扉にのたくう有刺鉄線は、眠りに就いた国を守る為に張り巡らされた荊になった。助けは来ない。魔女も小人も死に絶えた。
けれどわるいろうばの差し出した果実を奪う口付けに毒なんてものが仕込まれていたらきっと、迷わず 僕は 食べてしまうに違いないのだ。口付けも吐息も全て。
そうして深い微睡みの向こうに居る君と再び城で 睡りに就いて。
浅い眠り浅い夢間の浅い朝の昼も夜もない小部屋の話。誰かは囁いて、けれど目を開けるともう誰もいない。そういう夢をまた見てる。何度も何度も、何度でも。
何処に居ても居なくても棘が拒めばやがて全ては同じこと。でも諦め悪く何度でも子供が結末の変えられない絵本を開く様にいばらの城へと足は向かう。
「あさだよ」
白み始めて間もない、生温くなりだす景色に背を向けている。しかし冷たいコンクリートが剥き出しの天井や壁の至る所にはまだ夜の足跡が残っていた。
「眠い」
「俺もねむい」
「……眠る気なんてない癖に」一晩中、何処かに夢だけ忘れて来たみたいな眼をして“眠れない”のだと宣う男が目を擦る。
「はやくかえりな。学校遅れるよ」
空の缶を片手に灰色の部屋の主が時計を指した。とてもじゃないがそんな気は起きない。いつもの時間に取り決めた予定通りに一日が続いて行く。規則正しい針の筵が腹を空かせて待っている。
「眠い」
「こら、ゆき」
全く弾まないベッドへ再び出戻るとコン、軽くて空っぽな頭とおんなじ音が後頭部の方で聞こえた。ゆきなんて、どこにもいない。勝手に呼ばれて馴染んだだけの何処にも居ない俺が此処に居る。
「きょうはちゃんとかえって寝なよ」
約束しただろと苦笑する傍らで、無理にでも追い出そうとする気配はない。いつものように、笑うだけ。
どちらにせよ今はまだ無理だった。脚と腰が引き攣って動けそうにないから。
犯人が白々しく仕方ないな、と笑う。薄情で、儚いなんていう 似合わない言葉がよく似合う。
「送ろうか」
「いいよ」
送られる気なんてさらさらなかった。俺の何一つも知られる訳にはいかない。男の事はこの廃屋を使っていること。それから酷い不眠症なこと。右手の薬指に何かを縛り付けた様な痕があること。それ以外の事は何も知らない。だから私情を知られるのはフェアじゃない。何かが傾けば均衡を保つ為に片方が動かなければならない。破綻を伴うバランスは、危う過ぎて手に余ってしまいそうで。
微睡み始める瞼の向こうで欠伸が聞こえる。
「ゆき」
段々と室内に差し込み始める温もりが訪れる頃に、
この廃屋からは人が途絶える。乾涸びた鉄の荊とひしゃげたフェンスの弱々しい金切声の残響が取り残される主の居ない空の城は、そうして目覚めないまま夜を渡る。
「ねぇ」
「なに?」
「昨日、何燃やしてたの?」
辛うじて動かせる腕で仰向けになって目を向けないまま天井の一点を見つめる。記憶の端のまだ新しい赤々と煌めく炎は此処には不釣合いに思えて、どうしても訊かずにはいられなかった。
「……本だよ。随分古い本だった」
「どんな?」
「分厚い本。気になる?」
訊いているのはこっちの筈なのに、意識していないと直ぐにでも逆転している。そうじゃない、と伝えてみても大抵効果は薄い。
答えに窮していると、男が勝手に喋り出した。
「騙されやすい王様に、色んな所の色んな話を披露する本」
その色んな、を話す気はないらしい。途切れた言葉を継ぐように疑問を口にする。
「……絵本じゃないの?」
それに近いやつなのかな、と再びの欠伸に紛れて男が言う。
「だれかが置いてったのかも知れないし、棄てて行ったのかも知れない。いつからあったのか憶えてないから」
ほんの少しだけ早口になっている。
「……そう」
「ゆきは絵本、読んでた?」
『どうして燃やしたのか』を訊く前に、男が訊ね返して来た。滅多にない事に、思わず問い返してしまった。
「なんで?」
「……なんでも」
その時男の瞳が、僅かに数度瞬いた。直接言った事はなかったけれど、喜怒哀楽の喜と楽に偏った起伏に乏しい男の、多分、哀に近い方の変化。一瞬過ぎて、気付いた時にいつもと変わらない顔がそこにある、無かった事が過ぎていく。本なんてあまり読んだことはない。空想の世界は子供の目には毒だと思う。
「へんなの」
男程じゃない気がする。
「俺はこっちの方が毒だと思うよ」
男は二人しか居ない辺りを見渡してこっち、と目配せをする。誰もが忘れてしまった嘘みたいな場所は毒であるべきだと。飲み込んでしまうとどうなるかなんて、小人も知ってる常識を笑って見せた。
「そうかもね」
どちらも劇物であるならば選び取ることは容易い筈だ。ふつりと呟いた言葉の雨垂が床へ耳へと滴り落ちる。ずぅっと眠らないで覚めない夢を見られたら良かった。
「そんなのしんじゃうよ」
「わかんないよ」
「そうかな」
「そう」
「……そうだね」
当たり前の様に近付く唇を受け容れる。
「ん……」
暗い脳裏に思い描く物語の続きに、訪れる眠りの中に君はいないのだ。
「ゆき?」
意識すら既に手の中にはなかった。
またね。
そんな 眠たい声を、聞いた。
「…… おやすみ しらゆき」