羞明の瞼

空き地のアンブローズ2

 一度手放した何かを買い戻そうとした時。挫折した本を開き直す時。途方もない時間をかけて来た自分の一歩が、他人の半歩にも成り得ないと実感する時。困難だと思っていた道程が、想定以上に緩やかに終わった時。
何とはなしに、開けた場所に足が向く。どんな場所だって良かった。手近に存在して、寛く誰の為にもある空白地帯へ。

 吹き荒ぶ寒風から逃げるようにして貯水池の前を足早に抜ける。バイパス道路近くの土地柄か、周辺の家々は概ね嵩上げを施してある地区はどれも平地より一段と高く建てられている。低地という立地を度外視したものか、数年前に建てられたマンションの地下駐車場が大雨の増水で頻繁に水没する十字路を抜ける。低いから水が出る土地に、犇き建つ家並みに見下ろされながらかつて拓けていたところの前を過ぎる。
 伸び放題の叢は影もなくなっていた。バイパスを囲う遮音壁越しを大型トラックに追い越される風景、季節の変わり目に伴う水気の変化。錆びたままのガードレールと、有刺鉄線を巡らせたままの台地は殆ど何も変わっていない。取り払われた買主募集看板の位置は既に私有地の舗装が施され、新たに表札のかかったコンクリート製の門柱は無機質ながら真新しい出立ちを隠さない。戸建てが一棟と、駅に近い立地を生かしたアパートにすっかり様変わりした、空き地を除いては。
 誰の為にでもあると嘯いてみても客観的にはどうやっても勝手侵犯で、空き地は空き地として管理者と所有者が要るものだ。当然ながらプレミアシートに利用するのは御法度だ。抜け道に使うなどというのもまた同様に。

 といって、どちらの非に秤が傾くかを考えてみたところで詮無い。足繁く通う土地ではなかった、というだけで免れたそうした事柄を、新築の物件を眺めていると眼裏に描き出している。
彼のことは今でも時折、文庫判に収まった文字の中に見付ける。無意識にもならない意識の下に、事切れた弦の息苦しさを。
 河原の畔には水鳥の間延びした響きばかりになり、極稀にするのは甲高い金管楽器の、これもまた水鳥に負けずとも劣らないくぐもった演奏だった。もしかするとそれらは楽器本来の演奏ではないのかも知れない。バイオリンを代表として、木製のボディで構成された弦楽器は湿気で音が変わってしまうという性質を持っている。外で弾こうとはしないものなのだろう。皮張りの三線とは別ものだ。室内楽の為のものなのだろうか。確かに、海だとか川だとかの演奏会というのも、牧歌的だがあまり馴染みがない。疎いのだ、と言われてしまえばぐうの音もないものではあるけれど。

 今までの時間はそこにはなくなった。
遠く、見えないところからの拍手を彼に届けようとしたことはなかった。聞こうとして聞いたものではない機会だったからこそ、空き地という荒涼に吹く隙間風の快さの中にいつかの彼の影を捜していた。彼がここにいないのは喜ばしいのかも知れない。誰もいなくなって初めて取り残されているのだと気付いた場所だった。また元の通りに開けたところを探そう。誰の目に留まらないそういう空間を探すのは得意だ。
 いつだったか咲いていたのは何という花だったか、思い出すことも忘れて暫く整えられて様変わりした元、空き地の目前で突っ立っていた。

 彼の音はもうない。自分も早く立ち去らなくては。

 バイパスの真下には反対側に抜けるトンネルがあって、子供がジャンプすれば手が届く高さに天井がある。真上の道路を支える橋のような役目のボックスカルバートと呼ばれる作りの小規模なトンネルだ。内部は角ばっていて蛍光灯が妙に明るい。低く掘り下げてある為に、結露が発生しやすいのは何度か通って分かった。抜ける時はひやりと冷たい。内部壁面のカラフルなグラフィティはきっと夜間に描かれているだろうものだから、いたちごっこ好きらしき犯人は、冷え症ではない人々に違いない。

 実際の高さが高さなだけに頭の心配をしながら通る必
要のあるトンネルはたった数メートルもない距離を潜ると、近隣では比較的大きい公園に辿り着く。そこから公園の中心を並木に縁取られたアスファルトが貫く。

 トンネルから続く舗装道で分けられた公園の右手には設置型遊具がスペースを遠慮がちに使い、左手には丘になった砂地の広場と木立とだけが占め、他に公園らしいものは殆ど何もない。囲うように生える木と少し距離を置いて、椿の幹が地面から束になって伸びている部分とがあった。バイパスが隣接している所為で道路が壁のように迫り出していて、何とも言えない境界線を公園に作り出す。察するに、住宅街と街道の緩衝地、もしくは位置関係としては騒音対策の結果だろうと思わされる、そんなところ。
 ある方とない方とでは、どうにも「ない」方を選ぶ性格上、時に損をすることくらい分かっていて足が向いた。見かけていても入らないでいた場所を選ぶ時は決まってそんな動機に身体が従う。

 暖かい時期には埋め尽くすようにあった緑葉も今は枯れ落ち、幹が唐突に地表へ刺さっている、といった具合の椿達が一際目を引いた。太く育った他の樹木より、何だかその唐突に植わっている姿を見る。大小互い違いに土からはみ出すものとはまるで違う、木枝の向こう側を何かが過ぎった。
狸だろうか。それとも栗鼠?公園の周りでは電線伝いに移動する外来種が散見される。実際目にすると鳥と見間違えたかという素早さで、それなりに驚きもする。
 とはいえやはり見間違いだっただけなのだろう。枯れ枝の間からは鳥一羽も飛び立たない。
冷え込んで来た。ここで寝そべるには随分風当たりが強い。指先の温度は確かめるまでもなく、立ち去りたがっていて。

「あ、れ」
「ん?」