言えない傷

 歯ブラシと剃刀

 「……いった」

 嘘だ。いくら何でも。疑ってみても目の前の鏡に映る顔にはあってはならない赤い線が一本。
 プラスチックの黄色いコップの中から覗く歯ブラシ。手には、柄の色のよく似た、もう錆び付いてしまった剃刀。切れた唇をひと舐めして嘆息する。
 一体いつこんな所に紛れ込ませてしまったのだろう。ひとりでに、剃刀が歩いて来るはずも無いのに。ずぼらで通せる筈もない失態。

 「あー……」

 早朝からうんざりした。やっと治ったと思い込んで、爪を掛けたら開いてしまった古傷みたいに、だらだらと諦め悪く尾を引いて不快な感触だけを残していく。

 風邪で押し通せば良い。花粉症の時期もとうに季節を跨いでしまったのに、こんな日にマスクだなんてとこの際笑われてもいい。触れられる訳にはいかない。

 どうか治るまでの間だけでも消えてくれないかと願う。がまさか叶う訳もなく玄関の先に欠伸をしながら立つ背中を忌々しく睨んだ。

 「あ、おはよ」

 不審を抱かれるより早く目の前を通り過ぎる。後ろから聞こえる制止の声にも振り返らず足早に歩く。「珍しいなぁ」と惚けた真似をかます奴に腹が立つ。
 やがて、遂には。どう足掻いても埋まらないリーチの所為で追い付かれてしまった。
 
 「一限なんだったっけ?現国?」
 「英語。そっちは」
 「忘れた」
 「忘れんなよ……つーか教科書、あれ貸したのいつだよ、返せ」
 「それも忘れた」
 「お前な……」

 時間を余らせてまで待ってる暇があるなら取りに帰れよと言い掛けて、歯噛みした。理由なんて知ってるんだ。
 あの剃刀だって、捨てたと思っていたんだ。なのに、今朝に限って出てきやがって。

 「悪い。また明日持って来る」
 
 聞かないの、と言い掛けて、それも辞めた。
 聞かないでいてくれる、と知ることがどうしても躊躇われたから。
 
 「あ、そうだ」
 「?」
 
 不気味なくらい空っぽな鞄を漁り出して、何かを取り出す。
 
 「じゃーん。お揃い」

 渾身のドヤ顔へ、白ではないやたら派手な柄のそれを付けて笑っているらしい。口元は見えない。

 「花粉症ってなー」

 いかにも読んでますと言わんばかりの面を殴りつけてやりたい。むかつく。やっぱり顔が隠れていて良かった。

「そのままベッド送りにしてやりたい」
「それはどういう意……」
「まんまに決まってんだろ!」