『購入者募集中』の茶けた誇大広告を掲げた、通り抜け不可のテープに彩られた所謂空地と呼ばれるものの前を横切る。その場所を通れば近道になると知っている少数派だけの特権を振りかざし、抜け道の往復を重ねていく日課を繰り返すこと何回か。その頃にはもう縦横無尽に埋め尽くされた緑の間に淡いナガミヒナゲシが群生する季節に差し掛かっていた。点々と咲くヒナゲシの、頼りなく伸びる茎の先に花弁が乗っている様は何とも頼りなく思われて、当の空地は傍からは荒れ放題の有様だった。しかし不思議なことに、一体誰が手を入れているのかある程度踏み込むと地面さえ覗いている。淡紅色の彩りとざらついた土との内側には、外から見え難いのをいい事に、近頃はドラム缶や不法投棄紛いの廃棄物が散見され始めた。
そろそろ通れなくなるのかも知れない。これまで楽が出来た分、どうこう文句を言うのはお門違いと割り切ってその日も足早に空地に立ち入っていた。
敷き詰められたように咲くヒナゲシと、錆の目立つ原色のドラム缶の間に妙な物を見付けていた。所謂、人だ。人の頭部が草陰の間から生えている。位置からすると地べたに座り込んでいるのだ。どうしたのだろう。
明らかに声をかけるべき状況に、尻込みをする。恐らく今この空地に無断で立ち入った二人を見咎める者は誰もいない。
「……」
もっと暑く、或いは凍えそうな季節だったら。家路を急ぐ理由を見付けてすぐにても空地を抜け出ていたと思う。彼の心配をする必要はなかった事が、その手の中で捲られていく頁を見てはっきりとした。彼は誰を気にすることもなくそこに寝そべって本を読み耽っていたらしい。
「ねぇ、それ楽器?」
「えっ……俺?」
「君以外誰もいないんだから、そうだよ」
驚いて肩から滑り落ちそうになった荷物を指して彼は頁から徐に顔を上げ、目尻を細めた。渋々ケースを下ろして開いて見せる。どうしてこんなことをしているのか、互いに理解していない邂逅だった。または、もうすぐなくなるだろう近道で。野良猫一匹ですら通りかからなかった空席にぽつり一人訪れた彼に興味が湧かなかったと言ったら勿論嘘になってしまう。
想像とは違う結果を面白がったのか、ケースを覗き込んだ彼は首を傾げつつ、
「へぇ、三味線?」
「三線。三味線の元になった方」
蛇革を張った本格的な物ではなくそれらしい柄も入っていないが、人工皮革で作られた三線そのものを取り出す。天、チラと呼ばれる先端から猿尾までを真っ直ぐにそれぞれ男弦、中弦、女弦が張られていて、全長以外の佇まいは三味線そのものだ。混同しやすいのも頷けるし、実際始めたばかりの頃は違いもよく理解していなかったのが本音だ。
「弾けるの?」
「まぁ、練習中で」
「そういうことなら、偶に土手の向こうで弾いていたのは君だったのかな。良かった、幻聴かと心配してたんだ」
外なら消音のウマを使わずにいても平気と考えたのは甘かったようだ。彼は思ったよりも気さく、かつ奇妙な物腰で三線の爪を矯めつ眇めつしているが、一応止めておくことにした。
「カラクイには触らないで。弦が緩む」
「カラクイ?」
「糸巻き棒のこと、ここだよ。張るのにコツが要るから」
「そうか、それは悪いことしたな」
「え?」
「いや、もう一本切れてるみたいだ」
「……ええ?」
「いやいや、俺じゃないよ。出してくれた時にはこうだった」
止めようとした時には既に遅かった。糸巻きの先に立てるうたくちと呼ばれる板が外れており、三本伸びている筈の弦が一本切れていた。不法侵入の罰だろうか。張り替えてから暫く経っている弦でも、こうは簡単に切れたりしない。といって、嫌疑をかけたい彼は、今一信用しにくい風貌なものの濡れ衣を着せたくなるような悪人の様相には些か乏しい。自らの落ち度があったと思って三線を仕舞い込んだ。
この先もうずっと弾かなくてもいいのだ、という気分に追い落とされてしまっていたに違いない。彼は慰める様に手招き、隣を促した。用意の良いことに足元にはきちんとシートも敷いてある。傍らで平積みになった何冊かの本を見るに、それが読み終えて積み上がったものなのか、これから開かれていくものなのか——厚くもなく、流行りに疎い所為でそれらの表紙からどんな本かも分からない。自分がよく目を通すものは、遠く離れた地元の台風を警戒する記事と三線の教則本くらいだから仕方のないことである。
「……何の小説?」
「これは辞典だよ」
「文庫本だけど」
「サイズは関係ないよ。ケースに入った辞書の方が馴染みがあるのかもね。編纂者がいるようなきちんとした辞典とは違うものだけど、立派な“辞典”だ、紛れもなく」
差し出されたページは幾つもの単語の先に、注釈の形で見慣れない説明が書き添えてあった。字義そのものの説明ではない何か好き勝手な独り言が、ふんだんに込められた皮肉混じりに長々と書き連ねてあるだけに見える。そういうニヒリズムの溢れた人が著したもの、ということだそうだ。
「これを書いた人はね、消えてしまったんだ」
「消えた?」
「出かけたきり行方不明のままだって話だそうだよ。でもきちんと本だけは後世にこうして伝わっていてね。興味深くなって、何度も読み返してるとここに来たくなる。というか、読み終えるといつも荒野か、何もないだけの風景が見えて来る気がして。そうやって気づいたら想像通りの、この場所を見付けてた、が近いかも知れないな。君は外で三線を弾いてて何か浮かんだりする?」
パラパラとページを捲っているだけの彼は感想を呟くだけ呟いて、視線を紙面に戻す。人を空地の一部にでもしようと目論んでいるのか、訊くだけ訊いて反応を気にする素振りはない。尻込みした時間はどうやら無駄だったらしい。空地を目指している誰かがいるというのもおかしな話だが、その内空地に溶け込んで行くんじゃないかと俄かに考え始めてしまった。実際、今まで遭遇した経験がなかったのだから生えて来たと自己紹介されていたら信じただろう。雑草でもあるまいし。
そんな雑念に区切りを付けてケースを叩いた。
「何にも。調弦が苦手だから、いつも弾いてて合わなくなるのが嫌だ、とかそんなことしか浮かばない」
「案外生真面目だね。ズレててもここからだとそんなに気にならないけれど、そういうものか」
「口笛じゃないんだから分かる人には分かるよ」
「なら俺は分からない観客かな?」
「俺もこんなとこで聞く人初めて知ったけどね……」
「結構快適なプレミアシートだよ」
軽々に言ってのける彼は、また空地の何処か遠くの方を見ていた。季節外れの秋茜でも見付けたいのか。
二人の前には、生い茂った背高の薮がある。薮を超えると、すぐ隣にバイパス道路と畑が何食わぬ顔をして広がる。けれどもこの薮から視線を上げないことにはそのいずれも見ずに済むのだ。
蜻蛉は疎か野鳥の一羽も飛ばない、切り取られた空地の向こう側の埋める土手を浮かべてみようとした時、それが上手くいかない代わりに、先程にも増して嫌に切れた弦の切れ端が眼裏をちらついた。
一体何処に行ってしまったのか、ヒナゲシを踏み付けて立ち上がった。と彼の方からボトルを差し出された。紅茶の生温いボトルが琥珀色を湛える。
「蓋は開いてないからどうぞ。付き合ってくれた駄賃にでも。それとも紅茶は苦手だった?」
「そうだね、あまり飲まない」
「だったら押し付けるのはやめておくよ。また弾きに来るんだろう?」
「どうかな。いつも同じ場所で弾いてるんじゃないし」
「そうか。まぁそっちに観に行くつもりはないけれど、俺ならここにいるから君が良ければまた来て欲しい。居なかったら申し訳ないけど」
申し出なのか、打診なのかをはっきりさせないままにケースを背負い込んだ。
「だったら、また下手くそなのが聞こえでもしたら俺の知らないところで笑ってて」
キャップの開く小気味の良い返事がした。
顎を持ち上げる。バイパスの頭上に描かれた長く長い白線を臨むと、青い涼風が頬を撫で付ける。