夢食う膚
当夜は見目の良い男だった。
間近で見ると滅多な世辞も憚られ、一寸微笑まれでもすれば老若男女を問わずして惚れ込まんかという、廓狂いの博徒連とは比べるべくもない美丈夫が彫物師甚三の元へ足を運んだのは錦秋の候であった。山を彩る綾錦に負けずとも劣らぬ衣を払って、心持ち頬が撓う様なぞかえって震えを催すほど健気であった。
これ幸いと甚三は胸が小躍りし、常の倍は丁重にもてなそうと努めて振舞った。如何様な図柄を彫るにしろ生半には耐えられず腕っぷしが取り柄の無頼漢でも泣いて逃げ出すくらいであるから、踵を返されては堪らぬと湊と名乗る青年に念には念を押して言い含めたのである。
いいかい、このまっさらな肌にこんな刺青をこのように入れるから、その間はぢっとしてなければならないよ。何お代は事が済んでからで構わん、ただ代わりと言っては何だがちとお前さんの身体を拝ませてはくれまいか。状態をよく見ておかなければならないからな。
不躾は百も承知であるばかりか下心に任せた頼みであったのだが、果たして願いは成り、引き受けた湊が肩から小袖をうっそりと落として妖しく見返った。
「あんまり見ないでくれな」
惜しげもなく晒された眺めに甚三は感嘆した。ここに一針一針墨を入れ込み一生涯消えぬ轍を残すのである。想像するだに馨しい喜悦だ。舞い上がらずにどうしていられよう。今日この日彫るに当たっては十分な支度が整っていなかった。故に万全の用意をし、次に湊を迎える日取を相談しなければならないが、煩わしい手筈を飛ばしてでも素性を暴き立ててやりたいと甚三は固く拳を握り、人知れず邪な目論見を立てていた。
それはいかにして男に取り入ろうか、あわよくば床を共にしてはくれまいかという下世話な望みから生まれていた。
というのも、湊の商い、正体には薄々勘付いていたのである。一目で直覚したのだ。肉付きに留まらず、しなやかな腰付き、所作、加えて人を陥れて何の悪事とも思わぬ涼やかな目元——これはかなりの上玉に相違ないと一人頷くともなく顎を引いた。
詰まるところ色を売る生業の身分なのであるから、そう易々とは靡くまいと思いつつ、儚いながら期待も捨て切れずにした首肯である。自分ばかり希っているのも癪であるから、ならばいっそ一世一代の大仕事をして、見事信頼を勝ち得るが早かろう。意気込む彫師をしてまたとない好機に、平静を装うのは酷に過ぎるというものであった。
甚三はしげしげと無遠慮に素裸を堪能した礼を言って、元の通りに衣を整えてやった。
「しかし一体何処で俺を知ったのだい」
「随分と見事な墨を入れていた客がいたもんで、強請って教えさせたのさ。そうしたらここいらに大層腕の立つ彫師がいると言う。いても立ってもおれなんだ」
成程やはり一筋縄にいくまいと甚三は口元を真一文字に引き結んだ。かつての力作がこうも憎たらしくまた妬ましく感ぜられるのはかつてなく、しかしどんな経緯があるにせよ湊を導いたは紛れもなくこの俺の腕前のお陰なのであるから、向っ腹をどうにかこうにか呑み込んだ。
曰く湊は「悪い夢を食う」のだと風の噂を耳にした。甚三はこれを売り言葉と見た。懸想するもしないも、全て絶対君主のお眼鏡に適えばこそ。食ろうて貰えるなら本望この上もない。
浮世の悪夢を食うとは粋な男と露ほども疑わず、そればかりか二度顔の合った時なぞは既に素肌を拝んだ仲であるとの驕りさえ心底から信じていた。
しかしこの男が中々の曲者であった。
後日湊が甚三の元へ訪れると、大の男でも咽ぶ痛みのその合間でも、平気の平左と何食わぬ顔をして奇妙な話をして聞かせたのである。何でも巷で辻斬りがあり、皮を剥がれた者が出たそうな。
まさか遊女に足蹴された者の蛮行であろうか、或いは哀れな身の上をして致し方なかったものであろうか。然りとていずれはお縄につかねばならぬ惨い所業に違いないが、暫し湊に見つめ入った。どのような腹積りなのか全く読めなかった為だ。もし少しでも芝居めいていたなら見破ってやろうかともした。が、どうにもその線は薄いと見えて、話に乗ってやる振りをしながら動静を伺うことにしたのである。
「陰気な野郎もいたもんだ。皮は彫るに限らぁな」
「甚三は薄情だね、この職人肌」
「そうさ、俺はこの道一筋だ。死んでも針は離すまいよ」
「よ、男前」
「別嬪さんに言われっちまったら嘘でも嬉しいってなもんさ」
「嘘なものか。甚三の右に出る腕利きなんてよくよく聞きやしないんだから」
恐悦至極、甚三は気を良くしいしい、ふと思い立って「こんな話を聞いたのだが」と冗談めかして始めた。何でも廓で妙な獣が飼われていると巷で広まっていて、それが気味の悪いことに犬にも馬にも牛にも似ず、見た者が忽ち恐ろしさの余り生気を失くしてしまうからには伝え聞くより他仔細は語れぬが、知らぬが仏と皆口を揃える噂をだ。
酔客が気を失うほどの醜女、醜男に出会した不運が一人歩きした上に紆余曲折を経て伝わったと踏んでいた甚三だが、中にはさも恐しい、恐ろしい、これは用心せねばと真に受ける者もいたので、この男はさてどう出るか多少の悪戯心から脅かしてみたいと一計を巡らせたものであった。
「そいつはどんな形なんだい?」
「さてなぁ。脚が虎だの鼻が長いだの、ある事ない事尾鰭が付いて回ってら」
全く噂の広まるにつけて何やら物怪の方を不憫に思わないでもないのだが、ともかくも当人と来たらさして気味悪がっている風でもなく聞き入っているので、これには大層たまげた。そうして今少しの辛抱だ、泣くことはないと甲斐甲斐しく慰めやろうとした当てが外れてしまったので、如何したものかと考え倦ねた末には、「お前さんを買ったって奴は嘸良い思いをしたろうにな」と、何とも幼気な恨み節をつい零していたのである。
これには流石に下手を打ったと甚三は咄嗟に口を噤んだ。だが彫った墨を見る間柄とは必定顔馴染みになろう。よもや太客であろうか。ならば最早横恋慕の太刀打ちは叶うまい。手元が狂わんばかりの羞恥を胸中へ抱きながら、しかし湊は手練手管でもって男を籠絡する、まさに熟練者、悪鬼に相応しい逸物の本性を露にしたのであった。
傍らの燭台に灯した火がふっと揺らぐや障子に映った一際濃く淀んだ影の奥底より、恐るべき姿が立ち現れたのである。
黒い横面が見る間に熊にも勝る体躯に変わり、ずんぐりとした図体が膨れ上がると脚は猛虎の如く太く伸び、ともすれば酷く醜い不恰好な塊が見えたのである。ずうう、ずう、と絶えず蠢き這い回っていたがぴたりと留まるとありもしない瞳と目が合った、と思われた。
情けなくも叫ぶなり、咄嗟に目を擦り擦りしても消える気配のない身の毛もよだつ風貌の獣へ、甚三が床の間に掛けた刀を掴むなり袈裟掛けに振り下ろした。
「どうしたんだい。そんなに慌てて」
空を切った刃の後には閉じ切られた障子戸があるばかりで、先刻目にした影は何処にか跡形もなく消え失せていた。そうだ、たった今し方起こった一大事を聞いてくれるかと柄を握り込んだまんまになった甚三の狼狽ぶりといったら、哀れなほどであった。
一体あれは何だったのだ。深酒をしたでもなし何に惑わされたものかとんと分からぬ。
ばたりばたり、遣り戸を叩く雨音と冷汗を背に食らって、甚三は漸く息を吐いた。安堵の為に吐いた長く重い息である。何の事はない、先刻見たものは単なる空目であったのだ。否、空目など有り得ようか。いいや確かに見たぞと幾度も訝しみ、抜き身を鞘に納める。得心いかぬ面持ちながら、一先ず突然得物を振り回した挙句取り乱した非礼を詫びて、震える身体を押して何とか墨を入れ終えたのだった。
こうして何滞る事なく後は色揚げを残すところのみとなると、いよいよもって甚三は目にした一切が奇妙奇天烈、狐狸に化かされた思い違いか知らんと考えてしまわねば手の打ちようがなくなってしまった。
如何にはっきりと目にしようとも幻は幻、現は現である。見ろ、この美しい彫物を。これこそ現の真骨頂だ。恐れ慄いた反動故か、衒気すら芽を出し始めた甚三を前に湊はただ黙っていた。これは愛想を尽かされた。密かな計画が早くも瓦解したかに思われた。
「ありがとう。こんなに綺麗にして貰えるなんて。あんたに頼んで狂いはなかったよ」
臆することなく、殊の外慎ましく言ってのけた湊にはただただ唖然と、しかし倣うよりなかった。もしこの次があった折には、「好いた男の名を彫ってくれ」とでも言われねば良いのだが、なぞと他愛のない思いを巡らせて。
どの道、最早目にする事も叶わぬであろう姿を見送った甚三であったが、それから間を置かず毎夜床に向かう度暗澹たる心持ちに悩まされる羽目になったのは次のような訳があった。
どうにも湊に会ってから——そうだ。あの妙な影を斬り損ねてからこっち、夢見がまるで良くないのである。見知った薬師に厄介になろうとしたまではいいが、やれ寝付きがどうのと聞かせて、大層な軟弱者と笑われては堪らぬとやめにした。
元来瞼を閉じたなら日が昇るまで火事があろうと空巣があろうと起きぬ性質であったから、度々夜半にがばと跳ね起きねばならぬ苦行は余りあるものであった。しかも決まって夢の中身と来たら諦め切れんといった調子で同じ場面ばかりが繰り返し繰り返しするのである。何をどこで間違ったか。もしやいつの間にやら毒でも盛られたのではあるまいな。
起き抜けに耳を研ぎ澄まし、「おい」と一声かけてもみたが当然に無人である。
そう、家内に寝起きするのは甚三ただ一人だけなのである。
特別のものもなく、あるといえば通りの烏の夜鳴きばかり。それもなくなるとしんと静まり返って、静けさが耳に痛いくらいの夜更けである。
酷い時には日に二度かそれ以上を数える事もざらであった。
次第に似たような事が幾日も続くと自然甚三は目に見えて衰弱していった。飯も喉を通らず、日がな一日天井の染みを数える他は門前に立つ者も居なかった。
この頃になると甚三は既に眠らずとも夢を見るようになっていたので、目にしている物皆一切がどちらに属するか、逐一触れて確かめるまでに様変わりしてしまったのであった。これは本物、これは偽物といった具合にである。
手繰り寄せる襟の膚に触れた布一枚でさえあるかも分からぬが、頭の上を闇雲に手で掻けば不確かながら応える感じがする。俺は何を違えたか、俺は何を忘れたか。問うても問うても虚ろが広がるばかりの床に、甚三は目を開けながら眠っている。或いは、閉じながら起きている。
こんな時に湊が枕元に立ってくれたのならどんなにか良かったことか。願わくば後生の頼みだ、今一度で良いからせめて彼に会わせてはくれないだろうか。叶わぬならいっそ喉笛引き裂いて自害するがいいだろうか。
思い余るとやおら床を抜け出し、覚束ぬ足取りで雲一つない真っ暗闇の往来へ飛び出すと天を仰いで吠えた。
『ここは現か誠か嘘か』正気か定かでない咆哮がやっと枯れると、甚三は再び枕に頭を預けていた。
ハッとするといつも決まって同じ場面の繰り返しなのである。
何処かも知らぬ見覚えもない景色の中を意中の相手を想うあまりに外へ出たは良いが、かえって闇の濃さが草履も履かずにいた足元からぐんぐん這い上がって来る心細さ、悍ましさに慌てふためき慄いて、闇雲に歩き通すのである。気付かずにいられたのは始めの一晩二晩が限度であった。
同じ場面に襲われ続け、煎餅布団の上で半狂乱になりながらも息を殺す甚三の沈黙を来客が打ち破ったのは丁度子の刻を過ぎようという時分である。
『甚三、甚三』
忙しなさ気に戸を叩くのは紛れもなく湊その男であった。一体全体何の用向きかは見当も付かぬが、夢見心地とは正に今宵をこそ呼ぶのだろうか。息を大きく吐き出し整えたが、そこではたと我に返った。
どうにもこれが酷く甚三向けの現で、やけに都合の良い点ばかりが目立っている風に思われてならぬ。苦しみ喘ぐ者の元へ折良く人が訪うものだろうか。いや無い。
つまりは、寝ながらにして起きているのでこんな場違いな幻を見ているのだ、でなければもう説明が付かないではないかと膝を打った。
這々の体でどうにかこうにか招き入れた湊はそっくりそのまま先日と瓜二つのままいたので、甚三は益々確信を強くさした。俺はまだ魘されているのか。そうか、これは俺の頭が創り出した現なのだった。
だが吉兆夢と言わずして何としようか。願いの通りになった試しが生まれてこの方一度足りともなかった人生が漸く報われるのだ。諸手を挙げて喜ぶのが筋である。その最期に現れたのが彼ならば、何を我慢辛抱する必要があろう。
否。甚三は決して散々な生まれなどではない。裕福ではないが恵まれた家に育った好漢で、酒癖の悪い以外に腕の立つ、立派な彫師を志した人間なのである。惑わされてはいけないぞ、俺はまだ何もなし得ていない。真面なだけが取り柄の男だ。
強がって励まそうにも小刻みに振れる足を止めるには至らなかった。胸の内で会いたい、一目会わずしては冥府へ逝けぬと終始した鼓舞が功を奏するには至らない。
「やい」。いつまで経っても動く気のないのに焦れた甚三は待ち人に向かって叫んだ。虚実を確かめるべく触れた身体にはしっかりとした手応えがあったので、そうだ、湊を見紛う筈がないと安堵した。しかしピクリと眉一つ動かさず、冷たい眼を逸らさず見つめ返した顔の土気色には少なからず目を丸くした。肩に置こうとした手はあっさりとすり抜けてしまった。
うっかり支え損ねた湊が仰けにひっくり返ってしまったものらしかった。その倒れぶりときたら見事な卒倒という他なく、これまで一睡も出来なかった緊張の糸がぶっつりと断ち切られたようである。成程確かに言われてみると思い当たる節がないでもない。
というのも、影より生まれた獣が何処から持ち込まれたものかを考えてみれば明白であった。そうか、だからこその浮世離れした物腰だったのだ。さぞ辛かったろう。やっとのことで閉じた目を幾度も開かねばならぬ苦しみが、同じ境遇に陥っている甚三にはよく分かった。湊には幸運であった。一抹の哀れみと薄暗い喜びがその内に芽生えていさえしなければ。
そうして手始めに息を楽にしようと襟元に手を伸ばすのだが、存外びくともしない身体である。華奢ではあるが、それだけだ。同じ男であれば軽々とは行くまい。横たえさせると見た目よりずっと重い着物を、えいと力任せにひん剥いた。
するとまたも着物の下には土気色の地肌が広がっていたので、続け様に剥いた身体をひっくり返してみるとこれがまたない。ないのだ。
確かに背に刻んだ彫物が何処にもない。代わりといっては何だがつぶさに見れば、紅く汚らしい斑点が所狭しと一面に纏わり付いていた。惨たらしい傷に触れようとも湊の顔は至って変わらず整ったままなのである。これでは触り心地を人によく似せた泥人形だ。いくら中身のない幻と言えど真仮の別を付けるまでもない出来損ないでは仕方がないというもの。
やはり甚三の望みは呆気なく打ち砕かれ落胆せざるを得なかった。では戸を叩いたのは何者の仕業であったか。湊の有様を見るに、下手人は別に居ても不思議ではない。誰だ、二人の閨を邪魔立てするのは。無論突き止めた所で何が変わるとも思い難い。一方を確かめる為には、一方を捨て置かねばならぬ。だが出来損ないでも湊を放ったままにしておける性分ではなかったので、頭を抱えた。
そうだ、灯りを、灯りを持って来よう。前通り火で照らせば湊に取り憑いているかも分からぬ不届き者の正体も掴めようという、確信めいたものがあった。狼藉を働き傷物にしたが誰であれ、甚三に灯った火種もまたごうごうと勢いを増し強め、一等頑固な使命に駆り立てた。
まだ厨に残火があった。いやそれは床に就く前の方の厨だったか。どちらでも構うものか。野蛮な闖入者めに目一杯光を浴びせてやって漸くこの日は眠りに就けそうである。
早足で湊を寝かせた部屋まで戻ると、おかしなことに畳と四方の襖を彩る臙脂の散らしが真っ先に目に飛び込んだ。部屋はもぬけの空になっていたのだ。掲げた火でいくら照らせども照らせども、行手を遮る虚は照らし通せない。虚空と睨み合いをしていても埒が明かないことを悟ると、軋る廊下を当て所なく、だがしっかりと確実に踏みしめる。ギィギィ、きぃきぃ、きィキぃきぃいいいぃ。
「湊、湊ぉ!どこにいった!」
一つ一つ戸を開けては閉めていき、とうとう屋根裏を残すのみとなった時、矢庭に頬の側を風が掠めた。釣られて振り向いた先には半開きの障子戸が一つきりしかないのだが、そこへと風はふっと吸い込まれていったかに思われた。だがそこは先刻も検めた筈である。突き出した火影に先導を任せ、恐る恐る立ち入ってみるとそこには——
なんだ、ここに戻っていたのか。
果たして探し人の行方は知れるところとなった。頽れるように屈み込んではいるもののこれといった大事もなく、脱げ解けてしまったと思しき帯が開け放した戸の足元まで黒んだ道を作っていた。
人騒がせな男だ。だがまぁ、それでいいだろう。よしんばこちらの湊が脳裡の中にだけ息づいているとも、惚れた男の非業の末路なぞ見たくもない。ないのだが、己の頭が見せている他愛もない児戯すらひとっつも上手く事が運びやしないのには苛立ちを覚えた。
甚三はただ最期に湊を介抱してやれたら良かった。酷い怪我を負っているのだ。手当の一つもしてやりたかった。余程の外道畜生に生まれ付いたのでもなければ出来て当然のことが、何故己に上手くいかぬのか分からない。否、成さねばならぬのは泥人形の世話ではない。酷い目に遭っているのは誰だかよく思い出せ。奴らに思い知らしめてやれ。
人形?戯言を言うな。身の詰まった肉の手触りが確かにあったじゃないか。
それに一体、奴らとは誰だ?
甚三は父母の顔を覚えていない。幼くして身寄りのなかった甚三を養子に引き取った家で何不満なく暮らした。唯一あるとするなら養父が大変な酒豪であったことくらいだ。晩酌に付き合わされる内に舌が肥え、度を越して飲み耽ると酒の方から甚三を嫌うようになっていった。悪酔いが癖になったのはその頃からだろう。これは不味いと日毎帳面に記録を付ける癖もまた自然と身に付いた。無論、その頃当の養父は何も口出しをしなかった。勘当を言い渡されたも同然で追い出されたことを思えば何を恨む必要もない。
まぁよい。そんなことは今更どうでもよいのだ。
強いて論う者を持たぬ甚三は力無く倒れ伏した湊を前に突然腹を抱えた。全身がぐらぐら揺れるのに合わせて差し向けた光がぐるぅりぐぅるりひずむと、壁と湊とを照らした輪の中で命を吹き込まれた塊が驚くべき勢いで膨れ上がったきり元に戻らなかった。
奴だ。影の獣が現れた。忌々しい化生だ。刃が通るのなら掻っ捌いてくれるというのに、未だ一太刀も浴びせられぬとは不甲斐ない。一度ならず二度までも逃げ果せられてなるものか。
息の根を止めてくれんと握り締めた拳には、ずしりと重い手応えがあった。おや、おかしいな。剥いた着物を持ったままでいたらしい。紅く艶やかな、そう、湊から剥ぎ取ってしまった大事な大事な膚だ。
「は、は、はははははははははははははっはははっはははっははははハハハヒハハ————」
さぁもう観念しろ畜生めが。今にお前は露と消えて、俺は幻と共寝をするのだ。ここに用意よく布もある。見ろ、辺り一面がまるで夕暮れの如き紅葉だ。ひらひら舞う葉の何と艶やかなこと。物言わぬ肉細工を乱暴に引きずり起した甚三はその身を今度こそ抱き留めた。
その拍子に、甚三は火皿を取り落とした。撒かれた油の上を真っ赤な蛇が這い、敷き詰めた畳に燃え移ると瞬く間に部屋中に火の手が回っていくのであった。
そうか。火は夢でも熱いのか。
どうせお前にはもう見えんのだ。この美しい夢食う膚が。ああ、湊、湊、湊…………。
炭と化した荒屋があった。
柱と言わず壁と言わず、焦げ燻った残骸を門先から見詰める男が居た。野次馬紛いの見物人が僅かばかり足を止めては過ぎ去って行く中、半刻近くは立ち止まったまま、ぼうと佇んでいる。
男は何処か近寄り難い風であったので、気軽に声かけて良いものか躊躇った末に小声で話しかけた者があった。実際のところ自分の陥った複雑な思いを聞いて貰わねば済まぬといった口振りであった。
男は首を振る。顔を青くさして話す方は立板に水と、あるのかないのか分からぬ話をして聞かせた。
「でも残念だったなぁ。最近評判聞かなくなった矢先になぁ……ん?ここに住んでた彫師の甚三ならとうに仏になっちまったよ。知らない?そんなら、随分前に通りで辻斬りがあったのは?……へぇ、そうかい。いの一番に殺られちまったのが甚三だったってのは聞いてたんだが、その後空家に妙な輩が住み着いてたらしくてな。
家が燃えたってぇ晩に、あんまり薄気味悪くて心配になったから戸を叩いたのさ。ん?ああ、そりゃ俺のことさ。音はすれども姿は見えず、しかし顔を会わせなくって本当に良かったよ。
何てったって後から聞くとよ、そいつぁ夜な夜な人の皮ぁひん剥いてたんだとか言うじゃないか。しかも剥いだもん敷いて布団にして寝てたとかいないとか。想像するのも悍ましい、何がしてぇんだかさっぱりなんだがな、その後は辻斬りも皮剥ぎもぱったりなくなっちまったって言うし、まさかと思うじゃないか。ああ恐しい恐ろしい……。
ところでつかぬことを聞くがねぇ……そいつがどこ消えっちまったのか、
旦那は何か、知らねぇかい?」