手摺が根本から折れかけそうな錆びた階段をそろそろと上がる。外からでも隣室の生活音が漏れ聞こえる廊下の最端にある扉もまた、階段同様に年季の入った佇まいで鎮座している。念の為にドアノブを何度か捻るが勿論開く筈もない。施錠した扉が意図せず解錠されていたり、部屋に何らかの機器が無断で仕掛けられているなんて日常は異状の一言に尽きた。
やっと解放されたのだ。もっと喜んでいい。
なのにワンルームの間取りは記憶にあるよりずっと広く思えてならない。三辺の部屋とは正反対だった。窮屈で、身の毛もよだつ居心地の悪さだけはそっくり同じままだが。
朝出た時と何も変わらない配置、何も変わらない借家の玄関口で雑に靴を脱ぎ、温度のない板間を超えて万年床に身を投げ出した。疲労感が睡魔に変貌を遂げ微睡んでいる間にもぼんやりと熱を凝らせた身体に違和感を覚える。
こんな時、以前ならどうしていたか。買い蓄えた缶ビールを呷って外が白むのを待つか、諦めてじっと冴えた目を瞑って時間が経つのを待つか。どちらにせよ不毛なことはあれからただの一度も音沙汰のない画面を眺めれていれば嫌でも分かった。
手繰り寄せたシャツについた皺を伸ばしてみる。
こんなものですら突き返せなかった後悔に苛まれながら。
行為の影響で嗄れた喉に嫌気が差した。咳払いしようものならよほど耳障りだろうと気が引けているのに、態とらしく叩き起こしてやりたくもある。煮え切らないまま引っ込みのつかなくなった指が向かったのは最終的に、隣で丸まり小さくなっていた三辺だった。聞き取りづらいがまた何か呻いているようで、そういえは書架の向こうで一人船を漕いでいた時も似たような体勢だったかと毛布をかけ直した。ひょっとして夢見の悪くなる寝方なんじゃないか。指摘しようにも当の本人の意識はここにはない。ストーカー、いや元ストーカーの犯罪者ならこれだってまだ手緩い。もっと苦しんだっていいのだ。
寧ろそう考えてでもいないと、でないと痛んだ頭が触れてはいけない何かの蓋をこじ開けてしまわないか気が気でなかった。所在なく彷徨った結果、握った拳を自らの額に打ち付けて苦虫を噛み潰す。
何をやっているんだ。たったの二回関係を持ったとはいえこんなのはあんまりに似合わないしらしくない。同じ相手と寝たのは一度目じゃない。添い寝にしてもそうだ。決まり悪くなる必要が何処にあるっていうんだ。
ともかく、起きていないなら起こさなくていい。散らかした服を着て、ベッドを抜け出すとまただだっ広いリビングに逃げ出した。
あと数時間もすれば日の目を見る街をベランダに出て眺めてみる。向かい側に陣取るビルの高さに阻まれて、根本に建ち並ぶ低層の住宅街は未だ影の中にひっそりと埋もれている。
高層マンションからの眺めは高所だという条件こそ違えど、何処か安アパートの角部屋からの景色を思い起こさせる。
こんな時は無性に煙草が欲しくなるが、生憎火種はおろか手持ちのあらかたは連れ込まれた際意図せず何処かに消えていた。スマートフォンはすぐ見つかったというのに。とはいえ荷物が隠された、或いは捨て去られたという疑いは不思議と湧かない。きっとその辺のぬいぐるみに紛れて転がっている。回収したら、今度こそ本当に最後に、しなければ。
『まだいたんだ』
『‼︎』
『帰ったかなって。でも鞄、残ってたし』
いつからそこにいたのか、背後を取られてしまった。しかも予想より遥かに近い距離に驚く。後ろはもう手摺しかない。何処かで見覚えのある追い詰められ方だった。何より人目に付くか付かないかで言うならベランダの方が随分と見晴らしはいい。ただし見えさえしなければ場合によると大学図書館よりはいくらか真面なだけ。真面じゃないのは、目の前にいる三辺だ。俺は違うんだ、とはもう言い切る自信が持てない。
態々探しに来たんじゃないかと数ミリでも疑ってしまうととてもじゃないがもう素面でいるのが我慢ならなくなって来る。
『何処にあった』
『向こうの……』
暗い部屋と外とほ境界線を跨いだ、眠たげな三辺は何でもなさそうに横目で場所を指すが、逸れていた視線が戻るとすっと顔付きが変わる。何だと思って見返せば、それは一瞬の出来事。
『っ外でしたい願望でもあんの……』
『口寂しそうに見えたし、同罪』
誰も口寂しいなんて言っていない。触れ合っただけの唇を再びなぞられると肩が跳ねてしまう。たかが口付けの一つにこんな反応は見せるべきじゃなかった。調子づかせていいことなんて何もない。特にこいつのは、油断すると下手な状況に陥って逃げ出せなくなる。はっきり分かったのだ、この身をもって。
『も、やめろ』
『あ。なんだ』
『……?』
徐に袖口を引っ張られ、何が面白いのか三辺は目を細めている。訳が分からずにいると殊更おかしそうに吐息混じりで、秘めやかな耳打ちが返って来た。
『だってこれ、俺の服』
あ、と口が形作って、気まずさに顔を合わせられなくなった目を足元に落とした。間違えていたなんて。偶然が重なっただけでそこには何の意図もなかったのに、妙な含みを持たされてしまうと上手く言い繕えなくなった。指摘通り羽織ったシャツは襟刳りと肩幅に余裕があって、自前のものじゃないことが、意識した体格差と一緒に判明する。年齢からして細身だと思っていたがどうやら勘違いだったようだ。
思い返せば押し退けようにもびくともしなかったのだ。と、更に口籠った。それら全てに紐付いた昨夜の行為の細かい部分一つ一つまでをも呼び起こすという墓穴を掘ってしまって、歯噛みした。咄嗟に袖口を振り払って、何ならその場で脱ぎ去ってやろうかとも。
『すぐ返……』
『返そうとか思わないでいいよ。貰って。最後だから』
◆
似たような別れがなかったろうか。最後の続きを探してみても、そんな過去は二つとしてなく比べるべくもない。何せ、今まで家族でも他人でも、別れたらそれきりの関係しか築けなかったのだから。含みなんてあってもなくても意味する事実が変わりはしないだろうことに、無性に言い訳を並べ立てずにいられない。思い知らされる前と後とで平然としていられたらこんなことにはならなかった。
口実を求めて裏切られた気になっているだけだ。
「……っ」
違和感の正体は事もあろうに露骨な形で主張していた。恐々熱の中心に手を差し込むと冷たさに息を乱して即座に引いてしまう。それからすっかり生え揃って鼠蹊部の表皮に蔓延った毛に爪の先を焦らすように引っ掛けて何度も何度も執拗に繰り返すと、また一段と嵩を増した勃起が先走りに濡れそぼった。厄介な疼きに堪え切れなくなると、どんな些細な刺激も垂涎の的と変わり果てる。裏筋を指の腹で痛いくらいになぞり竿の付け根から切っ先に向けて行きつ戻りつさせつつも、シャツに歯を立てた。薄い壁が何処まで声を響かせるか分からない為に塞ぐしかないからだったが、明らかに愚策だった。
意識の外に追いやっていた一切がそんな軽挙で全身に蘇って広がると、捌け口を求め始める。迂闊に手を出してしまったのが悪いに違いないが、治めずに眠れそうにはない。だから仕方なく。聳り立った昂りを取り出して、意を決した。
最初は表面を慎重に撫でているだけだったのが、乱暴になった手付きが先端から鈴口を弄ぶ。掌で包んで握り込むだけでシャツはもう唾液で塗れて、口を解放してしまった。
「……っふ、くぁ……っ♡」
想像以上に甘い、物欲しげな喘ぎに目眩を起こす。銀糸を噛み切って、ゆるゆると頭を振った。
足りない、こんなんじゃ。
目に付かないように仕舞い込んでいたそれを引っ張り出す。店を辞めてから受け入れる機会が減り二度と拝まないと思っていたそれ——ディルドを。躊躇いは殆どなかった。
肌と似た色味に象られたシリコン製の、血管を模したグロテスクな凹凸にゆるゆる舌を纏わり付かせる。人工物が持つ冷ややかで容赦のない質量をただ欲望に任せて舐り尽くし、頬張り切らない根元をまるで生身にもそうするかのように丹念に愛撫したところでぶつりと理性が千切れた。
熱い吐息と掠れた嬌声の端々に滲む切望を叶えるべく、秘部に亀頭を押し付け、支える手に力を込めた。
「ぁ、あ……ぅ…〜〜〜〜♡‼︎」
腸壁を割り開いて進む怒張に四肢を震わせて、半ばまで挿れた辺りで一息に貫いた。視界が明滅し顳顬に汗が伝う。声にならない声を上げ、髪を振り乱したこんなだらしない半狂乱の痴態が万が一にも隣室に漏れたら。浮いた爪先を丸めた。
見られて、いないつもりでいた。だが実際に室内は一度三辺が解錠していて、隠す所など多くない室内に機器が仕掛けられていた。見付けた物は全て取り除いた筈だ。だがもし取り逃がしがあって残っていたとしたら。それらがもし動いていて、記録されていたとしたら。
瞬間、ディルドを隙間なく食い締めていた。阻まれた抽送を無理に突き入れ、引き抜く、挿れる。
「ぁ゙っあ……っぐっん、ぅぁ」
想像に耽れば耽るほど内部の感度が高まって、歯止めが利かない。頼りなく揺れる陰茎が痛いくらいに張り詰めているのに後ろばかりを責め立てる。腰を振りたくれば無機物の齎す擬似的な感触を脳が取り違えていく。頭の中で作り上げた相手は、かなぐり捨てた不様なプライドを上から踏み躙って酷薄に嘲った。
『やらし』
「……っ…‼︎♡」
『イくって言えたらイかしてあげるよ』
「っ、……ぁっ、あ゙っ……、っイ、ぅ……っ‼︎」
すぐ耳元でした錯覚を助けに目一杯穿つ。胸元へ引き寄せたシャツを掻き抱けない背中の代わりにして縋り付いていた。程なくして先延ばしにした限界に達し強烈な放埒に身震いする。後孔はディルドを引き抜こうとした動きだけでもひくついて、惨めに強請る。せめてドライで達さなかっただけ幸運だった。強烈過ぎる感覚は恐怖にも近かった。
白濁の飛沫にあちこちを汚して、身体中の神経を根こそぎ持っていく吐精感をやり過ごした後はどうしようもない虚しさがにじり寄って来る。一度弛緩し切った四肢を丸め込んで項垂れた。
会わない、と勝手に最後を決めたのは三辺だ。その何がタチが悪いかといえば単純に、知っている所為だった。一つも知らない赤の他人にしては踏み込まれ過ぎたし、踏み込みすぎてしまった。
しかも三辺の通っている大学と家は割れてる。こっちにしても大体似たようなもので、接点はまだ途切れていない。もし鉢合わせないのであれば何処かしらで待ち構えていればいずれ現れるのではないか。流石にこの愚考には自虐するしかなかった。
これじゃどっちかストーカーか分かったものじゃないな。
せめてもう一度でいいから、殴ってやろう。
表面上だけ認めない振りをして余韻を払い除けた。
方法なんて、選ばなければいくらでもあるのだから。
◆
同じ講義室の前列に腰掛けた横見の向ける、何か物言いたげな目付きを極力受け流すよう努めて席に着いた。
「喧嘩?」
「違うけど。じろじろ何?」
「いやぁ、随分男前な面してんなってさ」
後方寄りの席には一限という都合上人がほぼおらず、全体として見ても出席率は比較的少ない。それもそのはず、履修に強制力のない位置付けの単位を欲しがる学生はそうそういないからだろう。例えば進級の危ぶまれる落伍者が何とか留年措置を免れたいという目的でもなければ余程の物好きを除いて興味関心をくすぐられるとも思えない講義内容なのである。講師自身が初回のガイダンスに際して言い放つくらいなのだからお墨付きというか。シラバスに小さく掲載されている程度だから察してくれと言わんばかりで、それらは出席する生徒の間でも当然黙契されているのである。
ともかくその一人でもある横見に珍しく先を越された。というよりも珍しく家を出る時刻を間違え、開講五分前に滑り込んだのだった。運の良いことに直前になっても講師は不在だった。
「猫にやられただけ」
未だ見詰められたままの頬を頬杖で覆う。腫れはそれほどないが、殴られた時に歯がぶつかって切ったらしい。口内にささくれじみた痛みが走った。殴った張本人の顰め面を思うと向こうも相当なダメージだったのだろうが、自らの行動を棚上げして良いのならば、一矢を報いて無傷で終わらせないところなんて余程負けず嫌いなのかと疑う。
勝敗を決めても仕方のない話なのだから、疑問を抱いても解く方法がない。
「それさぁ、もしかしなくても虎の間違い?」
教壇が依然として空席なのをいいことに好き放題言いつつ、横見が何かを思い出したように口角を上げて見せるものだからつい前列の背凭れをこれでもかと蹴飛ばした。何処まで分かっているつもりなのか知らないが癪に障る。
「いった!お前図星なら蹴んなよ……足癖悪っ」
「蹴ってないけど?」
「じゃ誰の足だよ今の」
「さぁ」
白を切っていつものように軽口を叩いていた横見は流し目を送って、手元の画面を暫く眺めていたと思うと半身で振り返った。
「てかさ、大賀君ストーカーしてたってマジで?」
「…………何それ、意味不明」
「へぇ、本人に聞いたんだけどな。この間会って、鎌かけたらそうだって。冗談だったんだけどまさかだよなぁ」
講義室でするにしては些か場違いな会話に拍車を掛けたのは、本鈴と共に登壇した別の教授だった。室内正面に据えられたスライド式のホワイトボードに手早くマジックが走る。『本日休講』の四文字が踊ると同時に何人かが席を立った。生徒に事前の連絡を怠るような講義だとは思わなかったが、稀によくあることだ。一応出席の扱いにはなっているし、損失分を補填するのは向こうの責任だから不問に付すしかないが、見過ごせない問題が新たに齎されたのは所謂自業自得か。
「一限空いちまったな」
すっかり二人以外無人になった室内を見渡して、遠慮のなくなった声が響く。
彼が横見と部屋以外の何処で会ったかは知る由もないが、職場であるゲームセンターを辞めておらず、かつ横見が出入りしていたなら確かに顔を合わせる機会はゼロではないだろう。今更首を突っ込むのはお門違いも甚だしいし、もうこちらから連絡を取り付ける気もなかった。
本来なら一度目の後、何なら拉致する前の段階で逃げられるつもりでいたくらいだった。だが実際に彼は逃げ果せるどころか二度目を許した。チャンスを与えられた筈だった。手放す好機だったのだ。結果はご覧の有り様で、いっそ笑い出してしまいたい。
ただの気紛れであればいい。最後に見せた久我大賀の表情はそれまでの抵抗を諦めたものだった。単なる欲目から生じた気の所為だと言い聞かせておいたものの、都合よく捉える性根は認めざるを得ない。だからこそ居場所を突き止めるだけにしておけば良かったのに、初めて会った日が頭からどうしても消せなかった。
黙り込む。仮に横見が脅迫のつもりで話を持ちかけたとして。信用に値する性格じゃない同士と適当に連んでいたのが間違いだった。もっと早く出禁にしておけば良かったか。
当の張本人だけが罪に問われるのならさておき、彼に何か不利益があってはならないのだ。しかしこれも戯言に過ぎなかった。最たる不利益が一体誰なのかという点については異論の余地もない。
「で、何が目当て?悪いけど金ならない」
「まぁ俺は別にそういうの興味ないっつーか……まぁ一つあるとするなら——」
「……するなら?」
不敵な笑みに固唾を飲む。横見は指を打ち鳴らし、腰を上げた。
「ちょっとこの後付き合って欲しいとこあんだよね。行くだろ?」
◆
繁華街の端の雑居ビルは打ち捨てられたように建っていた。立ち寄った経緯は恐らく自棄だ。
実子を道具以下の監視動物の類としか見做さない父は、裕福な家柄の母を出し抜きたかったのだろうと今では僅かながらに同情しなくもない。大学への進学を機に移り住んだマンションは母方の伯父が保有する不動産で、伯父夫妻は最上階を住まいにしていた。世間的に両親もどちらかといえば恵まれている側で、そのまま恩恵を享受する立場にあった自分は期待していたのだ。
幼い頃から父は家族という共同体の仔細を把握しておかなければならないという強烈な妄執に取り憑かれていて、監視下の子供部屋で眠るのが嫌で仕方がなかった。物心ついてから聞けば母も同じ目に遭っていたというから気味が悪くなって訊ねると、彼らはこともな気に答えた。
『仕方ないじゃない。だってあの人、他に何もないんだから』
よく破綻せずに家族の体裁を保っていられたものだと感心する。やっと実父の手を離れて、親頼みではあるものの居を移すまでこぎつけたのだから。
とんだ間抜けもいいところだ。どこまでも甘かった。十数年間片時も許されなかった自由らしきものに目が眩んで、油断していたのだ。真新しい鍵で扉を開け立ち入ると——その後はもう、ひたすらに己の浅はかさを呪った。
正直なところ、体面上は品行方正に育てられた自覚はある。例えそれが規律を重んじる精神からでなく利己的な支配欲の生んだ産物だったとしても、唯々諾々と服していれば少なくとも平穏は約束される。だからだ。だからあの人は諦めたのか。それから寸分違わぬ結論に至ると分かった上で忠言もせず見限った。彼らの捩れた関係に何故亀裂が入らないのか不思議でならないのが、殊更に不気味さを助長した。
ただ判然としている事実は一つだけ。このままいれば利用され続けるしかない。見下したがりの誰かの欲を満たす所有物であるという義務感が跳ね返り、いつしか両腕に無数の自傷を残せば転がり落ちるのは余りにも一瞬だった。
しかし袖口を気にしながら過ごす日々はそう長続きしなかった。
『掻き壊した』で通る相手であれば良かったのだろうが、実父にそんなものは祈るだけ徒労だったことを思い知った。
特別の用を持たなかったその日は、コマ数の調整で大学の講義が半日足らずで終わる曜日だった。今朝出たマンションのエントランスを再び潜り、エレベーターを待った。表示階は丁度自室と同階で、誰かが上がった後は戻って来ていないらしい。エレベータードアのガラスから覗くワイヤーロープの上下動を眺めつつ、エントランス外から漏れ聞こえる賑わいに意識がぼんやりと漂う。共用部のガーデンスペースに集う子連れの主婦が井戸端会議に興じている側で、飽きてしまったのか子供が親の手を引いている。
よく晴れている日の下で、そんな何でもない光景に鉢合わせてしまった何処となく場違いな居心地の悪さが自室に向かう足を急かした。
何部屋か通り過ぎて漸く突き当たりまでやってくると鍵を取り出してドアノブを押し下げた。当然施錠して出たのだから鈍い開錠音の後は難なく開く。警戒する必要すら欠片もなかった。
『……父さん?』
玄関に踏み入ってすぐの異状はあからさまで、サイズも趣味も違う靴が一足無造作に脱ぎ捨ててあった。いてはならない男の息遣いがすぐ耳元を掠めた気がして弾かれたようにリビングに飛び込んだ。
家族なら合鍵で解錠するくらいは訳ないだろう。失念していたつもりはなかった筈なのに、余りに唐突な事態に硬直してしまう。
キッチンの向こうでのそりと振り返った男はいっそ堂々とすらして、取り繕う素振りもなかった。代わりにポケットに手を突っ込んで両手を見せない横柄な態度が弁明の機会を失わせた。せめて何か最もらしく釈明でもあれば開き直ったままよりマシだったろう。何しに来たのかは明白だった。扉だけでは飽き足らず、こいつは。
猛然と襟首に掴みかかっていた。
『何してる』
『なに、って』
こっちの台詞だと一人逆上しそうになって、男の視線を追った。手首の辺りに留まった双眸がぎとりと睨め付ける。
『何をしてるのか聞いているんだ』
一瞬何を詰問されているのか分からなかった。だが骨ごと折られかねない握力で抵抗されれば自然堪らずに距離を取る。腕がなんだというのか。自傷を見咎められる謂れはない。いや、ああそうか。そこでやっと父の無感動な意図を理解した。掴みかかった事実はさして気にも留められていなかった。それは『所有物の癖に』という前提の上に成り立つ命令だった。何度も繰り返した行為の何を今更咎められなければならないのか。
そもそも聞いてどうするんだ?お前は子供を儲けた女の事すら何一つ知らないで、俺なんかの何を知ろうとしているんだ?それとも互いに予め全て知っていて、あんな家族ごっこの茶番をしているとでも?
肩を揺らした。口角が歪んでいくのを止められなかった。何をしていたか分からなくなった。何なんだ、こいつは。何だったんだ、俺は。
こんな奴に何を期待していたのか。こんな人間から出て来た自分に何を勘違いしていたのか。
酷く冷静な頭の部分が不意に、この人は大学の時間までは把握していなかったのかとせせら嗤う。だってそうでなきゃこんな間の抜けた犯行現場もないだろう。しかもそれすら妻には知られているというのに、何を必死に。何処まで知り尽くそうとしているのか正直もうどうでもいいが、これ以上惨めな男に付き合っているのが我慢ならなくなった。今はただ早く消えて欲しい。
『何もしてない。父さんも、何も知らないでいいんだ』
辿々しく縋った手段を差し向ける。キッチンに置かれたままにしてあったペティナイフのそのステンレスの刃に指を添えた。息を呑む。そんなたったの一本で大の男を追い出せるとは不思議と思い難かったし、退けられたとしてまた来るかも知れない。それでも効き目がなかった訳ではないようで、僅かにたじろぎ去り際捨て台詞を吐いていった。
『知っているさ。何もかもな』
男が去ってから片っ端から部屋中を調べた。そうして出て来た機器を破片になるまで叩き壊した。何のことはない、ただのプラスチックの合成品がゴミの残骸になるだけ。そうして全て捨て去った後に残ったどうしようもなさが再び両臂に向かわぬよう、部屋から転げ出る。
二度と戻る理由がなくなればいいと思い立って、浮かんだ場所があった。
◆
南の埠頭を埋める工業地帯は、聳え立つ鉄組の塔から排煙を吹き流す。北の方角では、高層のオフィスビル群から一階でも抜きん出ようと精を出す建設作業真っ只中のタワークレーンが、航空障害灯を点す。
深夜、煌々と眩く光るいくつもの灯りを一望出来る公園は無人だった。浮かんだ場所というのは他でもなくそこだった。見晴らしの良い高台にはおあつらえ向きの展望台を有し、昼間は特に賑わっているだろう広さがどんよりした夜気に際立っていた。
何故公園が浮かんだかといっても大したことはない。近場で他に適した場所も知らないし、誰もいないだろうと踏んだだけのことだった。程近い駅前にはアーケード付きの商店街も繁華街もあるが、それぞれに得意の時間があって、今この公園は担当外といった具合で都合が良かった。時間外に態々訪れる理由のある人間は凡そろくでもないに決まっていたから。
ビルの隙間の遥か向こうに掛かる吊り橋はライトアップされているが、対して園内の照明は頼りなく、足を向けた展望台のすぐ近くに設置されたものは明滅さえしていた。
そのまま消えてしまった方がいい。どうせもう尽きかけているのだし。
暫くぼうとして最上階から真下を見やる。十分な高さは稼げていない。ならいっそ自室の窓からの方が確実性は増すに違いない。まして公園で騒ぎを起こすのは気が引ける。
展望台の眼下には道路を挟んだ反対側に簡素な公衆トイレが設置されていた。混雑時に併用されるものだろうか。公園内に設置されているものと比べるといやに年季が入っていて、カラフルなガラスタイルの埋め込まれた壁がやはり管理不行き届きな蛍光灯に照らし出され変に目に付いた。
その前をふっと影が横切った。
こんな時間に利用者だろうか。注視すると、次第にはっきりと視界に捉えた人影は二人組で、入口の前で何か言い争った末にスーツ姿の男が片方を強引に中へ引っ張り込んで行ってしまった。
何十分経ったのか。先に出て来たのはスーツ男で、足早に革靴を踏み鳴らし去って行った。その後顔を覗かせたのは、口元を拭い拭いしながら這うように蹌踉めくもう一人の男だった。
タイル壁に凭れかかって肩で息をしている原因を考えるに、殴られるより酷いことをされたのは遠くからでも察した。しかし展望台の上から見られているとは知り及びもしない彼が不意に目線を上げた。
目が合ってしまったかと危惧したが、向こうはどうやら何も見えなかったのだ。すぐに背を向けふらふらと来た道を戻っていく。数歩進んでは路肩に寄って、数メートル先から見ていても今すぐにでも倒れないとも言えない様子のまま何と声をかけるか考えている内にいつの間にか繁華街のある一角に入っていった。
他のクラブや飲み屋に比べてどこか薄暗い、妙な雰囲気のそこへ。
いつの間にか、というのは正しくない。ストーカー行為だろうことは理解していた。後をつけるくらい、相手が満身創痍であるなら尚更気付かれる心配はほぼなかった。
彼がビルの入口を潜ったところで姿は見えなくなったが、中から慌ただしい物音がした。
『ちょっと久我君、どうしたの。大丈夫?』。彼を気遣った後に続いたのは、少し気怠げな低い声音だった。
『大したことない』
彼を後日指名すると襲われたと思しき姿の後ではまるで別人のようだった。決して華奢でもなければ無邪気な愛想を振り撒くでもない、ひょっとすると不向きにすら見えるというのに。
あれが厄介な常連の無理強いだったのか、それとも合意の上だったかは分からない。素性を調べ上げ事実を知るより前には既に客として会うようになっていた。
父がいつか監視に飽きる日が来ると信じ続けてもう何年経ったろう。ともかくあてのない望みに現実をすり替えてしまわなければどうしようもなくなってしまいそうだった。現に男に向けてナイフの柄を握り締めている間、初めて分かってしまった。気の所為なんかじゃなかった。とんだ茶番だ。いつまで被害者のままでいるつもりだったのか。鳶は鷹を産まない。鏡を憎んでいただけだったのだ。
もし自棄になるのが早まっていたり遅かったとして、果たして同じ行為に及ばなかったと断言出来たろうか。彼を利用した後でどんなに言を重ねようとも弁明にならない。いくらでも捏造は可能だろう。心配をして声をかけようとしたとか、そんなのは後から何とでも言える。
何処まで記憶が正しいかはこの際店内の騒音に紛れさせてしまおうと諦めた。
「で、よりによってここ」
自動ドアが開いたと同時に襲い来る店内の音響に負けじと横見の背後で叫ぶ。よりによって付き合わされた場所はというと、例に漏れずゲームセンター。しかも件のである。横見も既に誰の職場かは知っているにも関わらず、どういうつもりだ。
もう来ないようにしていたのに、見つかりでもしたら一体どの面さげてと二度目の拳も避けられない。最も彼が公衆の面前で殴りかかってくるかはどうかは考え難くはあるが、怒りが凌駕したらどう出るか予想はつかない。それだけのことをしたのだから、左の横面も差し出すしかないだろう。
「ここしか入ってないやつがあんだよ。他あったら俺だってそっち行くって」
「何その熱意」
「射幸心の信徒」
そのまま馬やら船やらに向かわないことを特に祈りはしなかった。意味の分からないことを言っているが、それならそれで何故一人で来ないのか真意を問いただそうとすれば目を離した一瞬の隙に横見が消えていた。迷子の典型的なパターンには流石に呆れ返る他ない。財布代わりにされなかっただけマシなのかどうか。意図は知らないが、少なくとも脅迫だの強請りだのとは違うらしい。早速目当ての台に向かったのなら敢えて追うのも面倒だ。働いている彼の方にしたって別に来たら必ず顔を合わせるということもない。むやみやたらと警戒するのも不審がられる。
メーカー直営店の広々とした店内はまだ日の高いせいもあり客の入りはまばらだ。ここもやはり、ピーク時が今ではないというだけで随分様変わりする。
不愉快な音響の間を抜け、クレーンゲームの密集地帯を抜けた先にはメダルゲームの筐体が幅を利かせていた。席に着いて遊んでいたのは年端もいかない子供だ。メダルの飛び交う喧しさに燥いでいる風でもない。きっと子供の両親か或いは片親は近所のパチンコ屋で一生懸命に銀玉と睨み合っているかも知れない。
幼い頃はこういった騒々しさはとは無縁の生活を送っていた。監視されているといっても厳格であることとはイコールではないのに、まして他人と、同性同士で個室を使った店舗型の風俗。所謂箱ヘルを利用したなどと知れたら腕の痕跡以上に精神を疑われてしまいそうだとかいう、漠然とした圧迫感が常に張り付いていた。お手本のような囚人的思考がしっかりと頭の隅々に行き届いて、だからこそ意識の外で反発したかっただけではなかったか。疑念はどす黒く渦巻いて広がって行くばかりでちっとも消えてなくならない。
手に入れたかった。何一つとして取りこぼさない為に、追い詰めようと躍起になった。他愛もない会話を交わしただけの関係で終わってしまったらと思うと臆病に火がついたようだった。
始めはそのつもりだった筈だ。後をつけたのも追いかけた先で知った何でもなさそうな態度も、話すだけで触れもしない退屈な客を相手してくれたことも、会うごとに知りたくなったのだって、セックスだって単なる支配的な行為の延長でしかない。今更自覚するなど断じて許さない。正当化する必要はないのだ。いや、それだけじゃ実行力がない。もっと端的に始末を付ける方法があるだろう。
「あ……」
ふと通りがかった筐体には、クレーンの背後にディスプレイされているものを除いてはプレイが出来ない状態だった。つまり、同じものがいくつか並んではいても肝心の景品が空になっていた。先客がいたのだろう。これでは遊びようがないのだがその眇めた目付きのぬいぐるみに知らず立ち止まってしまった。何処となく似ている。
末期的だ。やはり来るべきじゃなかった。もう帰らなければ。ショーウィンドウの前で指を咥える子供のように手を伸ばした時だった。
◆
店内ですれ違い様、以前の見知った印象と違っていたから人懐こい横顔を頭の中から引っ張り出すのに時間がかかってしまった。「久我君」。小脇に抱えていたクレーンゲームの景品から察するに、それなりに注ぎ込んだ反動か得意げな槻と挨拶を交わした。
「上手くやってるか気になった。どう?」
「可もなく不可もなく」
「そっか、良かった。紹介した甲斐あった」
甲斐とは言うが先に槻に頼ったのはこちらだった。以前の店に働き始めた時、古株なんていってもたかが知れてる業態で、特に固定客の多かった槻は一種の人脈を持っていた。特に入れ替わりの目まぐるしい風俗なんて空間で数年続けていられるだけでも見上げてしまうが、タイミングが良ければ今何をして渡り歩いているのかを聞き出す時間も取れたろう。
まだ来ていないのか。ぐるりと見渡すが広さの所為もあって行き違ったかも知れない。
上の空に受け答える最中、槻は抱えていた袋から幸運の証を取り出して見せびらかした。新しく入ったばかりだったのだが、腕前は横見に匹敵するかも知れない。
「見てこれ、ちょっと似てない?」
誰にとは訊かないが始めて言われた。そこまでだろうか。手に入った景品に喜ぶところは無邪気で、背丈としては高いくらいなのだがそういう素直さが槻の美徳だ。
「そうだ、聞いたんだけど、久我君週末非番でしょ。どう?飲みとか。奢るよ?」
「いい、悪いし。てか今日は厳しいから」
「……ちゃんと食べてる?顔色良くない」
「気にしいだな。それで奢るってこと?」
「そうだよ?というか心配してなかったら会いに来ないって」
「暗に恩の押し売りしてないか」
「あ、バレた?」
「だからパス。お前の取ったやつ足しとかないとだし」
「あ、そっか。じゃあ今日は見逃そうかな」
分かっている。槻はそんな恩着せがましい真似をしたりしないことは分かっているからこそ軽口に心苦しさが残った。でも優先順位の先頭にいるのは槻じゃない。せっかく手を貸してくれた恩を仇で返す羽目になってしまった。かつての知り合いを蹴って、取ろうとしている相手を知ったらどう思うだろう。埋め合わせを取り付けることで手を打って貰った。
懐かしい背中を見送り、電飾の中に舞い戻った。勢い付いて呼び出したのはいいが、肝心の当人がいないのでは話にならない。補充の道すがらに横目で確かめた何処にも姿は見付けられない。何度も同じ手が使える相手じゃない。行き違っていないのならもっと早く見付けられてもいいだろうに、「人目につかない」端から端まで探させるつもりだとしたら一体奴はどこまで人の手を煩わせればいいのか。募る憤りもすぐに打ち消した。
「あ……」
だというのに。目的の台まで来ると目当ての人物は呆気なく現れた。奇しくも以前とよく似た場面で対峙して、違うのは正面切ってはっきりと相手の動揺が分かるかどうかくらいの差だ。でも些細な差が、明確に効果を持っていた。これで三辺が思い知ったなら、それでいい。何もこれから拐かそうとなんてしない。騙しはしたが拉致より大分マシな方だ。
筐体用の鍵束を使ってケースを開いている間三辺に逃げる様子はなかった。中身を入れ替え蓋を閉じると間髪を入れず切り出す。「久し振り」。
いつも大きな店内の音響が殆ど気にならないほど遠く、寧ろ煩いくらいに聞こえていたのは自身の鼓動だった。柄にもなく舌が乾いてしまって、ちゃんと口が回っているかどうかも怪しい。徐々に落ちていく視線が僅かに引いた爪先を捉え、反射的に前に出ていた。
「……待って」
「は?」
「会わないって決めてた、から。ごめ、すぐ——‼︎」
「『すぐ』、なんだよ……まさか逃がすとでも思ってんの」
「なに、それ。ああ、警察にでも突き出すとか」
しない、するだけ無駄に決まっていた。証拠はもう残っていないのだ。警察に突き出すつもりならとうにしている。どう言って聞かせるにしても、場所が悪い。取った手は微かに震えていた。
「……お前に話したいこと、あるから。終わるまで待ってろ。いいな」
◆
店の裏手に佇んでいた三辺は待ち惚けを食らった犬みたように悄気返っていた。路地の先でサイレンをがなり立てて過ぎる赤色灯の光に照らされた横面には既視感があった。そうだ。少し前、鏡の中に見た自分と似ていた。
厄介な客に連れ込まれた公衆トイレ、割れた鏡の端にぶら下がる虫の羽ばたきがやたらとはっきり耳についた夜の最悪な気分が舌の上に蘇った。その後確か何度か吐いて、胃液しか出せなくなってから漸く外に這い出た。目の前の公園に建つ展望台の輪郭は嫌にはっきりしているのに、すぐ頭上を覆う闇がりが今にも降って来そうな質量を持って暗く垂れ下がっていた。生温い風が強く吹き付け頸を掠めると、総毛立った。
重く迫って、逃れようとしただけ執拗に追って来るそれに——思い返せば、納屋の奥で、扉のない部屋で、そうして今も——襲われていた。
小綺麗なスーツ男に散々な目に遭わされた後だった。だから感傷的になって惨めな夜の言い訳が欲しかっただけなのかも知れない。ふらついた足を引き摺った店までの帰途の間、一度目の最後を決めたのは確かそんなきっかけ。
二度目の最後は、まだ目の前に頼りなく宙吊りになっていた。
逃げて行った光を名残惜しそうに追う三辺の眉はまだ何処か不満気に顰められていた。
「自首でもする気かよ」
「……どうして?」
「見てただろ。車」
曖昧に小首を傾げる前を歩き、高架橋の下から大通りへ出て、街灯の並んだ坂を上がっていく。この辺りは丁度、潰れたろう店の入っていた繁華街の先に位置している。無駄に高いオフィスビルを右手に住宅街を抜けた先に入り口はあった。人気のない近場ならそこで十分だろう。
高さを競うビル群の隙間から、一本だけ伸びるラジオ塔を過ぎた辺りで背後を確かめると、気後れした面持ちの三辺と目が合う。躊躇したまま立ち止まり進もうとしなくなる。手を引いてやるつもりもないから、置き去りにして歩き出す。すると足音はすぐに二つになった。急坂の階段を上がって、やがて歩幅の開きがなくなり、互いが横に並んだ頃。
見えて来た園内に建っていたのはコンクリート製の展望台だった。まだ建って何年も経たない割に、くすんだ躯体が年季を感じさせる奇妙な外見なりに、何キロか先の埠頭から、果ては遥か彼方の水平線まで一望が叶う穴場だった。
「いつだったかな……ここじゃないけど、上京前に一度似たような場所に連れてかれたって聞かされた。変な形の遊具があったなって思ってもっかい行ったらただの展望台だった。誰かと思えば婆さんとだったんだと」
徐に始めた横で三辺は黙って聞いていた。
祖母の顔なんてもう火葬炉から灰になって出て来た直後から思い出せなくなっていたというのに、人伝に聞いた話の中ではまるで『祖母の顔』をしていたというのは俄に信じ難かった。担がれているのではないかと疑うくらい。そうしたところで結局形を成さなかった、曖昧でいた感触がひりついた喉の奥で蟠る。態とらしく間を置き問い返す。
「知ってる限りじゃそんなことしなかったけどな。お前は?」
「え?」
「親譲りって言ってたろ。ずっとそうだったのかって」
「……どうだったかな。よく覚えてない。ほんとにずっと前から。だから大賀のことは……逃避先にしてただけだった」
続きを待つまでにヘッドライトが過ぎる。言い止した歪んだ表情が一瞬見えた気がしたがすぐに消えて、薄れた輪郭の向こうから溢れて来たのは自己弁護には到底向かないものだった。
「居なくなってこんなに怖くなるって知らなくて、なのにいざ普通の、何にもなかったみたいな大賀見付けたら訳わかんなくなってた。……これでいい?ほんと、どうしようもない——」
「どうしようもないけど、どうにもならなくはないだろ。お前が逃避なら多分俺もそうだったよ」
はっとして跳ね上がった瞳の奥に映る古ぼけた子供は、昔からただ怯えているだけだった。
本当はこうして欲しかったんだろうか。あの人と縁を切る前に顔を見ておくべきだったのかずっと分からないでいる。そうすれば許されたかは分からないにしろ、隠れてばかりで耐える振りをしたまま去ってしまうよりずっとマシな気がした。
「俺なんかに態々会いに来るだけの奴なんていなかったんだよ。辞めるって一言あればこんなことしなくて良かったよな。悪い」
ぎこちなく眦を下げる。身勝手の塊が何かの役に立とうなんて烏滸がましい真似はしたくない。だったら勝手を通すしかなかった。都合よく利用し合って痛み分けになればいい。
「どうして許してくれるの……」
「別に許してはないけどな」
『見付けてくれた仕返し』。三辺は聞いた途端、何度となく謝り続けていた。その後を継げないでいる手を取れば徐々に振り解けない力強さに変わっていった。それが無性に堪らなくなって、思いがけず握り返していた。
「何回でも謝って満足したら返事、聞かせろ。本当に気が済んだんならそう言え。待つから」
「待たせない……大賀、気が短いだろうし」
唇を尖らせ三辺が知った風な口を利く。別に短くは、ない筈だ。
『でもその前に一つだけ、先にやらなければならないことがある』と告げられた真意を知ることになるのは数日経ってからになる。
◆
後日訊ね来た三辺の頬は自らの拳を打ち付けた以上の傷を作っていた。玄関先で真っ先に目に留まった頬には、青黒い痣が生々しく浮かんでいた。おまけに本人と来たら「サンドバッグ顔負け」だとか吐かしていたが、三辺の語った訳によると、こういう次第だった。
なんでもあの足で件の父親に会いに帰ったという。マンションのオーナーである伯父に対して、部屋に手を入れたこと知ってるのか直接問いただした。元々母親の実兄にあたる伯父と不仲であるらしい父親が、実の子供を見張っている、などという面と向かって糺弾されるべき問題を好んで露見させたがらないだろうと。
「それで?」
「父さんに“相談”した、のがこの有様」
三辺は父親に証拠付きの相談を持ちかけたという。体裁を気にする体質でありながら身内の伯父に一件の全てを明かしてもまだ監視を続ける気はあるのかと。伯父が父親とどちらを信用するのかは不透明ながら、張本人から『出来やしない』と啖呵を切られた結果ダメ元に賭けた。その末に作られた負傷はとばっちりということだった。
「バラしたのか」
「そしたら今家の方が結構騒ぎになってて見もの。殴られた甲斐あったかな……」
「は、いい度胸してんな。相当やられたろこれ。真っ青」
「いっ……!ねぇ、虐めるか心配するかどっちかにしない?」
「よくいう……勝手してんなよ」
触れた途端苦笑に引き攣り、余裕が見る間に失われていく様には中々してやった気になった。どちらにも甘んじていればいい、などと嘯いて追い返すつもりがないのであれば立ち話もないだろう。腫れた頬をそのままにしておきたくもなかった。患部を冷やせるものはあったろうか。招き入れようと袖を引く。しかし何故か足は動かない。躊躇うほど珍しい場所でもない。何せ目の前に居る本人には一度入られていた筈だし、数えるのなら二度目だ。
「本当に心配した……?別に大したことは」
「いいから大人しくされてろ。動くな」
手当の最中三辺は狭苦しい室内で借りて来た猫みたようになっていた。それが次第にこちらが何か居た堪れない気がして来て、一人でに言い訳めいた反論を繰り返していた。
単に痕になったらと思うと酷く悔しいだけだ。一度手を出した覚えのある側が何を言おうと矛盾だらけだが、何がおかしいのか三辺が一瞬思い出したように目を細める。そこには含みがあったが深く追求しないでおいた。
「案外真に受けやすい」
「叩き出されたいのか」
「堪えてないのは本当。誰かのよりは全然ね。というか……」
「?」
「暫く部屋も使えないし家にも戻れないから知り合いに泊めて貰うって言って出て来た、んだけど」
妙に歯切れ悪く切り出されたからとてつもなく重大な、それこそ求めた返事の中でも想像したくない答えが齎されるかもと危惧していたが、杞憂に終わったらしい。当の本人にしたらかなりの死活問題かも知れないが。いや寧ろ何畳もない部屋に一人分寝床が増える方が当面の問題か。
「いい歳して家出って」
「そう、反抗期」
家出と言うには複雑に絡んだ事情を持っている。その割にしぶとい面もあるようだ。ともすればほんの少しだけでいい。遠い昔を掬い上げる口実が、抗うきっかけに変わったなら。独りよがりを許して欲しさにしたことでも、そうであればいいのに。
関わったことを後悔しないとは断言出来ない。なのに突き放せないなら、断る理由はあってないようなものだった。
「いいんじゃねぇの、反抗期。狭くて良いなら好きにすれば」
「ほんと面倒見良いんだからなぁ」
「……本気で言ってんの、誰にでもって」
広さの多寡に対しては気にしていないどころか、どう受け取ったのか歪曲したらしい。庇を貸そうとする人間にとっていい態度だろうか。咎めるような口振りが気に障るが、何も追い返したい訳じゃない。
引き留めようと躍起になるのも大概だが、後悔するぐらいなら意地の一つや二つは後回しに出来るようになった。だから疑って欲しくない。子供染みた理屈を唱えているのにはもう気付いていた。人の事なんてとやかく言えない、どうしようもないのは自分の方だ。全部知りたくなかったのに暴かれてしまった。こいつだけがそれを知ってるから、みっともなく縋ろうとしてしまう。何が面倒見だろう。待つと告げた癖に案の定、言い当てられた通り気は長くなかった。胸元に顔を埋める。すると首筋にかかった吐息に肌が粟立った。
「そうして欲しくなくて返事しに来たつもり」
低く囁かれて反射的に顎先が上がる。今まで目にしたどの表情より熱を帯びた真剣さに不覚にも息を呑んでいた。何よりも厄介なことには、その熱に応えたがっていた。
遮られた不満が塞いだ唇の隙間から、銀糸と一緒になって湑んだ。
「言わせてくれないんだ」
「……後で聞いてやるから、っ」
半ば恍惚と口付けに耽っていると徐に肩を掴まれる。拒絶ではないようだが、一体何だというのだろう。
「ここ壁薄そうだけど、いいの」
隣室を指していると理解し、一旦思い留まる。好き放題騒いで漏れ聞こえない程分厚い壁ではなかった。幸い角部屋なら隣室は片側にある一室のみだ。マンションのそれとは比べ物にならないが、反対側なら多少は軽減される。向かいの壁際には皺の目立つシーツを纏うベッドが一台あるきりだった。こちら側ならまだ響かない。弾力に乏しいマットレスが二人分の重量を支えて軋みを上げた。
不必要に喚かなければいい。もしくは喚かせなければいいだけのことで、どんな想像を巡らせているか。背筋を駆け上がる何か強く抗い難い情動に舌を委ねた。
「お前次第だろ……」
謙虚な振りをしたいようだが兆しを見せるそこは隠し通せない。同性なら如何に堪え難いかは分かる。楽にさせてやろうと下を寛げるとやんわり制止される。そればかりか取られた手の甲に痛みが走った。直後、温い粘膜に噛み跡が拭われる。
「あんまり調子乗らせないで……壊しそう」
反撃とばかりに勃ち上がった昂りの先端を玩ばれる。包皮から覗く亀頭の敏感な部分ばかりが殊更に責め苦に遭う。どんなにか人の悪い笑みをしているか確かめてみたくなってすぐに愚策だったと思い知った。
身体中の神経に消せない火が付いたようだった。悩ましげに歪む眦に気色ばんだ雄の色香が滲み、責め立てられている本人以上の苦痛に苛まれているのは明らかだった。苦痛が仮に理性とか呼ぶべきものならば、粉々にして、ぐずぐずに溶かしてやれたらいい。壊されるのはお前の方だろうに、そう虚勢を張られると嗜虐心に駆られてしまう。
前ばかり責めていた手を払って俯せに背を向けた。双丘を割り開き、既に難なく雄を飲み込めるまで解した秘部を晒した。
「……大賀がひろげたの?」
「そう、だよ。悪いか」
言ってから途端に急激な動揺に襲われるが最早退路はない。逃げられないのをいいことに腰を熱り立った屹立に押し付け、強請るような腰付きで一層硬度を増したと分かるとより淫らな欲望が露わになっていく。
「……奥まで開いてる」
「ひっ、ん……♡」
「ねぇ、ほんとに一人でした?」
体温が分かるほど肌を密着させたまま筋張った指が肉襞を掻き分け、深部まで侵入する。逃れようにも視界が快感に霞んで上手くいかない。挑発に機嫌を損ねたのか、必死に頷くも執拗な動きが止む気配はなく、頭を振った。確かに一人で行っただけで届かない部分に達しているのは事実で、どう釈明すればいいか考えあぐねる。しかしいつの間にか二本に増やされ、煽られ慣れないのか荒々しく変わった手付きに遂には陥落していた。
「これっ、これ使っただけだ……っ!」
咄嗟に枕元から取り出された、無機質なディルドが鈍い音を立てて転がる。何度も自身を慰めるのに使って仕舞われていた玩具が、今は酷く汚らしい物に見えた。けれどどうせ、鍵を開け、至る所に機器を仕掛けていたのだ。遠隔操作でも使えば不本意ながら自慰の一度二度は知られているものと平然と信じ込んでしまっていた。見聞きしていたにしては妙な反応に訝る。
「へぇ……?実は玩具好き?」
「聞いてたんじゃ……」
「盗聴器のこと?……あれ本物じゃなくて、全部イミテーションだよ。鍵も開けたことない。って、こんなの今更信じなくてもいいんだけど」
「に、せもの……?」
「……流石に形だけにしてた」
後をつけ観察した結果かなりの頻度で閉め忘れていたらしく、解錠はしていないという。間髪を入れず一気に耳まで紅潮した。事実はどうあれ、以前催した際の羞恥がぶり返す。かつてなく慌てふためいた。
「ま、紛らわしいことするな……っん!」
「でもそっか。ずっと使ってたなら……一緒に、してみる?」
「い……⁈」
愛液を混ぜ返されては食い締め、徐々に追い詰められると呼吸を忘れてしまった。聞き間違いであれと願うが後孔に当てがわれる無機質な圧迫感に打ち砕かれた。つまり二輪挿しをしようと言っている。
無理だ。絶対に入らない。いくら素人でないにしろ仮に入っても後ろが裂けて使い物にならなくなるのは目に見えている。そうなればどうなるか。湧き上がるのは表面的な恐れだけではなかった。
労わるように腰を撫でられる。恨めしく睨み返していてもとめどなく嬌声が溢れ出てしまう。汗ばんで張り付いた服の裾を握り締める。期待されているなら応えてやりたい。際限のない依存は強欲で一人じゃ手に余る。期待外れにも失望にも終わりたくない焦りでなおざりに内部を解そうと持ち上げた腰が捕まった。
「今度は俺にやらせて」
「な、い、……っいい、ぁ……♡っ!」
「だーめ……。だって二本も入れるんだから」
「っぁ……っぎっ……っ!」
容赦なく突き入れられたディルドだけで後孔に一切の余裕はなくなっているというのにあろうことか抽送を始めた。同じ玩具でも自慰と全く異なる。とても正気を保てそうにない。懸命に枕で声を押し殺し、何度も堪え切れなくなりかけ、何十分もそうしていた。すっかりだらしなく弛緩した身体が、拷問のような時間から漸く解放される。
「あ……、航……もう、いい?」
「……ゆっくりするけど無理しないで」
待てと言って簡単にはやめそうにない剥き出しの肉欲を辛うじて抑えているのにどうしようもなく焦れてしまって、殊更三辺を煽った。
「しない……ちゃんと、一番奥まで、ぇ……っぅあっ、ぁっん……ん♡‼︎」
ディルドと肉茎とが内壁を抉る。二本分の質量が腹部を押し上げ、視界に閃光が散る。とても容易に逃せない刺激を捩じ込まれ四肢が震え背が弓なりにしなる。
「分かる……?中すっごいぎゅーってしてる……っ」
「あっ!ゃ、ぁ……っぉすなっ……ぁっ!」
迫り上がった下腹部を外から押され、緩慢な動きで内から前立腺を捉える。全身の力は抜けていても後孔は舐るように侵す灼熱を咥え込んで離そうとしない。あと少しでも強く擦られたら限界に達するのは容易いだろう。それを知ってか知らずか、ひくつく内部から熱が出て行こうとする。切羽詰まり、追い縋るように腕を伸ばした。
「ゃんぁ……っ抜か、な……っ♡」
「どっちを?」
「っんなの、決まって……っ」
「……聞かせて欲しい」
真正面に対峙したのは同じくらい切羽詰まっていて、けれど寸前で踏み留まる危うさだった。
「は、っ……ぁっん、だよ……びびってんの」
「ね。かっこ悪い。大賀が甘やかすから」
「人の所為にすんな……っく、ぁ……っ!」
ディルドだけ何とか自力で引き摺り出し、やっと窮屈でなくなった内壁が収縮する。中に入っているのはもう三辺だけ。
「これで、いいんだろ……」
「やっぱり甘————」
「他に、やり方なんて知らねぇんだよ……なぁ、どうしたら俺だけじゃなくなる?こんなの、どうしたら分かるんだよ……っ」
突っ張った腕にこれでもかと爪を立て、自ら付けたであろう何本もの傷を上書きした。懇願と変わらない叫声を上げ、ただでさえこの上なく醜態を晒した上取り繕う隙もない。身勝手に取り留めのない懇願を口走る。分からない。どうしたらこんな狂おしく暴れる熱情が伝わるのか分からず目の端が滲んだ。
「航……ぅぁっ‼︎」
「平気……大賀だけじゃない、おんなじ、ね」
「っ、やっぁ、っふ、ぁっ⁉︎ん、とに、?なぁ……あ、んんっ待っ、あ、っっ」
深部の最も鋭敏な部分を何度となく突かれ、余りの強さに放埒の予感を覚える。依然限界に達していない怒張を深くまで受け入れる。内部が甘く痺れやがて吐精せずに達した瞬間、ぐるりと仰向けにされると酷薄な笑みを向けられた。蕩け切った身体の芯が微かな被虐心に煽られて熱を帯びる。咄嗟の否定も遅きに失していた。
「ゃ、もっ……入らない……航っ!」
「せっかく広げてくれたんだからさ……もっとしたい」
嵩を増し、解した以上に中を満たす三辺が誘って来る。その前に、直に声が嗄れ真面に話せなくなってしまう前に返事の続きを促した。
ベッドで重い瞼がゆるゆると開かれては閉じ、睫毛を震わせる。至近距離のあどけない相貌に頬が緩んでしまう。
やはり癖なのだろうか。隣で小さく縮こまっている大賀が不機嫌そうに眉根を寄せた。痛めた身体を無理に動かす。制したものの一蹴されてしまい打つ手がなくなった。
明るんだ窓の外は眩しく時刻を知らせていた。思い出すまでもなく講義は始まっているが仕方ない。怠惰の動機に使ったと知れたら怒りを買ってしまうだろうから、温もりから一度手を離した。
「ちょっと待ってて」
訝る大賀の横で液晶を操作する。メッセージを送って数分経たずに横見から返信があった。大学は当然ある、その上一限も真っ只中で、あっていい応答速度ではない。不真面目だな。横見も自分も大概見本にならない学生をしている証拠だった。ただ今回に限って言えば画面の向こう側で欠伸でもしてるだろう奴の方が多分に優等生でいてくれたのは運が良かった。
〈代返よろしく。西棟の一階必修の。次空いてたよな〉
〈駄賃は?考査近いからこっちも暇じゃないんだが〉
〈騙した貸し〉
〈でも今横にいるんだろ?〉
矢継ぎ早の応酬がそこでぴたりと止まった。言及していないようでほぼ名指ししているようなものだ。適当にあしらってやって一息つく。出禁だけでは甘かったかも知れない。
「誰」
「横見だよ。知り合ってたんだよね。いつの間に?」
何処か恨みがましく問い詰められ答えに窮しているが、気になってしまったら訊かずにはいられない。
「俺が持ちかけたんだからとやかく責めるなよ」
「あいつの場合は日頃の行いが」
「そうじゃない。だから……」
庇う必要なんてない相手に対して気遣って見せるものだから後ろ暗い想像が湧き上がってしまう。他意があろうとなかろうと根深い執着はそう簡単に消えてくれない。普通に手が届く日など来るのだろうか。下らない杞憂を余所に眠気混じりの中、大賀にふっと柔らかさが滲んだ。
「『倉庫番の礼』って、伝言。感謝しろよ」
「番……番?というか倉庫じゃないし人の部屋……はぁ、まぁいいや」
呆れつつ大仰な嘆息が飛び出す。昨夜の跡がまだ生々しい肌を隠さず背後であどけなさの掻き消えた掠れてざらついた声のままに隣に来るよう催促された。何か気に障ったらしい。空いた腕の中に閉じ込められ『家賃分』としたり顔で言われてしまえばもう一度だって無理をさせたくなって、掻き乱される理性ごと笑い飛ばしていた。