「なぁ、これ聴いてみて」
時折、彼に逢うと思うのだ。気の所為にしていた瞬間も、不思議と憶えていない瞬間も、彼には一つ一つが持って帰らなければならない成果物だ。機材を纏めたバッグが部屋の決まった場所にない時、彼が何の為に向かったかは分かっていた。分かっているのは、具体的な「何処」ではない。目的と、その用途についてだけだった。
俺はこうしてじっとしているだけで、周囲の環境や空気の波立ちや温度が持つ手触りを後から掬い取るなんて行為に意味を見出せていない。今もそうだ。ただ一つ、それを試みている子がいるのは知っている。
そこら中山になっている機材の真ん中を陣取って、旅から戻った彼の成果が出て来るのを待っていた。荷解前に制止しておく。
「戻ったなら声かけて」
「ごめんて。これお土産。駅前のコンビニにあった」
「こっちでも買えるんじゃないか、これ」
「でも俺が買った方が好きでしょ」
「いや……?」
理屈の通らない押し付けに賛同しかねて首を捻る。ビニール袋の底に入っていたのは、市販品の菓子袋と、見慣れない形をした瓶ジュースが一本。屋台のラムネ瓶のようなシルエットに貼り付けられたラベルの表示には酒類とある。つまみとアルコールだったみたいだ。レシートがないので、代金を払おうにも分からない。分からせたくないのかも知れない。
「飲めるのか?」
「飲めない」
「なんて言って買って来たんだ、未成年」
「免許証ありますっつった。したら見せろって言われなかったんだけど、問題?」
「店の問題。売ったら違法だよ」
「そっかぁ」
土産というから飲酒のつもりはなかったのだろうが、杜撰な店員と危機感のない客には浮かない気になる。
今一真剣に聞き入れられない注意をそっちのけにして、荷物からは早速戦品が登場した。片手に収まるサイズのレコーダーは、これまで彼が沢山の成果を上げるのを助けた優等生だ。今回は片道一時間をかけて向かった街だったそうで、忙しのない人々が行き交う空間の、断片が収められている音声ファイルの最上段のものを開いて、有線ケーブルの端子を捩じ込んだ。程なくしてヘッドフォンの向こうからやって来た音の波が容赦なく押し寄せた。
単調な、ありきたりのコード進行を置き去りにした異国の歌のように往来が奏でるノイズの不協和音に、毎度のことながら呆れ返った。
「いつもより長いんだね」
「そうそう。五分くらい?言ってもこの前なんか、ほら、あそこの繁華街で録って来たやつは夕方だから結構静かめでさ。欲しかったのとは違ったけど悪くなかったから、その感じで」
「そう」
数多の騒音が、風防越しのマイクを通して耳介を過ぎていく。雑踏に押し潰されようとする彼の背中が頭の中で飽和して弾け、また現れる。繰り返し繰り返しそうして身を委ねていると、次第に遠くに離れて行った自我が引き戻されるのを怯えて叫び始めるのだ。“二度とごめんだ”と、雑踏の中に紛れ込んで行こうとして、慌てて引き留めることになる。
この子の悪い癖なのだ。いつだって俺を何処かに連れて行きたがる癖。インドアではない。出不精なことは認めるけれど。
「謎な趣味だよ」
「そう?なんかこういうのさ、寝る前に聴いたりすると落ち着くんだよなぁ。交差点のど真ん中に寝てるみたいに思えるし、そんな馬鹿してみたかった、って空想も叶うしさ」
「やりたかったとか?」
「んな訳ないじゃん。やっても止められるに決まってるだろ?近所の人とかに」
「経験者ぶってるな」
「ちーがーうってば、そんなのやらないよ」
「だと良いけど」
「ずっと聴いてたくならない?」
まだまだ聴かせ足りないといった無邪気な声音を拒絶する。
「人ごみが苦手だから、俺には分からないよ。煩いだけで、ちっとも」
「……そっか」
つまみの袋を無造作に開いて差し向けると、彼は首を横に振った。
「俺はいらない。辛いの駄目だし」
そういうことならと、瓶と開きかけのつまみを冷蔵庫に放り込んだ。喉は乾いていない。ごちゃごちゃと散らかったままの部屋で、やっとのことで戻って来た劣情が剥き出しの肌に触れたがっていた。空き袋を端に追いやってしまってから、隙間のないよう抱き竦めてみた。
「こうしたらおんなじ」
「だろうよ、すけべ」
キスの一つも落とすと、柔らかさが言葉の端に滲んでいる。
「じゃあ、こういうのは録らないんだな。後から聴いて落ち着いたり?」
「ならない、しないっ」
「そうなの?」
「お前、へんたい……」
「そうかな」
むくれた頬に心が擽られて、羽交締めにした布越しに脈拍が伝わる。
この音だって残すことは出来る。肌の上を指が掠めた。
「っ!」
「凄い音」
「……口から出そう」
出せるものなら出して欲しいが、恐らくそんなことが言えなくなるような事態が起きていた。一体何を、無言で訊ねる。
「信じてなさそうだったから、こうしたら分かるかぁ、って」
「………………あのさ、一応訊くけど」
「なんだよ」
「抵抗ないの、これ」
「そんなには」
ある方がおかしいのだろうか。彼の心臓に顔を押し当てられている格好は、さながら犬と飼主だ。撫でられでもしようものなら流石に耐えられなかった。居た堪れなさに思わず抱き返してしまう。
「安心する?」
「胎ん中みたい」
「憶えてる訳ないのに」
「胎内ってさ、どんな感じか憶えてないのに懐かしくなるよな……ずっと前に居たから、あの中に」
「胎内回帰だね、赤ん坊になりたいの」
「ならないよ。老けたらどうせまたもう一度子供に還るんだ」
「嫌な空想」
「ほんとだし」
「聴こえてる」
「どうよ、張り裂けそうじゃね?」
「自分で言っていいの」
「……分かんない、けど、ほんとだし」
「録っておく?」
「やだ、俺のなんか要らない」
自らの心音を要らないと言い張って、紅潮させているところに、僅かながら苛立った。
そんなことをしたって、無駄だ。要らないなんてどれだけ言って見せたところで頷いてはやれないのだし。
要るよ、と返すよりもっと良い方法を二人は知っていた。
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2023.5