私の友人はよくよく写真を撮った。金などないからなるべく出費の少ない方法であちらこちらを巡っている。趣味だという。しかしその友人が昨夏からぱったりとそれらを全て辞めた。訝しんで彼に何かと理由を付けて外へ誘った。それとなく事情を聞き出したかったのが原因だった。
自宅近くの喫茶店で、清潔な居住まいのまま彼に正直な気持ちを打ち明ける。趣味一つでとやかく言って鬱陶しく主張を押し付ける人間だと思われまいとしたのか、嫌に饒舌な私は弁明に徹した。諦めが付いたのか、友人は渋々といった様子で何も言わずに懐に忍ばせていた一枚の写真を恐々とテーブルの上に置いた。
何かと思って手に取ると何のことはない。何処か知らない場所のスナップで、聞けば団地の共用部である外廊下壁面に設けられたスペースを使って配管が何本か通っており、写したのはその内の一本であるという。そして被写体として選んだと思しきピントの合った中央左寄りに伸びるパイプには大きく『汚水管』のラベルが貼られている。一体これがなんだと言うのだろう。持ち歩いていることにしても、何かあるな、と私は彼に目で先を促した。
「俺はこれを祖父が死んだその日に撮ったんだ。この配管は住んでいた部屋から外に繋がっている。それを収めた」
彼が何を言いたいかを薄々察した。つまり原因がこれだったと言いたいのだ。だから私はなるべく慎重に先の言葉を選んだ。
「君は確か道端で死んでいた椋鳥や野良猫や烏、色んな死骸を撮り溜めていたじゃないか。何故この一枚をそこまで酷く恐れているんだ?」
「恐れてはいないよ。ただ」
言い淀んだ彼の唇は真っ青になっていた。「ちらつくんだ」と続ける。
「この写真の表面が問題じゃないんだ。何か、俺はこの写真に良くないものを写したんだ。でもはっきりとは分からない。分からないから不安なんだ。それがどうしても頭から消えない」
「不安?」
「よくないもの」。復唱すると写真を見る。そうは言われても、撮り手としての主観と他人から見た印象は異なっている。どんよりした色調であればまだそれらしくも見えたろうか。しかし画面は特別暗くもなく、不気味な感じは受けない。被写体に寄り気味の為にぱっと見がとても抽象的な写りなので彼だけが際立った反応を見せているだけに過ぎないとも言えた。
私は彼が示す原因とは最終的に、被写体を撮ろうとレンズを向けた時の何か惨たらしい衝動が後から見返した際に何と呼ばれるかについて、見つけられずにいるからだろうと類推する。だからやり場のない『不安』を形にすることが出来れば所謂スランプのこの状況を脱せると思ったくらいだった。そして彼の言う『正体不明の不安』に私は覚えがある気がした。
「罪悪感とは違うのかい?」
「え?」
それは罪悪感に似てはいないだろうか。後ろめたさに目を背けたいのにもう手遅れな罪悪が呼び起こされてしまうから彼は写真を辞めたのではないか。彼は不可解な言に先程の私と同じく復唱する。「罪悪感」。
「いいや、違う」
きっぱりと言い切る彼の目が一瞬間異様な光を灯した。頼んだコーヒーをそこで一口含み、もう一度。今度は意気消沈した面持ちで「違う……」。
「どうしてそう言える?」
「だって俺はこの不安をどこかで見たことがあるんだ。お前だって写真は撮っていたろう」
ぎくりと肩が軋んだ。彼は私の目を見てやけにはっきりと切り出した。そこで私は何か嫌な予感を催して咄嗟にマドラーを使ってグラスの中身を態とらしく掻き混ぜてはみたものの、動揺は隠せていなかったに違いない。
私は彼のようにスナップは余り好まない。しかしポートレイトを頻繁に撮る。老若男女問わないが、内の何枚か、いや何十枚かには上る枚数に彼を収めていた。当然了承も得ているから盗撮ではないし、そんな私の趣味の一体何を彼は聞きたいのだろう。知り合ったきっかけとは離れているが、ただそれだけ。それだけのことを。
「実は俺も、お前に聞きたいことがあって来た」
「あ、ああ。何だ?」
そうか。私は気付いた。だから態々写真を懐に入れていたんだな。何か交渉をしたがっている。彼はそう思わせるに足る圧をもって少しだけ唇を歪ませた。
『お前の撮った俺の写真にも同じ『よくないもの』が写っている』
もしこんなことを言われたらどうしようかと手に汗握っていた。有り得ない、全て彼の思い違いだ。私は言い聞かせるとマドラーを回していた手を止め、グラスを口に運ぶ。驚くほど味がしなかった。
「もし気を悪くしたなら許して欲しい」
神妙な顔付きで、差し向かいに座る彼は前傾姿勢になっていた。
「君をそんな風には思わないよ。何なりとどうぞ」
私は『不安』を押し殺して、彼の続きを待ったのだ。