羞明の瞼

 これ程奥まった端の際に置かれたベンチに、さも出会したという顔付きで座っていたのは三線の彼だった。
 第一声に何を発するべきか分からず、ぼうと突っ立ってしまう。図々しくないだろうか。以前まではどんな風にしていたか。身の置き場をなくしているのを見かねて、三線から離れた手が気さくに隣を促した。

「久しぶり」
「ここは……」
「病院裏。ほら、すぐ裏手に建ってる。最近建て替えて綺麗になったらしいけどね」
「病院?」
「そう。市民病院。めちゃくちゃ混むんだ。俺も前に一度入院してたから」
「へぇ」
「大病とかじゃないけどね。ただの高熱だった」
「昔は病気がちだった方?」
「とは聞いた。全然記憶になんかないからさ、こういうの」
「そうかもね」

 至極当たり障りのない会話がふっと途絶えたタイミングに、言うべきことがやっと形になる。

「会えると思わなくって」

 ややあって、彼には申し訳なさが勝り、どうにも罪状を告白するような重さを伴ってしまった気がして反応を窺ってみる。すると、やはりあっけらかんとした調子で言うのだ。

「じゃあ俺もそうしよ」
「じゃあ、って、君変なことを言うね」
「そう?」
「観に行くつもりは、なかったんだ」
「そんなに遠慮しなくていいのに」
「いや、そういうつもりは……でも前に」
「“行かない”って言ったから?」

 どうやら考えは先読みされていたようで、首肯した横で爪弾きながら、彼はこの場所であったことを聞かせてくれる。弾き語りとも呼べないものが一緒になって辺りを埋める。

「——そう、それでさ、ここで弾いてると子供が寄って来るんだよ。近くの幼稚園か放課後の散歩かな。不審だと思われてもだし、あんまり気にしてなかったんだけど。好奇心かもね。二、三人で偶に聴きに来てくれるんだ。危ないよって言うんだけど、『その時は叫んで先生を呼ぶ』って。しっかりしてたよね」
「それはまた」
「ね。教育行き届いてた」
「今日は来た?」
「いや。そういえばまだ見てないな。いつもは来てる時間……ってああ、そうか」
「?」
 何か思い当たったのか、膝を打つ。

「少し早く来たからかな。多分。急いでたんじゃないのに、偶々。もう切り上げる気だった。いい偶々だったかな」
「……よかった、もういないかと」
「もしかして捜してた?」

 一瞬ぎくりと何事もなかったように振る舞おうとしたぎこちなさで、視線が強張った。余計な気を遣わせたくない。他意なんてない。空き地から追い出した後で追い出されたからと言って、傲慢に過ぎると思う。彼については紅茶が得意じゃない他は何を知ってもいない。

「ああ、えーと。そう言われると、はは、何だか不思議な気がするけど」
「そうかな。聴きたい人がいるのは、悪くないよ」
「俺に?」
「……あー、いや、今のは言わせた。聴いてくれる人が実際目に見えてる相手だったら良いのにって、だけ——」

「これも我儘っぽい」。何がおかしいのか、途中から子供っぽく上体が揺れた。企みにかかってしまったのかとつい勘繰って、負けじと唇が動く。

「会えると思ってた?」
「どうかな」
「君、それは狡いぞ」
「でも来てくれるなら、何処かで聞いてるってだけよりずっと嬉しい」
「……何だか初めと別人に見えるよ」
「そうでもないよ。あんまり変わってない」

「なら君が気付いてないだけだ」
「はは、親父みたいなこと言う」

 彼曰く地元を出る以前の様々な出来事を三線は頻繁に引っ張り出してしまうようになったのだという。実父のこと、遠くのこと。寧ろ弾いている方が郷愁に駆られるのだと。

「別に、そんなこと言わなくても急に消えてなくなったりしないのに。態々言ってくれるならまた帰って来い、とかの方がいい」
「……戻らないかも知れないから、言えないんだよ」
「そうかな。それこそ分からないし」
 
 
「だから、なるべく気にしないで会いに来て欲しかった、って言いそびれた」
 
 押し黙っていた時間はそれほど長くは感じなかった。
 
「昔の話。今の、聞かなかったことにして」 

 言い終えるかどうかのタイミングに横髪を風が強く吹いて、それが空風だったかどうか分からなかった。
 なくした空き地と特等席の代わりに、こんなところで思いがけずないと信じてさえいたものがあった。頁上からはみ出して、ここに。
これは、弱ったな。

「どうしたの」
「……ごめん、何でも」

 怪訝に取られてしまっていないかを確かめたがっていた。居た堪れなさを反動にベンチから立ち上がる。つられてか彼も隣に並ぶ。そうすると、互いの背丈は然程変わらないのだとの錯覚がまるで勘違いだったことが図らずも判明して。

「その内また来て。多分まだいるから」

 名残惜しそうに見えているのは気のせいで、伸び放題の雑草も古い異国の辞書も挟まずに正体するのがこれ程困難だったとは。上手く応えられないことが、これ程心苦しいとは。ない方を好むことが板に付き過ぎていて、足が竦む。
 大袈裟だ。ただの予定。未定にだってなり得るのだから気後れしては余計、後が。

「あ、あの人まだいる」
「おにーさーん!」
「あれ、もうそんな時間か」

 二人して振り返って見たのは、話に上がった子供達だった。息急きベンチまでやって来ると慣れているのか燥ぎ回る。どちらも背格好からして年長くらいにも見えたが、小学生かも知れない。同じ組なのだろう。活発そうな一人とは対照的に、利発ながら顰めっ面のもう一人については渋々付き合っている様子が窺えた。不審がられているのは目に見えていた。というか、威嚇している気がする。どうも彼は嫌われているらしい。しかしあからさまな警戒心を剥き出しにされている一方で、扱い慣れているのかほぼ意に介していない。

「何度も言ってるけど変なことしたらすぐ言うから」
「君らから来てるんじゃなかった?」
「ねぇねぇ、今日は弾いていかないの?」

 無邪気そのものといった言葉で、子供達に囲まれている姿は心なしか明るい。
 そこでふっと躊躇いに腕を掴まれた。
 ああ、そうだ。このまま、このまま立ち去ればいい。明確な約束など交わさずにいればいい。
だけどそれでは何だか余りにも場違いな異物になってしまいそうな焦りで、一歩。

「そうだなぁ」
「「?」」

 何のつもりか彼が子供達を挟んで、こちらに顔を向ける。その拍子に三者三様の瞳に晒され情けなくも怯む。

「あ……」
「おにーさん、おともだち?」
「いや、えーと」
「ねぇ、大分怪しいんだけど。通報する?」
「大丈夫。何にもしないよ」
「そうなの?」

「じゃあ何でここにいるの?」

 フォローに安堵したのも束の間、何で、と吐き捨てられる。二人どころか自身以外の全員の疑問が注がれ、幼年期特有のそれに今度は彼は何も言わない。
どうして、って、そんなの——。

「みーちゃんさ、今のはないよ」
「は?」
「それうちが言ったときみーちゃん泣いてたやつじゃん」
「はぁ⁈いつ‼︎」「この前」「ばか言わないで、そんなの知ら……っ‼︎」

 言い合いに発展した最中、何かに気付いた彼が割って入る。

「それ、何で言ったの?」
「え?」
「今自分で言ったよね、泣かせたって」

 同じ目線の高さになって促す彼の姿は何だか様になっていた。きっと一人じゃないんだと気付かされる。帰郷を待ち侘びる、そういう人々に送り出されてここまで来たのだろうことがそんなことで容易く想像される。
 彼女は咎められたと思ったのだろう。快活に見えた表情に影が差す。

「……わかんない。みーちゃん、いつもうちといる時嫌そうなんだもん。いたくないのにいっつもあそんでるの、何か変だもん。わかんないんだもん。知らなかったんだもん」
「ふ、そうだね。変な話だね」
「ち、ちが」

 次第にどう言い訳しても何処にも味方がいないと悟ってしまったのか、打って変わった気弱な今にも泣きそうになっている顔が紅潮し、くしゃくしゃになる。着飾ることもなく、気取らずに泣く子のようだ。

「また泣かせちゃった」
「……う〜」
「大丈夫、ほら、泣かせちゃったら?」

「……ごめんね」
「やだ、許さない」
「えっ」
「この前の時も言った!嘘つき‼︎」
「だってそれは——」

 落ち着くかに見えたところでもう一悶着起こりそうで、彼へ視線を送る。何処か穏やかに目尻を変えて見守っている。心配はしていないようだった。真似したって始まらないけれど、どうも彼はそういうことを厭わないようだ。近道だとか、仲裁だとかそういった関わりを避けようとしない。正反対のところに立っている。
 濡れたトンネル。遮音壁の上。唐突に生えている椿。空き地の切れ目。終わりに、ここ。

 今まで目にした外界が想像より明る過ぎたのだろう。瞬きによってひりつきが除かれる気配はない。ならもう、そのままにしておこう。いくら望んでも出来るものじゃない。閉じ続けられないなら、直視しないでいるのは。

「止めなくていいの」
「今はね。でもあれは平気だよ」
「そうなんだ」「あくまで俺見立てだけど」

「えらいね。ちゃんと誤解されて、言い合うのって」

 決め付けて思い込んで、漸く何かに引っかかった感触を得る。躓く小石だったのか、入り口だったのかは後からしかはっきりしない。
 だから、ここにいる。

「すぐに来るよ」

 脈絡のない呟きから、殆ど勢いに便せられて飛び出した返答だった。間を置き過ぎていたかも知れない。きょとんとした彼の前に尻込みして言い淀む。決め切れない性格なのだと思い知らされて、けれどそこから転がりそうな何かは確かにあった。あって欲しくなった。
 これじゃまるで自分に約束しているようで気恥ずかしくなり、彼に対して言い直したつもりで結局濁していた。

「か、確約は出来ないけど」
「しなくても大丈夫だよ。でも待ってる」

 望んだようになるかは別だというのに、彼からの確かな信頼を受け取る。報いなければ、と思い、そこまで気負わずにいた方が良いかとも思い直した。
どちらにせよやはり気恥ずかしい。「都合の良い解釈」に従うのであれば。

「それじゃ取り敢えず、今回はお開きかな。そっちは終わった?」
「みーちゃんいいって許してくれたー」
「そっか、よかったね」
「言い方軽いんだけど……さいあく」
「軽くないもん。おにーさんたち、またね」

 見立て通り、争い終えた二人を先に見送るとどちらともなく顔を見合わせる。どちらから立ち去るか譲り倦ねている奇妙な状況に、鏡合わせに苦笑いを浮かべた。
 それならいっそ途中まで行こう。そんな流れに任せて、他愛のない話を交わしながらベンチの次、その日最後に着いたのは駅前の三叉路だった。
彼は駅側で、丁度青に変わった白線の上を軽やかに駆けて行った。


 切れた弦によろしく言っておいて、と渡り際冗談めかしてみる。すると「なにそれ」と振れる肩で、再びひりつきがぶり返した。その揺らめきが焼き付いて、それでどうしてもまた空白地帯に訪れたくなってしまったのだった。