目も開かぬまま

うそつきのてんきあめはあきにそそぐ 2

 空をすり抜けていった手の先をいつまでも眺めていた。一体どのくらいそうしていたか。開けた筈の目が開いている気がしないのはそういう曖昧に漂う流れに逆らわなかったからで、閉じ忘れた窓の向こうに流れる市内放送が頭蓋を直撃したのとは関連がない、ということにした。
 気付けば時節は過ぎ、秋はまた遠くなった。あれがもう、去年のこと。港の付近ではこの所、雨後の筍然とした海小屋が次々に建てられていた。地元の名物として風物詩的な光景であり、次第に近付く猛暑の気配をうんざりする程知らせる号砲だ。そんな時期に差し掛かっていても毎夏のことながら手際良く何棟もの小屋が短期間で出来上がる様は驚く他ない。瞬く間に完成し、そうして惜しむ間も無く海岸からは始めからなかったように痕跡一つ残さず消えている。一夏の蜃気楼、と称賛するには少々風情に欠けたそれら作りかけの夏が現れては消えるのを延々と淀んだ空気の部屋の壁に描いてしまう。とうに慣れて久しい風景は何処か異郷の祭りを眺めるような傍観に浸らせていた。ずっと前から知っている。なのに、見知らぬ姿を垣間見ている感覚があった。そしてそれも束の間現出したと思うとまた何処か意識の深みに沈んだきり浮かんでは来ない。気紛れな想像の中からは不意に不必要なものばかり見えて来る。
 あれきり、あれきりだった。過ぎた秋が遠くなって、酷暑を再び迎えるようになった今の今まで放ったらかしにしていたのがそんな不必要なものだった。秋らしいものの姿を夢に見る度、何度となく悔いた。あんなことを言わせる必要はなかった筈だ。結局、あいつの元には行けなかった。それは秋が過ぎても変わらなかった。
 隣に立っていたくはない。そんな想像はしたくもない。
 あんな風に笑うくらいなら、笑わせてしまうくらいなら——いっそ消えてくれた方がマシだ。
 何処かで聞いた見知らぬ人が言うのだ。人の想像し得ることは可能な未来であると。なら隣にいる想像が出来ない俺の描くあいつは、一体誰なのか、と。何処にもいない人間。可能性の低いもの。だったら一刻も早く夕凪に溶けて消えて欲しい。
 それなのに、それなのに。会いたいと思って止まないのは一体いつの俺なのか。目も開かぬまま茜差す斜陽の部屋は痛々しい西陽と半音ズレた時報の残響ばかりで満たされていた。気分の悪くなる季節だ。隣にいたくない、消えて欲しい。あいつを探さなくていい理由が欲しい。理由がないのなら堂々巡りを続けるしかないことに、何か正しさを。
 
「……っ馬鹿馬鹿しい」
 
 何も知らない。何もかも間違っている。何処に正しさがある?ある訳がない。だってあいつは何も知らないのだ。だったらこっちも何も知らないままでいるしかないじゃないか。見なかったことにして惚けているしか、もう他に何も。
 
「なーにがよ」
「⁈」
 唐突だった。扉のすぐ横に見たくもない顔が当然のようにある。でもしどろもどろのままひっくり返った声で受け応えるので必死になって上手く形になっていなかった。まさか頭の中まで覗かれたりはしていないというのに、嫌な汗が吹き出しかける。
 
「え、なんで」
「いや連絡しただろ。急に休むっつーから優しい俺がわざわざ来てやってだな。もしかして見てねぇ?」
「あ、ああ……そう。悪い、見てない」
「へーぇ?何、寝起きみてーじゃん。よく寝れてたんなら良かったわ」
 
 何の気なしにそんなことを言うものだから、思わず閉口する。何を言うのかと思えば、そんな当たり障りのないことだった。ないことだったのだが、平気な顔で言われたのに少々、いやかなり、呆れ返ってしまった。
 
「あ?どした、具合悪い?」
「別に、頭痛がするだけ……」
「あっそ。んじゃ諸々置いたら帰るわ。拗らすと面倒そうだしな」
 
 あ、と口が形作ったまま固定する。何を言おうとしていたのか、飛び起きた時にはもうすっかり抜け落ちていて、間の抜けた顔同士を突き合わせていた。
 
「何?」
「いや……何も」
「はぁ?いや気になるわ。急に何だよ」
「だから何にも」
「何にもって顔じゃねーだろ、それ」
「怒ってんの」
「キレてはねぇけど。ただ最近恒例のサボりかと思ったらガチっぽそうだし?これでも大分心配してやって」
「来なくていい。もう来るなよ、頼むから」
 
 堰き止めたつもりの想像で舌が縺れて、先走った挙句また間違った。どろどろに焦げた色をしながら、恐ろしい速度で日は傾く。うんざりしていた赤さは瞬く間に地平線の先へ。
 
「あ……違——」
「はいはい分かった、すぐ帰るって」
 
 何を繕おうとしているのだろう。今更何を正したかったのだろう。散々好き勝手喚いたっていうのに、こいつは意にも介していなかった。
 それはそうか。俺は一体何に振り回されていたんだか。勝手な想像だ。誰でもないこいつが頭から出て行くまでは続く馬鹿馬鹿しい想像にもう一区切り付けなくてはいけない。
 
「あそうだ。ちょい待って。そろそろ……」
「何、帰るんじゃないのか」
「まぁ見てろって」
 
 疑問符だらけの眼前で、こいつは中途半端に引かれたカーテンを完全に開け放った。一息に飛び込んだ景色に瞼が震え、反射で遮る。何をやるにも急制動気味なのにはもう慣れた。だから嫌になる。慣れるまでの距離、時間、流れの厚みの束に潰されそうになる。そうとも知らず、相変わらず突拍子のない姿を横目にする。そうして、視線の先までをも。
 
「お、見えた見えた」

「な?」と、何処か自慢げに上がる語尾を気にも留められなかった。
 
「お前の部屋さ、実は結構いい眺めなんだわ。知ってた?」
 室内を塗りたくっていた夕陽は濃淡を刻一刻と変え、光は層をなしやがていなくなる。十分にも満たない日没の最中に折から差した赤光は、上空の高い所を流れて行く斑状の雲を巻き込んで鮮明な景色をより強いものにする。

「すごい雲」
「ほんとだ。明日は晴れるかもなぁ」
「さば雲って雨の予兆だろ」
「そうだっけ?網目のは晴れるって聞いたことあるけど。蜂の巣のやつ」
「はぁ……じゃあそれでいいって。呑気だな、ほんと」
「分かってねーなお前。大事だろ天気」
「天気の話題は会話の墓場だって話、知らないの」
「会話に墓場とかあんの?」
「知らない」
「んだそれ、雑いなおい」

心底どうでもいいのだろう。吹き付けた涼風の合間に伸びを一つした横顔を見まいと努めて、なのに逸らせないままでいるのに呆れて、この繰り返しを断ち切る為に話題を逸らそうとして、なのにどれも奏功しない。堰を切ってしまいそうな出しゃばりたがりはその内洗いざらい喋ってしまいそうだ。けれど今、こいつの見ているものの中に入っていくのには気が引けた。多分、何処にも俺はいなかった。そして俺の前にも誰もいない。想像の出る幕はなかった。

「なぁ」
「んー?」
「今度さ、付き合って欲しい所があるんだけど」
「また急だな」
「お前よりはマシだろ」
「どう答えて欲しいわけ」
「別に。断りたいならそうしろよ」
「何で断る前提なんだよ。行くに決まってんだろ」
「即答かよ。まだ何処とか教えてないのに」

「何処かなんか行けば分かるだろ、そんなことよりも俺は」

聞き逃す筈なかった。聞きたくなかった続きがはっきり形を伴わない内に、カーテンを再び閉じ切って手を伸ばし、気付くと眼下に身体ごと引き倒していた。二人分の重量に沈むベッドが責め立てるように軋るのに、それを真っ向からこいつが否定してしまう。

頼むから、もう何も聞かせないでくれ。

「いいよ」

俺はまだ目を開いていないのだろうか。それともこいつも?大して驚きもしないのは試すような仕掛け方があんまりにもどうかして見えるからか。喉奥が燻されているように熱くなっていくのに堪え兼ねて、辛うじて絞り出した言葉はもう、嗚咽混じりに濁り切っている。