男は窓辺にダイヤルを回していた。大小図形を組み合わせたはめごろし格子窓が隔てた路地は猫も好まない道幅で、二人も並べばすれ違うのもやっとになる。そんな道ばかりが深閑とした店内で男は受話器を上げた。受話器の質量とは裏腹に先方の不在を意味する無機質な間と、男は座っている。
もう毎晩の日課になるが、通話が繋がった覚えはない。少なくとも、繋がることで平穏には結び付かないのである。日の出の遠い辺り一帯では、男のかけた先に誰もいない事実を歪めずにいることこそが日常の証拠だったが、欠かさずかけ続けていた。
気の毒に。延々と回され続けているダイヤルには本来ならもっと多くの声を届ける役目があった。今はもうない。
男のすぐ横を影が通って行った。店先の外灯がぱっと遮られる。これでもう何週目になるだろう。通行人は恐らくその週もこれまでと同一人物であると思われた。現に窓際を通れば必然、おおよその背格好や歩調は知れた。大柄の巨漢ではない。路地の先によく転がっている中毒者の痩身でもない。相手は至って中肉中背の男と似たような体躯の人物で、荒い息遣いを時折溢しながら去って行った。
何処の通りをどう渡り歩いて来るのか隘路を足早に抜けていく影の数は週を重ねていく内に、いつからか二つに増えた。受話器を壁に戻す。無言で椅子から立ち上がると、格子窓が目に入らない店の奥まで後退り、そのまま店を飛び出した。二人になってしまった。
男は店番を早め路地に立っていた。右手は常に影の去って行く方向。左手はT字路に合流する枝道。
何処に引かれた配線かも辿れない窖の先を進んで、二つ目の角で曲がろうとしたのは目指していた場所がなかったからだった。進まないのであれば戻るしかないがそれだけは出来なかった。進退を考えるべき岐路に差しかかった。後戻りをすることはなかったが、前にすら踏み出せなかった。
辺りを騒がせたのは一発の銃声で、どうやら店からはそう離れていない通りで起きたらしい。
振り返ってみろ、どうなっても知らないぞ。遠く離れた町で起こった災難として通り過ぎろ。でないと次はお前だぞ。耳にしたのは受話器の向こうで、この所男の相手をしている幻聴だった。
三つ目の角を越え、四つ目、五つ目を曲がる。途中何処かでベルが鳴った。男が更に路地を行く。進む内に偏狭な頭上を仰ぐ頻度が増えた。電線が縦横無尽に這うが、薄がかった霧雨によってはっきりとは見通せない。よく見ようとして目を凝らし過ぎた所為で、何かにぶつかった。ドラム缶だ。そこはガラス屋の入った店先で、男にとっては不慣れな番地だった。やけに重い当たりが気になってドラム缶を覗き込んだ。中身はガラス屑で、大小に破砕されたものが詰め込まれている。いずれ再び溶解され、また積まれるだろうひび割れた屑の上で、黒線と男が交差した。
ガラス屋を抜けて、男の息も切れ出した頃。投げ売りにでも遭ったかして置かれた書棚が蹴倒されていた。道幅の半分を埋めてしまった棚に妨げられていて通れず、果てのない路地の一部に行き止まりを作っている。妨げられていても埒が明かなかった。木製の、やはりドラム缶に似た重量感の棚を引っ張り起こす。その拍子に男は棚から飛び出してきた一冊の本を目撃した。きっと草臥れた古書で、棚ごと卸されたものが、こんな時にになって現れたのだ。だが表紙は殊の外真新しく、帯まで巻かれていた。ヨレのない宣伝文句が添えてあり
『○○大賞受賞作』
漸く棚を元の位置に戻す。よろよろと様子を確かめに出て来た売主が男を見ていた。
『もう終わったのかい』
男が電話の前に戻ったのはそれから優に数日経ってからのことだった。日課は欠かさずにいる。席はまだ空いている。窓際のベルを鳴らし続けているが、受話器の脇でに黄ばんだ付箋が一枚貼り付けられている。何桁かの番号と、番号を大袈裟に囲む赤い円とが描かれていた。男は付箋を剥がして裏返すと、そこへ一筆添えて笑っていた。
『はじっこ大賞受賞』
「ならなくてよかったな」
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2023.8