ったかして置かれた書棚が蹴倒されていた。道幅の半分を埋めてしまった棚に妨げられていて通れず、果てのない路地の一部に行き止まりを作っている。妨げられていても埒が明かなかった。木製の、やはりドラム缶に似た重量感の棚を引っ張り起こす。その拍子に男は棚から飛び出してきた一冊の本を目撃した。きっと草臥れた古書で、棚ごと卸されたものが、こんな時にになって現れたのだ。だが表紙は殊の外真新しく、帯まで巻かれていた。ヨレのない宣伝文句が添えてあり
 『○○大賞受賞作』
漸く棚を元の位置に戻す。よろよろと様子を確かめに出て来た売主が男を見ていた。
 『もう終わったのかい』

 男が電話の前に戻ったのはそれから優に数日経ってからのことだった。日課は欠かさずにいる。席はまだ空いている。窓際のベルを鳴らし続けているが、受話器の脇でに黄ばんだ付箋が一枚貼り付けられている。何桁かの番号と、番号を大袈裟に囲む赤い円とが描かれていた。男は付箋を剥がして裏返すと、そこへ一筆添えて笑っていた。
 『はじっこ大賞受賞』
「ならなくてよかったな」

無泣の代償

 これだけあってまだ足りないか。先日同僚の葬儀に出た折に君を見かけたのだ、金なら出そう。くすんだ山高帽はブリムをへたらせて男の頭に渋々乗っかっていた。仕方のない主人だが、手足がなければ逃げ出せもしないのだ、すまないねといった風に。とは言え雇われる立場の少年も健全な手足が揃っていながら何故か逃げられない。男の言うそれは、もう何ヶ月か前の仕事だった気がするが。
泣き女をしている女がいた。彼女が母と知った日に女は泣かれる側になった。
 少年は貧しい。だが無為に吊り上げる真似はしない。だのに、斜視がちの幾分かずれた眼差しにうんざりする。あんまりに相場知らずの相手をするのにも辟易してしまう。こんな大金を出してまで弔問の少ない死人がどんなものか頼まれる都度気にならないと言えば嘘になる。何かの間違いで抜けた男が遣わされただけであれば追い返せもしたが、妙な慈悲深い、かといって博愛者の持つ気味の悪さにも欠けた男はまた金額を上乗せした。
 正直これだけあれば少しは生き延びられる。でもそれだけじゃ割に合わない。考えてもみろ。大金なんか持っていたら似たような連中の袋叩きに遭うのだ。噂はすぐに広まってやがて矛先を変える。転がり込んだ都合の良い話に食い付いた先にトラバサミをチラつかされて手を出したらどうなるか分からないような、酷い世間知らずじゃない。
 今回は丁重に断らなければならない。なるべく角を立てず、上手い話を断ったのは何故かと横暴な連中に疑われることのないよう慎重にだ。当然金は欲しいが金の為に愚を犯したくない。襲われない程度に、商売道具が枯れない程度に、食い扶持以上を望まないようにしておく。その矜持が、人として最底辺を這う少年の尊厳を守っていた。
 「泣くと喜ぶ人がいる」のは何も不幸なことじゃない。埋葬される頃になって、誰にも惜しまれず、泣かれもしない彼ら彼女らがしっかりと埋まるのを見届けて分かった。気付いたのだ。きっと彼らは喜んでいる。

 しかし結果的に少年は雇われることになった。粘り負けしてしまったのだ。

 喪服を纏う最前列は俺と使いの男だけ。かに思われたが、墓前には血縁者とも近親ともつかない数人が並んだ。特に一番に若い青年の手持ち無沙汰は明らかだった。彼にとっては儀式にさして意味はない。その無関心さが憎かった。少年にとっても彼にとっても死者は歩いていようが埋まろうが比較するに値しない。煤けた墓地の上を滔滔と流れていく神父の祈りの後で泣くのが仕事と言って、憐れみを誘う目的で泣けという注文は本当に骨が折れる。無駄に煩くせず、滑稽にならないように、かといってささやか過ぎずさめざめと、少年は見ず知らずの故人の為啜り泣いた。

 少年の働き振りがどうだったかは金を受け取った後から言えばまずまずといったところだったろう。けれども少年は後悔した。
無礼なことをした。自身は彼にとってこの上もない無礼者だったのだ。

 葬儀は滞りなく済み、三々五々に僅かな弔問客が捌けていく。喪主が誰かも覚えていないような葬儀の後で、少年にとっての大金を受け取る。信心なんて欠片もない式を終えて、墓地には青年の背中だけが残されていた。何かを待っているような、でも何処か取り残されたような、少年が見たこともない姿で彼が立っていた。そうして抱え持って来た花束を屈み置いた。

 十字架の下に備えた花束は花屋で買った物にしては嫌にこぢんまりとしていた。普通花束というと、供えるものであれ華やかに束ねられているものじゃないか。はっとして金をポケットに捩じ込む。関係ない。どんな物を墓前に供えようが他人の自由だ。口を挟むより、後はこの金をどう隠し通すかだけ考えていればそれでいい。

 それが、どうだろう。青年は貧相な花束の包みを矢庭に剥いで、十字架の上に撒き始めた。ひょっとするとその為の花束は、店で売られていたものではなくて庭先で育てられたものだったのだろうか。撒き終わった青年は天を仰いで、それから神父が手向けたのと同じ祈りを静かに捧げていた。同じ筈の、祈りを。

 彼は泣かないのではない。泣けないのでもない。振る舞いはいつも嘘を吐く。
悼むというのはあの背中のことを言うのだ。寂寞が、彼の隣にはいた。

「君かな。義兄さんが雇ったっていうのは」
「あ、え……あの、はい。この度はお悔やみ申し上げ、ます」
「どうも」
「喜んで、いると思います、きっと。亡くなられた人」
「——ありがとう」

 青年とは去り際、軽く手を振って別れた。少年は取って返してくるや今し方受け取った金は全て墓前に揃えて置いて来た。
一体どんな人が、あの人を残して逝ってしまうのだろう。一体どんな風に生きて来たら、あんな風に送り出せるのかは未だ辿り着けない。少年は後悔する。
 ああいう死に際に涙は要らない。要らないけれど、ああでも。
もしその人の為に流せたのなら、いい。


 遠い夢を見るような、無泣の代償はやけに晴れやかだった。

雪になぞる

 劣化を免れない遊具の表皮が下地を晒す公園にだって新雪が積もれば真っ新な更地に様変わりした。ブランコを支える茶けた鎖の、ざらつきを手に取る。滑らかさに真っ向から反駁しながら、指先を汚す錆ですらなぞり続ければ僅かながら落ちていった。
 誰の迎えもない帰り道、ふとなぞった砂場も生まれ変わった顔をしている。子供達が犬のように燥ぐのはまだ当分先になりそうな静けさを、そこは有り難かっているようにふっつり口を閉ざしている。始めから砂場も公園もそこにはなかったのかも知れない、という度の過ぎた微睡みの中にいてもいい。

 しかしそれも梅の香りがする頃にはやがて溶け消える。誰かに聞いて欲しかった時、誰もが耳を背けた言葉がなぞっては消える。いつのどの言葉も、誰にも見つからないでくれて心底助かった。後で振り返って羞恥に身を埋める羽目になるのは御免だ。
そうこうして蟠りを一つ解き解きしながら肌の火照りが引くのを待っていたかった。

「寒くねーの」

太々しい盗人の行方を遂に突き止めたぞ、と言わんばかりのご登場に内心びくついていた。だって俺の予定では、普段よりも機嫌の悪いままの彼が態々寒空の下まで現れるのは珍しかったのだ。これが所謂成長期の成果か。違うか。嗅覚ばかり鋭くなられても困ってしまう。

「寒いよ」
「馬鹿か」
「馬鹿かもねぇ」
「かもねぇ、じゃねぇんだよ」
「何だよキレちゃって」
「そりゃ宴会抜け出して悪びれもしてねぇ奴見付けたらな。結構あんぞここ、本家から。何してんの」

 慌てた様子もない、派手なスタジャン姿に中年が諭されている構図の言いようのなさと言ったらない。それが他人事でないなら殊更に酷いことこの上なく、彼が物心付いた頃には年寄り連中の相手を熟していたことを思い出せば末席を汚す一人二人の欠けが気になりもするのだろう。厄介な。大人しく退散してくれたら良いのだが、生憎とそんな気配は毛程も与えない。仏頂面の能面の何が良くて彼ら彼女らは持て囃したがるのか。理由は至極単純明快なので説明は省くこととする。全く、外見だけが取り柄でいてくれたら。

「悪かったよ。酔い覚ましだった。はい、これでどう?」
「もう一遍それ言ってみろ。はっ倒す」
「何だよそれ、訳分からん」

「分かれよ」
「……分からないよ」

 分かるつもりはないよ。どの道、あんまりだ。

「ああそ。じゃあそこで一晩凍えてろ」

 捨て台詞めいている、いいや寧ろ、あの口振りは意図的だろうか。一晩、だなんて。滅多な嘘にも程がある。自惚れさせないで欲しい、ただでさえ人が必死になっていると言うのに、あいつは。

「はは、冷て」

 もう少し待てばいいだろうか。砂になぞって、雪になぞり続けて。

梦中遊園に叫く


 ぼんやり眺めるハウス内の温度は快適そのもの。それに引き替えどうだろう。まだ続いている賑わいにはもう参り切った。採光窓が警告表示と共に閉め切られ、それまでお喋りに花を咲かせる彼女らは見る間に血相を変えて花園に滅びを齎す嵐の如く叫んだ。この研修先を選んでしまった絶望を表したのではない。白衣の彼女らがいる屋内に、一人二人、三人また、四人。純白の葬列が慌ただしく並び立ち、両脇を抱えられた彼女らは数時間の後に自らがどうなる定めにあるかを悟ったと同時に劈かんばかりに喚き散らした。

 ヒィイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼︎‼︎‼︎

 ハウスを波打たせた咆哮、その悲泣を何ら気にかける風もなく、新たな入室者は冷然と人集りを掻き分けて認証ゲートを抜けた。足早に駆け寄りつつも、青褪めた白尽くめの中にあって一人だけが額に青筋を浮かせていた。
「またやったのか」
 嗟嘆しながら、これ以上の時間を割けないとばかりに手元の液晶へ手早く何かを入力している。何の意味がある行為かを知らされない間、すぐに警告表示は解除されハウスは普段と変わらぬ静寂を取り戻していた。再び光彩の満ちた屋内の中ではコンクリート製の無機物な白い生き物の指示を待つのが常であったそれは、たった今その瞬間においてのみ何からも囚われていなかった。それは自由に動き回り、男を待っていた。また、が何を指しているか、考えに輪郭を与えようとして空調装置の駆動音にも劣るか細い声音で応えた。
「俺は、ただ」
「聞き飽きた。……何度言わせるつもりだ」
 言い飽きてしまった小言のいくつかをなぞりながら白衣を翻らせ男は膝を突く。黙っていくつかのチューブに配線を繋ぎ直し、不具合がないか、酸素の吸入量はどうか、四肢の状態は、傷みは。いくつもいくつも入念に確かめながら最後に「何もしていないかどうか」を訊ねて来た。何度となく繰り返された予定通りの内容に、自然それは歓喜した。そうして示し合わせたように状況をモニターする液晶の前で暫し逡巡した後首肯した。「何も知らない」。その一言が全てであった。
何も知らない。全ては排出され、美しい庭園は涼しい顔をしていた。ここにはそんな白々しい悲劇に付き合わされる男と、男の機嫌を損ねていると知りながら眼前にある命だけを一心に愛でようとするそれだけがある。

「各ミシリステ異常なし。損傷部軽微。当面の研修生立ち入りは担当主任に上申のこと。検査結果の不備及び監察部調書類該当項目については別途報告の旨連絡する。以上」
 簡素に記録を残して液晶の電源を落とした男は徐に腰を伸ばした。かと思うと突としてその場に寝転んだ。丁寧に敷き詰められた人工林の草原に沈み込む顔を、真上から覗き込む。険しさはそのままに、影になった男が呻く。
「何度目だ」
「分からない」
「嘘まで覚えたのか?」
「うそ?」
「隠し事のことだよ」
「多くは大抵秘密とも言うけど」男はそれに触れた。柔らかなものを受け入れる肢体の上には夥しい数の管が這い回り、各種の管が根そのもののように伸びている。そうしなければそれは物を見ることもせず、光を浴びることもない。男を除く者は皆ヴーツェルと名付け何年もの間隔離し、監視し、管理していた。ただ一人だけがタウムと密かに呼んでいたが、それ自身に意味の差を理解するだけの知能はまだない。少なくとも今は。
 しかし男は確信している。着古した白衣の下に管よりも夥しく犇くそれを枯らしかねないけたたましい叫きを潜ませていると知りながら触れる。
「新しい子達に任せるなとあれほど言ったのに……主任の配置はもうどうしようもない」
誰の話をしているのだかの一切に触れることなく、男はそれを愛撫する。心地の良い撫で方、甘い調子の語り口——全てがそれにとっては余りにも無垢過ぎた。
「こんなこと長く続かない。あの子も、お前も。タウム」
「うん?」
「もうやめなさい。何人追い出しても意味がない」
「かわら、ない」
「そうだ。同じなんだ。……変わらないんだよ」
「でも俺は会いたい。会いたかったよ」
「ずっと、だなんて言うんじゃないぞ、頼むから……」
「でも、」
 「大抵は嘘と同じなんだ。」男は一握の花を引き千切って四方に散らした。こうして散々な日の終わりに男は何もかもを諦め切っている。けれど、口の中で唱えるのはそれ、否。彼のことだけなのである。
 タウムは管の所為でぎこちなく動きを制限される四肢を引き摺って届くだけの範囲で応える。
「うそ、はひみつ」
「タウム」
「俺、はかくさない。ひみつはしない。だから、うそじゃない。ずっとは、嘘じゃないよ。『ずっと』を、かくさなくていいんだよ」
「……お前、何処で覚えてくるんだ、そんなこと?」
 熟れた口腔を晒す彼が柔らかく眉根を下げる。
「何処?どこって、どこ?」
「あー、いい。……何でもないよ」
 慈悲深く残忍な秘事の中に、或いは男の梦中遊園でそれはまだ息衝いている。