鼻先の霧の向こうを眇め、電話口のコールが途切れるのを心待ちにする。川面を望む出窓は結露に覆われて景色の色味ををぼんやりと滲ませてしまってもいる。年中こうなものだから今更とやかく思うこともないが、何度か掛け直すよう予め告げられていたにも関わらず受話器を握る力が強まった。
若気の気分転換と偽って、余暇の合間に遠く離れた土地に赴く趣味を持っていた頃。汽水湖で知名度を誇るとある旅先。そこで奇妙な男と相部屋になった。宿の空き具合からして、何も態々旅先に不知り合いと泊まりたくもなかったのだがそこは互いに懐事情。成程確かに決して上等とは言えない部屋の並んだ木賃宿だ。一部屋分を出すには惜しいが、折半ならば構わないという腹積りでいたのだ。あらゆる国に住んでいながら何処にも定住しない贅沢な旅人風情。それが男を招き入れた印象だ。
よくよく確かめてみた男の本性はというと、実のところ旅人でも放浪者でもロマでもなく、食べ歩きの専門家だった。あらゆる土地の文化に根差した郷土料理を中心にしているという。食べ歩きというのも語弊を生じかねないのだが、所謂美食家とか食通だとか、そういった肩書きで呼び表すには少々違和感が残る。なので最終的にこの形に落ち着いた。
方々を巡っていると時折巡礼者と間違われるだの、何を思い違ったのか施しを受けて困ったなどといった笑い話は殆ど面と向かって交わされた試しがない。どうやら土産話は持って帰らない作法らしい。
遂に耳元に現れた男は慌ただしく第一声を上げた。
「全く羨ましいね。こちとら湿気た看板の上げ下げでも一苦労だって毎日なのに」
『仮にも名高い旧市街に住んでいながらよく言うなぁ。バチが当たっても知らないぞ』
「バチだって?水路のお陰で霧はしょっちゅう、舗装されている割にどんな車でも快適に乗っていられない街の何処がいいって?」
『こっちだって好きで飛び回ってるんじゃないぞ?浮世離れの旅烏なんて夢のまた夢だ』
「夢だろうとなんだろうと現にあんたはこっちには居ないんだ。俺には正しく悪夢だよ」
『贅沢だな、君は』
肥えた舌が何を言う。それに、そう。
美しさが自慢の街を忌んで溢れた文句ではないのだから、見えないところで笑うのは止して欲しい。今度会う予定を取り付けたいならほんの少しの本音は必要だ。
「なら早く帰っておいで」
四目並べの盤面は依然元に戻されず樫の古めかしいテーブルの上で勝負の続きを待ち侘びていた。