カーマンライン

 予め定められた時間通りに消えた。ただそれだけの街灯に戸惑って振り返る。背後はただ暗いだけ。
 
 捌けない雨水に艶めく石畳をブラックのオックスフォードが蹴って、軽快なステップを披露する。二歩、三歩。最後の四歩目は半歩で止まった。
 差していた蝙蝠傘を跳ね上げた。広がっていたのは傘の布地と似て非なる一面開けた黒だ。雨は止みかけている。
 「やぁ」
 随分余裕そうだが、大幅に遅刻してくれた言い訳にはどんな冗談を持ち出してくれるだろう。

 「ただ今迎えに上がりました、ご主人様」
 「誰がだい?」
 「またまた」

 まだ霧雨のせいで湿った空気を晴れ晴れと掻き消しながら恭しく差し伸べられる左手はまるで真夜中の晴れ間を謳う招待状のよう。何に招かれるかなら生憎と知らない仲でもない。
 
 「お手をどうぞ」
 「ご心配なく」
 「ノリが悪いんじゃないか?」
 「どう乗れば正解なのかな」

 今空と僕は最早ゼロ距離になった、気がした。抱いた思い違いを裁くべき公明正大なる判事は残念ながら欠席していた。そのまま永久に葬られ、土の下で大人しくしていてくれると助かるのだけど。
 彼が不平不満にむくれていたと思えば、足元の空をまたしても波打たせて、徐に担いでいた大切な仕事道具を守る蓋の掛け金を跳ね上げた。雨は止んでいる。目配せに頷くと、空のケースは放物線を描いて投げ渡されていた。あんまり雑に扱わないで欲しいと何度言えば分かって貰えるのだろうか。中身だけ無事ならば良いと思って。

 ぼやくのもそこそこに、暗天をそこいら中に散りばめた星空のど真ん中で構えた弓が丁度雲間に現れた弦月に重なって、何処までも憎らしい程様になっていた。悔し紛れに吹かした指笛が開演の合図だ。

 「それじゃあ一曲」

 吸い込まれるような、張られた四弦を統べる姿に魅入られてしまえば後はもう、観客と主催者の境界線は意味をなくしてしまった。

 海抜百キロメートルの特等席を独占した暁に僕は、名演奏家へ惜しみない拍手喝采を浴びせたのだった。