視界が真っ赤になった。それはもう見事に赤一色になった。遅れて届く嫌な匂いが鼻をつくのだけど、そういえば物心ついた時にはとっくに苦手な匂いだったからいつまで経っても好きにはなれなくて当然だと思った。いつもの教室で起きた出来事は変わりなく過ぎる予定になっていた筈の午後を狙い撃ちにした。せっかくの金曜日になんて仕打ちだろう。況んや貴重な昼休みに起こってしまえば、当然遠巻きの生徒は迷惑顔になりもする。そこはかとなく申し訳ない事をしてしまったと思わないでもない。原因が誰かはこの場合些事だった。
「っとー、悪ーい」
幸い目には入らなかった。分厚い眼鏡を掛けていたから。代わりに夏服のブラウスがこれでもかと染をこしらえていた。酷い有様だった。
「おいおいお前これどうすんだよ」
「やっべぇ俺の一六〇円」
「しゃーねぇなぁ俺が奢ってやるって」
「うわマジ?超助かるー」
「はぁ……」仕方ない。今日はもう帰って洗うか。向こうも俺が居ると気不味いだろうし、白い眼で見られながら授業に集中するのも難しい気がした。どうせ逃げ口上だけど。どうせ教室の席はない。戻る必要もない。一度廊下に出てからロッカーを引っ掻き回して体操服を探し当てる。あった、一応。ジャージの裾は見事に切り刻まれていたけれど、背中に何か落書きされていたりはしなかった。幸運だ。常に白くあるべき半袖ウェアの方はというと使い古した雑巾のような色に成り果てていた。ような、ではなくてこれから雑巾にしてしまえば名実共に服から掃除用具へと早変わりだ。その方がかえって清々しい感じもする。けれど汚れた教室をそのままにしておく方が後々面倒くさい事態になる。自分の昼食を気にしている場合ではない。
でも何ジュースだろ、これ。
匂いはきつくも強くもなく、野菜ジュースの類かと思っていたけれど実は絵の具を解いた水かも知れない。びっくりするほど手間のかかるジュースだったら些か悪いことをした。まさか週に何時間と過ごさない美術室から画材を引っ掻き回して来たんじゃないかと思うと。給食でよくある牛乳なんかであれば派手に汚れなかったろうに。今日日牛乳をパンと供する高校生が居るかは知らない。購買でも見かけないなら既に絶滅したと言う事にしておく。
「閑谷ー、お前何だその格好は。制服はどうした」
「昼休みに、その」
「…………」
何故だろう。こんな日に限って、こんな人に見付かる。何だかな。何だかなぁ。指導の長峰。普段は校門前に張っている。避けていれば鉢合わせしないで済んだ人種だ。避けていれば。こんな状況で、この口煩い筆頭に目を付けられるとどうやっても騒がれるに決まっていた。しかも面倒くさがり過ぎて口を滑らせずにいられるかが常に死活問題だ。うっかり教師に直接伝えてしまったらなんて考えたくもない。
「水遊びをしてて」
「…………そうか。まさかプールに入ったりはしてないよな?」
はい。ホースで偶々。
ありふれた言い訳で切り抜けられた、ことにしておく。
陽の高い畦道をひしゃげた自転車に乗っていた。どちらが引き摺られているのか分かりにくいが、結局あの後すぐ早退した。劣等生お得意の「気分が優れないので」の登板は割と頻度が高い。多分周囲の反応は「ほっとした」だ。確かめていないから知らないけれど。
幸い制服シャツ以外の犠牲者は居ないので問題ない。小汚いジャージを着た高校生の絵面は諸々の事情を考慮しないのであれば、それなりに青春を謳歌していそうに見えると思うのだがそこの所どうだろう。誰の返事もない。チャリを漕いでも一人、風が吹いても返事はない。それはそうだ。青春真っ盛りな登下校風景だった。
そうして駐輪場から引き起こした自転車も、以前から後輪がパンクしているのは知っていた。いつの間にかフレームも歪んでしまっていて、十中八九誰かしらの仕業だろう。これじゃ真っ直ぐ帰るのは無理だな。だって乗ってる奴がこんな風なんだから。直進と無縁であればある程捻くれ者は歓喜する。真っ直ぐは疲れる。
今にも外れてしまいそうなペダルを漕ぎながら見るともなしに前を向く。幸いハンドルは曲がって居なかったのでパンクを直せばまだ乗れる。どうせ買い直す金もない。あっても取り上げられてしまうに決まっている。
「あー」
不思議だ。何も起きない日なんてない毎日。露骨なデタラメを誰もが信じてくれると俺は信じて疑わない。卑小な自尊心を粉微塵に挽き潰して車輪は進む。砂利程の意味もなく、往来で踏み潰される為に生きている。
帰りたくないなぁ。毎日面倒くさくて面倒くさくて、空を仰ぐ。田んぼに自転車を放り捨てて何処かの沢にでも身投げしたい気分だった。不法投棄万歳だ。
あーあ、眠くなって来た。気の所為だと良かったのに、どうにもそう言っていられない眠気に後頭部を小突かれて、次第に船を漕ぐ。足は回る。車輪も回る。目は回らない。
俺は俺に付き合い切れなくてうんざりしている。
「閑谷」
そろそろ息をするのも億劫になっていたら、進行方向を遮る形で人が立っていた。徐に手を振ってから駆け寄る人影は逆光の中で幾らか大きく見える。顔見知りでなかったらどうしようかな。下らない不安を抱えてブレーキをかけた。甲高い悲鳴が上がる。メンテするの忘れてたや。うるさ。長峰といい勝負だ。
「今帰り?」
ラフな格好の青年が俺の前に立っていた。昨日も今日もそんなんで、もう見慣れてしまったものだから特に言及もされない。上はジャージ、下はスラックスとかいうふざけた姿の俺に。けれど眠気は吹き飛んだ。それはもう凄い勢いで飛んだ。
緋田だ。元々近所同士の人。最近までは先輩と後輩で、今はただの友人。ただしセの付くお友だち。友人に当たるかどうかは互いの主観に拠るものとする。多分緋田は『先輩』と呼ばれる方が好みだ。何故って昔の方が良く笑っていたから。だからそういう勘違いになる。どうかな。大して変わらないかも知れない。誤解を恐れずに誤ったままでいる。
跨っていたサドルから降りると、寝不足を隠そうともしない欠伸が一つあった。メイクかというほど黒い隈に縁取られた瞳がぐるぐるぎょろぎょろ。
「うん」
「そっか」
「うん」
「これから仕事?」
「そ。コンビニ」
「また変えたんだ」
「今年三回目」
「記録更新中?」
「の予定」
「根無草だね」
「回転早いって言って」
「それ変わってない」
立ち止まって話せばいい。でも二人とも何故かそうしなかった。ずるずる引き摺っていく重いだけの自転車が酷く煩わしい。緋田は歩調を合わせることもなく数歩先を歩いている。どの道遠い距離でもないのだからこのまま行こう。向かう予定だった目的地は緋田の勤め先だった。ついて行けば手っ取り早い。
「じゃあ待ってるよ。いいかな」
「……」
上目遣いで伺いを立てる。眼鏡の分厚いレンズの向こうは歪んでいる。もう何もかも一切合切、正せるものなんてないみたいだなぁ。歪み切ったらどうなるのか。緋田は伺いにさしたる反応を示さない。知っているだろうに、と目で分かる。あー、無駄足だったかな。断られたら仕方ないと腹を括った。
「いいよ」
「……ありがと」
どうでも、と頭に付されていそうな返事だった。露骨だ。断られた訳じゃないのだ。喜べば良い。素直さは大事だ。
緋田を前にしたら俺なんて些細な存在が喚いている暇なんてない。俺はただ黙って目を閉じていればいい。そうすればいずれ勝手に全てが終わるのだ。堪え忍ぶと言って小綺麗な美徳にすり替えておけば良い。どうせ皆同じだ。緋田の前には。高校生にもなるとそれまで曖昧だった上下関係がはっきりと正され、縦社会を与えられる。馬鹿な俺はそれでもいくつ年に開きがあっても良い関係を築く努力をすれば解決出来る。そんな妄想に浸っていた。
彼はとても良い成績を収めた学生だった。両親はそれをひけらかして喜ぶような人達じゃなかった。酷く円満な、絵に描いたような神童は全てに恵まれていた。俺は羨ましいと指を咥える浅ましさを呪うような、ただ家同士の距離が近いだけで話す事が許されているような人間だった。
緋田は今みたいな男じゃなかった。勤勉で努力家、何をやっても人並み以上に優れていて、誰からも好かれ分け隔てなく接する人だった。
ただし高校に上がってからはその限りではなかった。
その置き土産として俺は緋田と因縁のある連中から諸々食らって来た訳だけど。あれは何か、俺なんかが未だに緋田との関わりを絶たない状況が腹立たしいというやっかみ半分、単に標的を変えただけ半分とも言える。
ともかく周囲はよく人が変わったようだと口々に言った。でも変わったのは緋田じゃない。彼は何も変わっていない。状況に応じてそう見えるだけだ。それが周りには分からない。何故か。本当は始めから何の興味もなかったからだ。
変化の差異を平等に扱えると勘違いをしている。思い違いも甚だしい限りだ。彼の異質さが露見するところとなったきっかけが何だったのか何も知らないし、聞かせても貰わなかった。緋田は「それまで」を恐ろしいまでにあっさり捨てた。だから「これから」にも価値を見出さない。それくらいは俺が見たって直ぐに分かる。分からない方がいつだっておかしい。緋田の父親はアル中になった。母親は蒸発して行方不明のままだそうだ。離婚はしていない。でももう一緒にもいない。呆気なく終わった完璧な理想に嗚咽してから、意気揚々と彼に連絡をしたのは卒業式の前日だった。
いつの間にか緋田はフラフラしているだけのクズと呼ばれるようになって、学生の当時一度も正当な評価で上回った経験のない人間の溜飲を下げる役を一手に担っていた。
コンビニに昼間からワンカップを買いに来るような大人と緋田は暫く暮らしていたという。それを父と彼は言ったけど本当は違う。あれは生ゴミだ。家が日中は酒臭くて嫌だからと住み込みの仕事ばかり選んでいた時期があったくらいだから、どの程度かは想像に難くない。俺にも少しは分かった。家がいつからか家じゃなくなるのだ。追い出された訳でもなく、ただ違う場所に成る気配がある。誰にも分からない気配の跫音を同い年の頃、緋田はずっと聞いていた。俺は知らなかった。知らせて貰えなかった。当然だった。『後輩』でしかなかった俺には。
「お待たせ」
「緋田くん」
明滅する街灯に照らされたコンビニは周囲何百mにも渡って何もない道に平然と佇んでいる。実際狭苦しい田舎なのだけど、地方という名を借りた僻地の空は今日も鬱陶しい晴れ模様に恵まれていた。雲一つない夜空の下を歩いていく。付かず離れず歩いていて、結局途中で自転車は捨てて来た。もう乗らないなら必要ない。ゴミはゴミ箱へ、生ゴミは各自治体の指示に従って。
「なー、閑谷」
「なに」
「お前今日もやられたろ」
「うん?」
主語を濁して微笑んでいる。彼の唇が歪む。
そうだなぁ。あいつら、緋田の後輩だから余計図に乗るんだ。三年になった途端に居丈高になった。そういえばさっきコンビニの前でうじゃうじゃ固まって屯していたっけ。素通りしたけど。向こうも向こうで教室の外で事には及ぶほど暇は余らせていないんだろうね。俺にとってはアル中もクラスメイトも違いはない。風景でしかない。遠景に並んだ梢と、稜線を描く山。それらは何ら特別な思いを抱かせない。美しいと讃える人も居るけど俺はそうは思えなかった。全部緋田の妨げでしかない。
一人暮らしのアパートはお世辞にも広いとは言えない一室に招かれる。何日振りだろう。やっと入れて貰える。
「緋、くん」
「早ぇよ」
「ごめんなさ、‼︎」
限界を開けるもすぐに引き摺り倒されていた。後頭部をぶつけて目を白黒させていると、下を全部毟られた。足が寒い。「見せてみろ」って合図。
ひーくん、ひーくんと頻りに呼んでいたら殴られそうな顔に変わる。やだな、怖いよ。でもひーくんには殴られたいかも知れない。分からないけど、痛くしないで。
「あっ、いぃ、きもち……っひ、んんっ」
「なーに」
「見て、俺のビンビンち○ぽ見てぇ……っ」
我慢汁が汚らしく音を立てている、ぢゅぽぢゅぼぢゅぽ、って。馬鹿みたいな開放感に堕落する。酒池と肉林の延長線上に居る。
「駄目」
「な、んれぇ……」
「んー?」
緋田と寝る時はいつも冷ややかな緊張感で胃が縮み上がってしまう。ついでに愚息も。俺はセックスをしているつもりで向こうはメスと鉗子を使った非性的な行為を繰り返しているつもりでいる。こっちを切ったら骨はこうで、ここを裂いたら肉はこうで、という具合に晒されるだけ晒される。別にそれは嫌じゃない。少なくともジュースを引っ被って血塗れの真似事をするよりはよっぽど。かけて、欲しい。
「乗って」
「ん……っぁ、あ゙ア゙ぁっ‼︎」
熱い、下半身が溶けてしまう。何処でもいい。緋田のものなら何処にでも。
ここにメスが無いだけで緋田の部屋がワンルームだなんて呼ばれているのが何故だかもう心底面白くって仕方がない。だってこのベッド、まだ湿ってるんだ。別の誰かを呼んでいる形跡はある。男女の別は付かないし。干渉するかしないかで言われたら、しない。そんなのは緋田の自由だ。彼は自由なのだ。緋田を邪険にしないなら誰でもいい。彼を追い出さないだけでいい。延々と透明な檻から出る方法を探しているのは俺だけでいいのだ。
「ひ、くん……ねぇ」
「あ?」
あ、駄目かも知れない。でもいい、いいよ。
「せん、ぱぃぃ」
どうせ使えなくなった人生なら、いいんだよ。