軋む背を押してぎこちなく身動ぐ。部屋に灯りはなく人の姿もないが、枕元の慣れない感触にぼんやり漂っていた意識が戻された。何だこれ。柔らかい。し、俺よりデカい。それに温度もある。瞼が持ち上がるにつれて頬に指が触れているのも分かった。
「たーいが」
「あ゙……?」
「ふは、すげー声。水要る?」
「……っ⁈」
ぎょっとして正体に目を瞠った。何のことはない、ベッドに寝ていただけだ。真横で寝ている男を除けば。何でこいつと添い寝をしているんだ、しかも半裸で。加えて俺が目覚めるまでの間に何をしたのか思い出し青褪めた。あまつさえ地続きのこの状況について故意かどうかは問題にならないと言いたげな部屋の主のにやけ面の腹立たしさときたら。それも手伝い、知らず首に回していた腕を引き剥がした。残念がっているらしいが無視を決め込む。
そうだ、この男は紛れもなく法を犯した。現在進行形でもだ。なのに何故世話にならなきゃいけないんだ……待てよ、腕?何時間か振りに自由に動いた腕を凝視する。
ない。拘束がなかった。雁字搦めにされていた忌々しいそれらがないと分かるや、猛然と起き上がった。一体いつ解かれたかは分からないが自由になったのなら逃げる以外に取る行動はない。隙を見て警察に突き出す。手首の痕はぐるりと痣になりかけている。これが例えば自演と疑われない限りは、訴えも邪険にされないと思いたかった。はっきりと断言するに十分な確証が持てなかったのはストーカーに暴かれた昔話の所為だった。
何処へ頼ろとしても誰もが同じ反応だった。『躾の内だ』からと。それから人へ期待するのをやめ逃げるように家を出た。頼ろうとなんてしたのが間違いだった。首を擡げる記憶の澱は次第に視界を真っ黒に染めて、見慣れた納屋へ押し込もうとする。
「これで我慢してて。取って来るから」
すると唐突にスイッチ一つで明るく照らされた室内に目が眩んだ。その隙に、寝付きの悪い子供にそうしてやるように放り投げられたぬいぐるみと一緒くたに取り残された。文句の一つを言う暇もなかった。リビングのものと違い草臥れ、毛色の違うと思しきそれはやはり何のキャラクターか定かではない。
容易いと思った逃走も結局身体中の軋むような痛みでは当分叶わないだろう。眩んだ目を何度か瞬かせた。手広さの他にあるものはといえばのっぺりとした色味のないカーテンのかかった窓と一人で使うにしてはやはりどう見てもサイズ違いのベッドが一台。寧ろ殺風景というより何処か独房めいて見えて来る。置かれたそれぞれはてんで違った役割の為に配されていはしまいかとすら訝しんだ。一言で言うと気味が悪い。違和感ばかりの空間に置き去りにされて、俺を付け狙っていた人間を待っているなんて。
関係ない。勿論干渉するつもりなんて絶対ない。関わり合いになっていい相手じゃないことはこれまでの行為が物語っていた。気なんて許した覚えはないが、下手に神経を逆撫でして昨晩と似たような事態になりでもしたら目も当てられない。頭では分かっていた。
「はい。飲める?」
少し経ってから宣言通りに透明な液体に満たされたグラスが差し出された。露骨に警戒する。得体の知れない奴が出す物をどうして口に、当然拒む。しかし無害さを証明するように男が自ら口に含むと、次の瞬間ごく自然な動作で唇を塞がれていた。
「……っんっぅ゙‼︎っげほっ」
「ほら、何も盛ってない」
口移しで嚥下させられ、大きく咽せ返った。涙目になって睨み付ける。確かに何の変哲もない水だったが、あからさまに毒見が目的でない行動に辟易せずにいられなかった。下がらないその満足気な口角にも腹が立って胸倉に掴みかかった。悪い冗談だ。人を馬鹿にしているとしか思えない態度を一瞬でも堪えようとした俺が愚かだった。最も怒りの原因がそれだけだったなら今ごろ躊躇いなく殴りかかっていただろう。
「怖い顔。そんなにいやだった?」
「……っ」
耳元で行為の残滓を思い出させるように蠢いた指に全身が強張った。こんな些細な仕草でも余韻の効果からか翻弄されたのは紛れもない事実で意識しない訳にはいかない。懊悩を他所に、抱き寄せられた腰部を撫でられるといよいよ本能が一度ならず二度より先を望んでいるとしか言いようのない疼きを訴えた。宙吊りにされた理性を引き摺り戻そうと必死なあまり、滑稽な方法に出た。
それで苦し紛れにしたことと言えば、身代わりに預けられていたぬいぐるみを投げ付けるという何とも稚拙なものだった。子供同士の喧嘩でもなしムキになったところでどうしようもなかった。しかし直撃を避け難なく受け止めた表情はすぐに硬くなった。まじまじと全体を見回すと徐にぬいぐるみの目を毟り取って、それから耳、鼻、足と順繰りに巡ると最後にもう片方の目を抉り、納得したらしい声を上げていた。
「あれ、まだ残ってた」
何の事かと訝しむと摘んだ指には元々収まっていた目のパーツとは違うサイコロ程度の大きさをした黒い物体があった。「何か分かる?」クイズのように見えて初めから答えが出ているような問いをする。当然だ。自分の部屋に仕掛けられたものと同じ型かは分からないが見当が付いた。それは盗聴器、ないしは盗撮用の小型カメラに違いなかった。
「お前、まさかそれで全部盗っ」
「多分録れてないよ。バッテリーは切れてたし。そう思っててくれてもいいけど」
吐き捨てながら機器を片手で握り潰しているが、様子からすると脅迫材料に突き付けたがっているようには窺えない。確かに自分で自分の行動を窃視する趣味はなさそうだし、仕掛けたのは別人だと言う。じゃあ誰の仕業かと無意識に先を促していた。
「キッチンと、浴室の鏡、あとベランダかな?他はもう覚えてないけど色んなとこに同じのがね。何か俺の家って過干渉ってやつだったみたいでさ、だから大賀にしたのも親譲りってやつ」
絶句した。どんな環境で過ごしていたかは知らないがいくら何でも干渉の範囲を超えているだろう。そんな家があって堪るか、と口を挟めはしなかった。人の事を言えた義理でもない。しかも身の上話なんて幾らでも嘘が吐けたろうに、大した問題でないような真剣味のなさがかえってそれらしく聞こえてしまった。今の話が全て騙す為に用意されたのだとしたら余程手に負えない。親譲りの一言で許すつもりはないが経緯からすると手段についてだけ言えば興味本位とかいった下卑た好奇心に基づいてはいない、のだろうか。続きは立板に水とばかりに勢い任せで、微かにくぐもっていた。
「部屋もそう。俺みたいな学生がこんなとこ、普通なら起業学生でも中々住めないしね。監視が趣味みたいな人だったから、あーこれはもういいやって一通り見付け次第壊して捨てた。鍵も替えたんだけどこれは見逃してたな」
「…………学生?」
「そうだよ、ほら。てことで俺今日は出ないとだから、好きにしてて」
一息に話し終えるととても大の男一人を拉致しているとは誰も疑わない笑みを浮かべながら学生証を示した。呆気に取られて押し黙ってしまう。これも嘘だって?信じていいのか。
こいつ、三辺航の真意が微塵も見えないまま、出ていく背中をそうして何十分かぼうっと眺めていた。
散々人の領域を侵しておいて『逃げたかったらどうぞ』としか聞こえない口振りは一体どういう了見だ。出来るものならやってみろと挑発された気がしてならない。ならないが、どうせ体力が戻るまでの時間潰しだ。出て行けというならお望み通り消えてやる。だがその前に証拠が欲しかった。本当に話に偽りがないのかどうか確かめてやる。それくらい知ったとしても咎められる謂れはないし、寧ろそうしなければ居心地の悪さを拭えない気すらしている。勿論どうかしていることは間違いなかった。拉致監禁した男の部屋を物色するなんて経緯はどうあれ空巣と変わらない。
本音を言うなら理由があればいいと思いたかっただけなのだ。ストーカーに、あいつに対してではない。何故何度も同じように追われていたのにどうしてもっと遠く、誰にも知られていないような場所へ行かなかったのか。自分にとって離れ難い土地だったから?そんな筈ない。何せ地元ですら保身の為にいとも容易く捨てたのだから、可能性は低かった。
でもじゃあ、どうして。
それでも現状出来得る最低限の抵抗と正当化した虚飾だらけの叱咤でシーツの乱れたベッドから漸く下り、ひやりとしたフローリングの冷たさを足裏に感じつつ好きにしろの言葉通りリビングに向かった。
拉致された時と寸分違わずぬいぐるみが転がる空間は時間帯のお陰で昨晩よりしっかりと視認出来た。アイランドキッチンを備える広々とした間取りに、その丁度中央へ堂々と置かれたソファは明らかに高価な革張りの仕様で親とやらがどれだけ資産家なのかが窺える。だから過干渉になんてなるのか。想像を補完するような証拠は生憎と見当たらない。そりゃそうか。三辺は監視対象としか見られていないのだ。血縁者と呼んだ所で名ばかりに過ぎる相手に関する品があるのもおかしな話か。そこだけは、まだ理解出来た。
家主に無断で冷蔵庫を開く。薄々察してはいたが生活感とかいったものが希薄も希薄な有様だった。何を食べて生きてるんだ、地球外生命体なのかあいつは。電気屋のディスプレイじゃないんだぞ。庫内に残されているものは精々ペットボトルの水だけでキャップには開けた形跡があり、水の出所が判明した発見以外には殆ど何も無かった。半腐りの食材が入っていたりもせず、不自然な部分も見当たらない。納得のいかない面持ちでドアを閉めた。単に生活力がないだけと呆れ返っていた光景の中、不意に何か違和感を覚えて静まり返る背後を振り向いた。違和感、と言いつつも妙な胸騒ぎの正体が依然はっきりと立ち現れないでいる室内を壁際から反対まで何度か往復するも、やはり判然としなかった。間口の大きなベランダ窓にも何処にも際立ってこれといった問題はない、とそこで唖然とした。
窓じゃなかったのだ。
ここまで何度となく室内を行き来した、にも関わらず本来家と呼べる場にあって然るべきものがなかった。ドアだ。玄関と浴室を区切る扉以外一つもドアが見当たらない。元からない造りだろうと確かめると、あるのだ。木枠の端に蝶番ごと外した跡が。
本当、なのか。否が応にも信じざるを得ない。こんなものを当てがうのが実の親なのか。途端に寒気を覚えた。鳥肌が止まらない。部屋を形作る四方の壁全てに人の目があるんじゃないか、どこへ行っても何からも見張られていやしないかという疑心暗鬼の中、蹌踉めきぶつかったソファから足元へ零れ落ちたぬいぐるみと目が合い、居ても立っても居られず寝室へ飛び込んだ。
落ち着け、勘違いだ、ただの思い込みだ。今時のそういう構造なだけで特に珍しくもないんだ。こんなことなら調べたりするんじゃなかった。必死で言い聞かせる。完全に裏目に出てしまった。数時間前無理矢理暴かれたベッドに突っ伏して、悔いても悔やみ切れぬ愚考に時間を費やしてしまえば半ば妄想めいた結論に辿り着く。
ああ、ふざけている。何だってこんな羽目になったんだ。あの時指名なんて受けなければ良かった。
今頃は摘発されて跡形も無くなっているに違いない。とうに辞めた店は、繁華街の通りに面した古い雑居ビルの窓ガラスに何分で幾らという宣伝文句を掲げて細々と食い繋いでいた。マッサージ専門と並べ立てておきながら、その実男相手のリフレ、箱ヘルに限りなく近かった。個室で会話だけを楽しむ。そんな純朴な目的の客が全くのゼロだったかと訊かれたら異を唱えるだろうが、少なくとも自分に付く連中は違った。アフターを執拗に迫られた経験こそ無かったものの、中にはただ穴として利用したいからとピン札をチラつかせて来る奴もいたことを思えばどんな相手として見られていたかは予想が付いた。
大体見た目からして向かない。無表情を装って不機嫌と間違われる顔付なのだから仕方のない話か。しおらしく愛玩動物の猿真似をして尻尾を振っていれば良かったものを、地元を脱した反動が災いして徐々に泥沼に嵌っていった。
元々男女の別に興味は無かったからと半ば自棄で上京して飛び込んだのがそんな界隈だったのだから誰の罪過でもなく転嫁のしようもない。諦観に毒されてしまったある日を境に、店に出る回数も減らされていった。使えないと分かれば即座に切られるのが通例の商売なのだとそこで学んだ。
居場所なんて分からなかった。何処かしらへは通じるらしき鍵を渡された後でドアを開くと怒号が響き渡るような月並みの仕打ちが、箱の底に置き去られた望みの一片すら食い潰して行くのが分かる。
単なる積み重ねだったのか、極め付けの事件があったか直接のきっかけがはっきりしていたかは曖昧だ。一つあるとしたら、上等なスーツ姿を階級章のように身に纏った客だろう。
人の良い態度と裏腹の蛮行の何がたちが悪かったかと言えば、そいつの行為は常に支配と征服に満たされていたことだ。外だろうとお構いなしの盛りのついた猿、などと罵ってやれたならどれほどせいせいしたか。結局望みは叶わなかったが、もう潮時だと決めたその日、三辺に会った。
◆
一つずつ紐解いて漸く探り当てた自分の曖昧な記憶力に吐き気を催しつつ、外を見ると日は既に傾き始めていた。とうに正午を回っていたようだ。外界で俄に夜に向け活気付く空気を、長いこと開け放たれていなかったのかがたつく窓から取り込みながら、気を落ち着かせた。
昔実家の古い屋根裏に隠れていた時見たのと似た景色だった。無人の闇がりで見知らぬ誰かの気配に身を寄せる感覚は、縁遠い懐かしさを去来させる。望むと望まざるとに関わらず。
何をしても取り返せないんだろう。思い出に満たされて眠る幸福は決して万人に等しく振り分けられない。他に方法を知らないならどうすれば良かったのだろう。始めから間違っていたとして、何処で正せば良かったんだろうな。
下らない。こんなのはつまらない同情だ。まさか三辺を許したがっているとでも?それこそ有り得ない。
微睡んでいた手元で振動が伝わって、いつから握られていたのか、スマートフォンの液晶に現れた時刻は日暮れを迎えていた。しかも画面が騒がしなっている。まず忘れていたリマインダーに忘れていたいくつかの予定の通知と迷惑メール。後はスパムの類だろうと思い、読み飛ばそうとしたところで飛び起きた。
三辺。その内の一件が奴から送られて来たものだった。非通知になっていないところからすると勝手に登録したのか。その肝心の内容はというと、『今日は講義が長引きそうだから、車を出して欲しい。鍵は寝室のヘッドボードにある』という文面だった。他の知り合いと間違えたのだろうか。なら人違いで済むところだが、幾ら金の有り余っていそうな身分とはいえ学生の一人暮らしに自家用車なんてことはないだろう。例えば兄弟とか彼女、何かそういった関係の——知り合いに送ったに違いない。
探すつもりはなかったが、ヘッドボードの上に車の鍵を見付けてしまった。だがそうか。始めから身体に気を遣わなくても良かったのだ。時間を無駄にしてしまった。部屋の鍵は持ち合わせがないからかけないまま、駐車場へ急いだ。
ずらりと並んだ車列から目当ての車種は見当が付かなかったが鍵の開錠スイッチを押すと壁際にある一台のヘッドライトが点灯した。強引な見付け方ではあるが構っている余裕はない。
車内にはナビまで搭載されていた。ハンドルもシートも新車ではないように思えるが、それにしたって好都合だ。運が巡って来たのだろうかと勢い付く。この際免許不携帯だろうが盗難だろうが免れたっていいだろう、緊急を要するのだ。日没は過ぎているからナンバーも見つかり難い筈だ。最悪車は目立たない場所に乗り捨てるしかない。ルートを検索すると、ナビに表示された道の途中に奴の学生証にあったのと同じ大学名を見付けていた。私鉄線の駅と沿うように建つ敷地は存外に近い。然程長い距離を連れて来られた訳ではないようだった。
仮に正真正銘自分宛に来ていたとして……何だというのだろう。馬鹿馬鹿しい。誰も奴の迎えになど行かない。
一人でいればいいのだ、最後まで。奴がしたのはそういう行為だ。
鍵を差し込んで、ハンドルを回した。交差点をいくつか超えて、途中踏切を待った。渡った先を右折すると数十メートル先を駅のホームが待ち、左に幹線道路が続いている。示されている方向は滑り込んで来る電車と反対側だ。
何秒とない間に遮断機は上がるだろう。待っていれば道は通じる。
裏切ってなんかいない。寧ろ先に踏み躙ったのは奴だ。
指名された時は何かの冗談だと思って客商売にも関わらず大人気ないことも言った気がする。だから容易に信じてしまっていたのだろう。少なくとも辞めるまでは害を及ぼされた試しはなかった。信用とはいかないまでもせめてそうであればと思いたがっていた。
そんなことを何度か繰り返していれば店の側に近く勘付かれるのは目に見えていた。にも関わらず断り切らなかった立場を悪用していないと言い切れるのか。本気で?
また目の前から居なくなったとして、奴は——三辺は諦めるのだろうか。手放すのか。出来そうにないと言ったのは何かの聞き間違いだったのか。
そんなのは、そんなのは勝手だ。
バックミラーで背後を確かめる。後続車は居ない。
舌打ちをして、ウインカーを切り替えた。
◆
一度目以降三辺からの連絡は途絶えていた。手近なコインパーキングに入れてからはたと失敗に足踏みする。
というのもあいつが構内の何処に居るのかまでは聞いていなかった。依然返信もなければ確かめようもない。仕方なく車から降りてみる。かといって何も策は浮かばない。大声で叫んで探すとかいった真面さに欠けた案なら幾つか頭を過って行った。放送で呼び出すか?迷子を探しに来たでもあるまいし。第一誰にどうやって頼み込むんだ。駄目だ。驚くほど簡単に手詰まった。
そのまま突っ立っているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた頃だった。
「あれ?大賀クンじゃん」
「…………あ?」
「あーそっか。俺横見っていうんだけどさ、三辺待ってんのかなって。車同じだったし。違った?」
大学生らしき人物が駐車場の前で手を振っていた。見ず知らずの相手と思いきやなんと心当たりがあった。三辺の部屋を埋める規模のプライズ品の山を築いた、その出所が横見なのだった。溜まり場代わりに出入りしていると。名乗った記憶がないのだが、知っているなら丁度いい。
「何か困ってたりする?三辺に脅されてるとかじゃないならいいけど」
「……」
「え、当たりだった?」
「いや、脅迫じゃなくてストー……」
思わず口を噤んだ。何を口走ろうとしているんだ。慌てて否定し、目的を訊ねれば、あっさり譲歩は得られた。
「何でもない。んなことよりあいつ、今どこにいる知らないか」
「あー、まだ図書館かどっかに居るんじゃね?悪いけどこれからバイトでさ、入ってすぐの構内図見れば場所分かるから」
図書館?学生らしいといえばらしい行き先だった。本なんて枕にしかしたことがない。横見によると身分証明が可能なら部外者も立ち入れるという。仕方なく足を向けると外観は奇抜でもなく地味でもなく、公共図書館といった出立だった。
カウンターで手早く入館の申請を終えたが、閉館間際のギリギリになって訪れる自分にどんな視線が浴びせられていたかには触れないでおくとして。利用者の振りをして中をさまよえば何とも言えない紙の匂いが鼻をついた。騒音防止の為に敷かれた絨毯を踏み付ける。前進する足とは裏腹の鈍い跫音を連れて、探し歩く。
途中何桁かの数字が割り振られたプレートに、精神医療だの認知心理学、行動心理学だのと記された書架の前を、何の気なしに横切った。
この中の何処かにきっと似たような、三辺のような人間、三辺の家族のような症例やらが記してあって、何か確からしい答えが載っているのかも知れない。或いは、そういったものを求めていたのかも知れなかった。何不自由なく綺麗に物事が解決して、全てが丸く収まるヒントを。
あったらよかったのにな。でも現実として見れば読み漁っている間に物事は一人でに悪化して、気付くと腐り落ちていたりする。背表紙にかかる手を引っ込めた。
そこでかたり、と物音に振り返った。ペンが一本転がっていき、見ると丁度奥まった書架と書架の間で埋もれるようにして並ぶ自習机の中にやっと目当ての姿を見付けた。どうやらペンの持主と目的の人物は同じだったようで認めた背後から覗き込めば、机上に広げられたノートは真っ新なままだった。課題か何かをしているのかと思いきや、こいつ単に寝に来ただけなんじゃないか。疑念に駆られるが兎も角これでは担いで帰る以外にない。仮にそうしたとする。何故かこっちが通報されかねない絵面になってしまう。納得がいかないながらも目覚めて貰わなければ大学くんだりまで来た意味がない。伸びた手はしかし、寸前で止まった。
横を向いた口元が何か呟いている。魘されているのだろうか。三辺は何度か呻くと静まり、そうかと思うとまた始まるのだった。人を呼び付けておきながら眠りこけるな。音信不通の訳を知って溜息を吐く。周囲に気取られぬようさりげなく数回机に指を打ち付けてみたが効果はない。
眠れる獅子の上下する肩を眺める。時折書架を挟んだ遠くで人の気配があっても、決して話し声はしない。館内は没した水底に似ていた。水面から果てしなく遠く離れた底でなら船を漕ぐのも分からないでもないが——浮かんだ想像は思わぬ答えを弾き出した。
原因、原因か。例えば、例えばもしだ。もしも魘されている原因が過去の、今もって続いているらしきろくでもない経験に端を発していたとしたら。間接的に聞き出した側にも非がある、かも知れない。
罪悪感、良心の呵責、報復。いずれかが、またその全てに突き動かされる。
「おい、起きろ」
「……?あれ、ごめん俺……本物?」
「俺は二人も居ねーよ」
「そっか。そうだよな」
潜めて発した声は果たして届いた。のそりと起き上がった双眸は驚きに瞠られ、数秒後にはこちらも全く同じ反応を返すことになった。不意に三辺が素早い動きを見せたのだ。咄嗟に顔を背け躱したものの後ろにはもう書架しか残されていなかった。吐息のかかりそうなほど近付いた唇が震える。
「!な、にして……誰か来たら……っ!」
「じゃあ大賀で隠して……?なんて」
極端に差のない背丈のつもりでいたが退路を塞ぐ三辺を押し退けるのは難しく見えた。まだはっきりとしてもいないだろう意識のまま朦朧とした戯言を吐かしていて、揶揄われているように見える。だけならば良かった。
熱を孕んだ唇で深く呼吸をし、意を決する。何処からも見付からないよう後頭部に腕を回してみる。すると三辺はいよいよ面食らったらしい。その年相応にも見える抜けた様は多少の溜飲を下げるのに役立った。
「それ癖?出る時も……俺のだーってしてるみたい」
「寝言言ってんじゃねぇよ……やたら人目に付かないとこ居たがりやがって」
あの日どんな理由で店に訪れたか、態々俺を選んだのかは知らないし暴かれたくないなら三辺の中にずっと取っておけばいい。ただし、他人を先に侵犯した報いは受けるべきだし、無遠慮に踏み荒らした挙句何事も無かったような顔はさせてやれない。
「もっと目立つとこ居ろ、分かんねぇよ……」
言い止した拍子に頭上で間延びした放送が退館を促した。早く出て行かなければならない。未だ寝惚け眼に向かって急かす。
「……帰るんだろ」
明滅する街明りは横目に流れていった。無機質に指示を出すナビに従いつつハンドルを切る。交差点を一つ超え、二つ目の信号に捕まっている最中だ。真隣の助手席に深く沈み込んで暗い車窓の向こうを眺めながらそれまで無言を貫いていた三辺が肩を揺らした。
「……何だよ」
「ん?ああ、ほらあれ」
フロントガラスの真正面、示された指の先には横断歩道を足早に駆けていく二つの人影があった。大小並ぶ影の片方、急ぎ足の親は辛抱強く手を引くが一方の子供は人の気など何処吹く風と遊び半分でいる。微笑ましいと眺める性分でもないが、ハンドル操作の片手間に独り言めいた話に耳を預けた。
「隠れんぼでさ。最後まで隠れ通して、終わったのに気付いて一人で帰るってあるでしょ。皆に面倒くさがられて。でも結局一番最初に真っ先に見つかっても仕方なくってさ。どっちにしたって参加してないも同然だって気付いたら」
渡り終えた親子はいつの間にか消えていた。『気付いたら?』折悪く切り替わった信号で問いは行き場を失う。次第に終着に近付くにつれ道の幅は細く狭まっていった。
「大賀言ったよね、人目を避けてるって。人嫌い、ってそれと同じだと思う?」
殆ど意味の変わらないように聞こえる中身について否定はしなかった。
「違うな。お前は人嫌いじゃなくて、嫌われてんだよ」
「当たってる」
「……何で連絡寄越した」
「もしかしたら上手く逃げてくれるかもって」
車線を切り替え、戻るつもりのなかった車庫に車を戻し入れた。閉塞感で満ちた地下空間が、キーを抜いた瞬間静まり返った。エンジンを切った車内では反響を除いて息遣いだけが沈黙の代わりになる。その中でどちら共出て行こうとしない。
読まれ過ぎる程読まれていた。結果的には思い描いた展開には至らなかったらしいが、だからといって特段残念がるでもない。強いていうなら、待っていた。だから遠慮なく拳を固く握った。
「どうして来たの。チャンスだったんだよ」
どうしてかなど愚問だろう。
ハンドルから離した利き手を出せば、がつん、という重い衝撃が腕に頬骨の感触を直に伝えた。
襟首を捕まえる手にも力が入り、締め上げる格好になった。苦しくて痛いのだろう。殴った手も痺れを訴える。当たり前だ。無傷に見えるのならそれは臆病風が何処か隅の方に隠してしまっただけで、何処にも行っていやしない。
「っってぇ……!っノータイム……っ」
「拒否権あったと思ってんのか?腹立つんだよ、お前見てると……」
はいもイエスも求めない一方的な行為に覚えがないとは言わせない。自覚しようとしまいとそれだけは事実だ。理性的な暴力なんてない。たった今三辺を襲ったのは紛れもなく怒りだ。虐げられた腹癒せとは近いようで遠い怒りだ。赤く腫れた頬はその為に付いた、誰にでもはっきりそうと分かる明確な楔だった。
こいつは、平気な振りしていれば良いと思っている。蹲って耳塞いでじっとしてればいいのに、それも出来ないで何がチャンスだろう。逃げ口上にしたって稚拙過ぎだ。
だったら始めから終わりまで人がましくせずにずっと閉じこもっていたらよかったんだ。誰の前から消えてもいいし、居なくなったっていい、例えば余計惨めったらしくなって叫び出さすにはいられなかったとしても、残された手段が恐ろしく手軽な急場凌ぎに過ぎない愚策でも、何一つ冴えていないやり方でも、粉々に砕けて消えるくらいならずっといい。そうしてもう何からも嫌われたっていい気がしてくる。だけど。
「た、いが?」
だけど本当は嫌なんだ。無遠慮だけが蔓延る部屋になんて長く居られないことくらい知っていた。理不尽を当たり散らせば良かった。素直に訴えれば良かった。今となってはもうどうにもならない。こいつを見てるとそんなことばかりだ。そんなことばかりで埋め尽くされた体じゃ苦しい、息が出来ない。帰る足が動かない。喉の奥に引っかかっていたものが解けて止まらなくなって、どうしようもなくなる。なくなってしまったんだ。
だから咄嗟に手が出ていた。無茶苦茶言って啖呵を切る様にせっつかれたのか、俯いていた顔が弾かれたように上がり、唇が開いた。
「同情されてる?もしかして」
無言で首を横に振った。そうして伸ばした腕の中で、酷く小さく見える三辺に対して——庇護欲と、ほんの僅かな劣情が芽を出す。
「……もう隠さなくていいよ」
躱す隙もなく、今度は人目はなかった。幾らか控えめに侵入した舌に絡め取られて応える形になる。合わさった唇の間から漏れる吐息の熱さはもう誤魔化しきれない。深くなるにつれ悩ましく乱れた呼吸を噛み殺してシートから乗り出した身体を三辺が受け止めた。
「ねぇ、大賀。最後でいい、からさ。もう一回だけ捕まって欲しい」
最後。三辺の意図は確かめなかった。代わりに開いた拳から抜いた車のキーを握らせる。決定権を委ねたんじゃない。自らを殴り付けた手から鍵を受け取ると、ぎこちなく苦笑した。
◆
恐る恐る腰を引くが内部を苛む振動は止まない。必死で堪えている様を隣に並ぶ三辺に眺められている。そうこうしていると乗っていたエレベーターの揺れさえ苦痛になって限界を懸命に伝えようとするが望んだ結果には至らない。殴られた頬の仕返しとばかりに貼り付いた笑みが憎い。
「もうちょっとだから、ね」
涙目に睨み付けて、自らの失態を恨んでいた。選択を誤った気がしてならない。つい先程のことだ。
幾ら奥まった位置に駐車していて、もう遅い時刻だとはいえ照明のある車庫は決して全く目に付かない場所とは言えない。それに後部座席ならいざ知らず、狭い前方のシートで下肢を暴かれているなんて知れたらどうなってしまうか分からなかった。焦りと羞恥とで目を開けていられなくなり、瞼をきつく閉じる。それでも暴く手は遠慮がなかった。
「ふ、ぅっ……っ!」
「ちょっと生えてる……」
陰部の周囲を撫ぜ這い回る指の感触に震える。緩慢な動きに対して反応を示し始めた中心を避け、無自覚にだらしなく開いていく足の間は早くも下生えに覆われていた。生えかけの毛を摘んだり撫ぜたりして何が楽しいのか暫くそうしている。
「また剃ってあげる」
「へんたぃ……」
罵ったつもりが、腰が勝手に揺らめいてしまって、説得力は薄れる。同じように膨らんで主張した屹立が押し当てられれば用意していたどんな文句も飲み込まされてしまった。薄目に開けたままでもぎらついている視線がありありと肌を刺す。身動き一つ取れずに拘束されていた時とはまるで違って、些細な衣擦れすら実際よりずっと大きく響いて仕方ない。回らなくなった呂律で呟いた。
「ぉれも……っ」
剥かれた下肢を見せ付けるようにして突き出していた。熱に浮かされて濡れそぼった先端から滴る先走りが、着衣も体毛も取り払われている光景が、あまりに卑猥で目眩がする。呼吸を乱してゆっくりと吐いた息が悩ましげな痴態と合わさった為か、険しい面持ちのままに三辺が囁いた。
「……やっぱり部屋、戻ろ」
でもその前に、と呟いた眼前には予想だにしていない物があった。どうしてそんなものを手にしているのか。疑いの眼差しは動揺を経て叫びに変わった。
「これさ、上に着くまで入れてて」
「は……っ⁈」
蛍光色の楕円形、伸びるコードから繋がった安っぽいスイッチが用途を簡潔に表している。有り体に言えばローターが、三辺の顔の横にぶら下がっていた。何故ここにそんなものがあるのか。三辺は弁明する。これも所謂プライズ品だ、と前置きをしてから。
「ほんとは大賀が起きた時使おうとしてたから……って言ったら幻滅?」
今更だが、もしやられていたら殴るだけでは済まなかったろう。無茶苦茶な注文の前に呆気に取られた。それ自体を拒もうとはしていなかったのもあるが、ここで、今この場で受け入れるだろうと予想していたのだ。だからこんな殆ど野外のような車内で甘んじていた。寧ろあんな部屋の大き過ぎるベッドよりもマシだとすら思っていた。
「別に、ここでだって……っ」
何を口走っているのだろう。しかし間髪を入れずあてがわれたローターの冷たさに背筋を震わせながら指の腹で少しずつ奥へ押し込まれていく感触に嬌声が押し出される間も、手元ではなく怒ったように歪んでいく顔から目が離せない。
「それは駄目。というか俺が嫌だ」
「く、っん……ぅっ!」
「すんなり入った……あー、このまま挿れたい……」
そう言って服を整えると——あろうことかスイッチを押したのだ。
異物を体内に潜ませて歩く行為には経験がない。決して強過ぎない振動が感度を高め、顳顬から冷や汗が伝う。誰ともすれ違わない保証はないのだ。廊下も照明で明るく照らされていて安心材料に乏しい。それなのに拒みもしないで付き合ってやるなんてやはりどうかしているが、先導する方は至って平然と、そして躊躇いなく強度を上げた。
「へーき?」
確かめる順序がおかしいが反論は噛み殺した。もしこんな所で声を聞かれてバレでもしたら。なるべくエレベータードアと反対の壁に逃げるが、かえって反対に追い詰められ板挟みにされてしまった。一瞬外の景色が途切れたドアの硝子に二人が映り込んだ。三辺は気付かないだろうが外に誰かが居たらそれだけでも絶望的な状況を生んだ張本人は、自身と打って変わって余裕を崩さない。
「イイとこ当たる?」
「……ゃっ、ぁ、ぅ」
堪え切れず漏れた喘ぎがやけに甘ったるいのも構わず窮状を伝えてみる。殴り付けた奴に助けを求めるのはあまりに滑稽に過ぎるし悔しい。ただもうそれ以上の期待に視界が濡れて目の前が朧げになる。浅い呼吸を繰り返し、時折足を擦りあわせ悶える。張り詰めた兆しをこれ以上刺激しないよう上半身を前屈みに折り、焦ったくカウントアップされていく階数表示を目で追った。
あともう二階、一階、〇。無限に続きそうに思えた時間から解放され、外へ転がり出る。火照った肌には外気が気温以上に冷たく感じ身震いしてしまった。そうして部屋の前で鍵を探し当てようとしていた背をぐいと押した。
「……どうしたの」
「あい、てるから、ぁ、は、やく……!」
「ほんとだ。不用心」
部屋を出た時もう戻らないからと施錠し忘れたままだったのは幸いだったのかも知れない。何処か暗く笑んだ横顔を追い越して中へ滑り込む。
でもやっとこれで、茹だるような焦ったさから解放される。脱ぎ捨てた靴を乱雑に散らした玄関を過ぎ、今度は反対に三辺を引き摺ってベッドに押し倒した。スプリングに揺らされて弾みの付いた身体を自重で抑え込み、一切の抵抗を封じてやる。見たか。
「せっかちだなぁ」
「ん……っぁ、っ!」
騎乗位になって勝ち誇っていたのが一変して、立てられた膝頭に後ろを刺激されてしまってはどうしたってじっとしてはいられず腰が落ちた。重心を支える形になった脚を更に動かされ、バランスを崩した身体が下になった三辺の胸元目掛けて倒れ込んだ。辛うじてぶつからずには済んだが、安堵している隙はなかった。
「あれ、甘イキしてる」
角度を付けた先端を眼下に囁かれ、滲みを作った下肢に触れようと伸びた手を握る。思ったよりも細い手首を捕まえて、身体の背面、秘部に導いた。と、より密着した胸の辺りから早くなった鼓動が耳朶を穿った。ローターの為か、内部が一際疼いた。
「も、いぃ……挿れろ……っ」
「いいの?」
「さっき言ってた……だろ、が……っ」
「……本気にした?やらし、」
妖しく揺らいだ双眸に急かされ、指摘された通りに下腹部を蠢かして見せれば同じように三辺の屹立も硬度を増した。
この雄に貫かれたい。みっともなく喘いで腰を振りたくって本能を直に舐るような酩酊に酔いしれて、この暗い目をもっと、もっと淀ませてやりたくて堪らなくなる。単純に境遇に憐れんでやって、その舌の根の乾かぬ内に貶めてやりたくて仕方ない。理性はとっくに欲望の前に溶けて死んだ。
分かっている。どうせこいつの方にしたって、偶々、偶々都合よく「それらしい」奴を見付ける能力に長けていたというだけ。俺にしたって後ろ暗さに付け込んで慰み者にして利用しているだけに過ぎない。助けてやりたいだとか、正してやりたいだとかどこまでも下らない傲慢だ。俺にはそんな真似はどだい出来やしないし、依存するだけだ——そう言い聞かせてみる。酷く利己的な性欲の吐け口にした、だからもうそれでいい。今更おかしな気を起こしてどうなる。これ以上なんてない。以下もない。
だから迷いなく怒張が突き入れられ、三辺の亀頭に押し込まれたローターの凶悪な振動が腸壁を抉り、狂おしい程の快感が脳を貫通すればそんなことは最早どうだって良くなっていた。
「あ、っあ、ひぃ……っ♡!こぉ……航ぉ……‼︎」
「もう……大賀……!」
「も、奥の……きつぃ、っ♡いらな……取れ……っ」
「やめちゃって、いいの?よさそうなのに……?」
違う。首を横に振って否定する。
「じゃあ、」
◆
「おく、奥……お前の、らけでいい……!」
突き上げられている最中必死に追い縋り、辿々しい懇願をして、プライドもかなぐり捨ててまで求めてしまう。
秘部から伸びたコードを引き抜き、ゆっくりと粘膜を割り開きながら出て行くローターを出来る限り締め付けないように力を抜いて感触に耐える。そうしたら次は耐え難い苦痛に限りなく近い、身も世もない快感を受け入れて——入れたら?
不意に、拘束され痕になった手首をやわらかな感触が覆った。唇を寄せる三辺を凝視する。
「な、どうし……」
「いや、人嫌われの気遣い、というか……」
三辺の声は余りに頼りなく弱々しい。自分でも何を言っているのかよく分かっていないなりの拙い仕草が面映く何か特別に映った。
こんな形で引き摺り出されるとは想定外だった。最も、単なる思い違いである可能性も多分にある。寧ろその方がずっとマシかも知れない。だって、この男は俺のストーカーなのだ。
「どうしたの……真っ赤」
「ば、ぁか」
僅かに残された余力を振り絞って、紅潮した頬に指が触れるとつい憎まれ口を叩いた。先に認めてやるのも何か不公平な感じがする。差し伸べられた体温に擦り寄って問うた。
「なぁ、なんでさっき車でしなかった……?」
きょとんとした顔は、たっぷり数秒咀嚼に時間をかけてから何かに気付いたようにばつの悪そうな、それでいて安心したように口元を綻ばせるから、知らず知らずの内嗜虐心に火が点きそうになった。人をどこまでも付け狙っていた割にこいつは案外虐め甲斐がありそうだ。少なからずそんな腹積りになっていたからすっかり状況が頭から抜けていた。
「なんで、かなっ」
「っは、ぁっん♡!」
今度こそ一息に突き入れられた灼熱が玩具で散々弄ばれた内壁を強烈に抉り、一呼吸も忘れて感じ入った。ただ暴れ狂う衝撃とどうしようもない熱に揺さぶられて腕でも足でも三辺にしがみ付いた。そのお陰で接合がより深くなり、はぐらかされた事実にも気が回らない。律動をやり過ごす為だけにひたすら鳴き続けて、全身で享受する。
「ゃ、あ、あっ‼︎」
「ね、大賀……」
「あっ、な、ぁん、だよ、ぉ……っ!」
それでも何とか懸命に応えようと掻き抱いた腕の中では、小さく『なんでもない』と返って来るのだった。