スピン

果たして、出来事は記憶違いだったのだろうか。あった、という憶え違いの産物に彼は悩まされ続けている。こうした一つの決着を与えようと試みたのはひとえに、彼はもう治りようがない、というはっきりとした兆しがあったからだった。詳述を省いて挙げるとするなら、彼は特質として、駅の構内を含めたホームの内側に立っている。だが一度車内に潜り込むと様相は一変した。恐らく同様の類似は、病院に居並ぶ長椅子の待合席、あるはまた客入りの多いカフェ、機内でも見受けられたろうし、実際の場面ではもっとずっと頻発し得る兆しだった。特筆して驚いたことの一つには、彼の動揺とも呼べる幾つかの反応の中で、これまではっきりとした事態は確かにそれと区別しようとしない側には不明瞭だとも言える。だろうものの、兆しを示す空間への到達をよりも明敏に伝える出来事があった。

スピン。一筋の。

彼は真に熱心な読書家ではなかったが、その時々の取り留めもない想像にあたかも合致したかに思われる一文を見付け出すのに長けた読者だった。願望を他者に書き表される瞬間、彼は途轍もない神秘を見、同時に途方もない深淵を垣間見た。実際はなんてことないな、という印象を受ける一文であろうとも、彼にとっては福音たり得た。一般の範疇に十分収まっていながら逸脱を決行し損ね続ける、ごく常識人であるところの日常は、懐具合との相談もなしにして散財しては読み耽ることに費やされ続けた。手近な紙片を即席のマーカーに使わずにいる自負があり、これを良識と言って憚らない、そういった観念を同時に持ち合わせていたことは彼への注目を失わせない要因だったと言えた。彼は自宅から書店に向かった。他国の何とかという、辛うじて覚えられる長さの著者名を手動入力の検索機に照会する。例によって彼の眼鏡に適う一冊を探そうと目論んでのことだ。そうして入力の覚束なさに自覚的になりながら在庫数を眺めた。発刊からの年月が相当数経っていたが為にその後の購買欲を飛躍的に増長させる、「0」の一桁を確かめた。入念さに欠けていたといえ、落胆は拭えない。しかしどう探し当てるかまでの諦めの悪さについてはここでは取り上げない。何らかの彼なりの努力があったのだ。
そして意中の本を手にした末、彼は暫く棚にも収めず、かといって目の届かぬ場所に放置もせず、本そのものの動作を失わせるのに徹した。これには重要な訳があって、彼の言に従えば共生の一歩目に必要なことなのだった。物質と空間を共有することが、表紙を開く前の健全な儀式で第一条件なのだ。この第一条件を満たした紙束は本へと役目を戻された。売り手の挟んだ注文伝票を手早く引き抜き、彼が蓄えた何冊かと同等の扱いを受けた。即ち、表紙を乾燥した指で割られ、ソフトカバーであったが為に喉の撓りを限界まで折り曲げられて。この繰り返しの終端に使われることを専ら期待されて付随しているものがある。細長い末端は毛羽立ち、新書のレーベルで共通している深緑の一本が、前小口から無闇に飛び出さないよう畳まれている。彼は開き切って癖のつきかかった頁に挿入しようと試みた。期待通りの内容だったか否かは、大抵もうこの頃になると頭の何処か四方に散逸してしまう不誠実さを恥入りはしたが、しかしそれすらも、ピンと張った墨糸から含ませた墨が払い落とされるのと同じ手際良さで消え去ってしまうのだ。
ギコギコと鳴るまで凝り固まった背を伸ばし、数秒と待たず一連の動作は完結し、再び続きに際して進捗を報せるだけを意図されていたスピン。少なくともこれまではそうあった。彼は瞬きの間に瑕疵に気が付いた。確かスピンは、全体の中程の位置に入れたままにしてある。四百頁に満たない全体の半ばほどのところに。

いつからそうなってしまったのか、或いは彼の努力が報われなかったのか。いや、努力一つにあっさり賄えるとは思い難い。紙面と文字の間を跨いでいる一本の川が彼にとってどういう意味があったか?


彼の手が躊躇いなくスピンを引き抜いて、瑕疵を発覚させた。咄嗟に別の棚まで飛んで行って他の本もまさかと思わされたが、結局はどの本も違った。どれも違う。
ならば何故、彼の前には縺れたスピンがあったのか。
全体の半分の位置に、二重の丸を模った縺れ、続いて、細かな丸の連続が、彼が掴んだスピンの有様だった。何処を引っ張ってももう元には戻らずかえって酷く解れてしまった。そこで彼は修復を諦め、本を手に入れてから開くまでの間に思い当たる節がなかったかどうかに考えが至った。とうとう思い浮かばず、彼は、『こいつとは共生出来そうにない』と決めて頁を閉じた。内容はもう一切合切、一行も頭に残らないよう努めた。癖が戻らないまま浮いた表紙を下、裏表紙を上にしておいた。二度と開くまいと誓って、閉じた。
あんなことは起きなくて良かった。彼は常日頃、スピンが真っ直ぐでなくなることで動揺したりしなかった。それよりも自宅近くに壊されずにある廃屋同然の一軒家がそのままにしていた割れ窓の方が気になっていた。街灯が毎夜照らす窓の割れ目がガラスとの明暗差を際立たせている通り。彼は捩れたスピンと割れ目の隙間の中央に立って、どちらからも距離を取った。通りを避け、本は隠した。これ以上の侵犯をされたくなかったのだ。
しかしどちらにせよ。だがどちらにせよ。彼はそうなってしまった以上は誤魔化し切れないと悟った。最善策を練った結果、再び本は本になったが、もう以前と同じではなかった。開かずの共生と再開との両方から、彼はどちらからも距離を取った。読み進めるのを放棄しても、頁だけは常に開いて持って歩いた。彼の格好は歩きながらでも行われたし、列車の移動でも同様だった。車内では彼が特筆すべき行動をしていないことは明らかで、大方の乗客は吊り革に捕まっているか、俯いているかのどちらかだった。彼は、この中で所在なくいる回数が多かったが、本を——正確にはスピンを——手に乗り込んで、呆然と視界に入れていた。
彼の兆しは、ここで輪郭を帯び、そして結実した。

私は、今になって正体を残す私は、彼と頁とを隔てるスピンが時をかけて縺れ、遂には絡まっていき、境界をすらなきものとせざるを得ないだろうことを光栄に思う。私はそれまでの紙片の内側から彼の頭の外側に向かって伸びる、一筋の光明を頼りにした。或いは、やはり一本の印が持つ効果は並ではなかったことが、然るべき機会を得て語られることを願っていたのだ。

スピン。一筋の。