何度となく決心をした筈だった。もう何度となく心に決めて、真っ直ぐに来たつもりだった。そうでなかったのかどうか、確かめに来たのではない。
物心ついてから付き纏い続けていた違和が行き着いたのは一枚の扉だった。
階下の集合ポストはどの部屋もプレートの番号が割り振られてある貸家の一室。見間違いは決してしない。いっそ何もかも間違っていて、一切を忘れようとすれば後先の問題にも出会さずに矮小な失望の影を踏むだけで良くなる。
しかしこうして裏切られたことでどうにも立ち行かなくなってしまっていた。このまま部屋の前にいればいつか戻って来るかも知れない。不在が持つ期待はこんな時とてつもなく厄介な相手だった。この扉の前の『もしかしたら』から、逃れられるだろうか。
今日は一日ずっと、眼前の部屋は無人のままなのかも知れなかった。不必要に物静かな部屋だと、居合わせた隣人から教わっていたことは確かに都合が良かった。日を改めようと決めて、扉の前から離れることにする。
貸家は眺めの良い坂上に建っていた。階段の軋りが耳障りになりそうな年古りたアパートとは違った居住いは、急勾配の坂道を下るにつれ段々と遠くに、そして高くなって来訪者を見送っていた。ごく小規模のロータリーを備えた私鉄の駅舎に、丁度電車が滑り込むのも見通せる高さがある。部屋の主がたった今停車した車両のどれかに乗ってこの道を向かって来ていれば何処かですれ違うこともあるだろうか。僅かに首を捻らせてみたが、すぐに引き戻す。そうして、環状の滑り止めが作る縦横無尽の模様が敷き詰められた坂を、一目散に駆け降りた。
一度も躓かずに走り切るとやがて玄関を潜った。家内に人気はなく誰の迎えのない、いつも通りに無人の廊下が待っていた。一番に鍵を開けるのは日課で、皆仕事か同等の用に出払っている。冷ややかさの温もりは、汗に張り付いた服を幾らか乾かした。荷物ごと自室に身体を放り込めば、それまでの一から十まで、一切は部屋の外に追い出せた。他にどうにもならなかった。肩の上下が小さくなるまで待つ他に。
食卓を囲む人々を家族と呼ぶように、家には父母がいて、少し遡れば祖父母も暮らす二世帯住宅で生まれ育った。月並みの人々の間にある血縁関係が築かれた中に生まれたのは一人だけだと聞いていた。祖父母が孫の存在に対して目をかけていて、過保護のきらいはあっても過干渉まで達さない両親に囲まれて、何不自由なく育てられた。
だが、本当に?
本当の不自由のなさには何か、何かが程遠かった。間違っているとは思わない。家族を称して属する以上、各々は大なり小なり誤っている。外を窺おうとドアスコープ大の接点から他所を覗き見ても、到底手の施しようがないらしいことが分かる程度だ。その根底は変えられない。いつ頃からだったのだろう。それはほんの些細な、日曜の午後にふと気付くくらいの僅かな奇妙さでしかなかった。瞬間は日常となり、付かず離れずついて回るようになっていった。欠けているのではない。ぽっかりと空いたまま足りていないから、ただ探そうとした。仮想の友人などには代役は務まらない。短絡な希求、それらの発端は部屋の数の所為でもあった。数だけなら世帯数にしては多寡に口を出す必要もない。だけれども、訊ねずにはいられなかった。物置にしている一室が、自室の並びにある一室が、同じ間取りに作られているのは何かの間違いではないのかと。けれども返って来るのは明確な否定ばかりで理由がある素振りは誰一人として見せなかった。家にあるのは家族。ないものは、家族ではないものだ。祖父は以前から繰り返しそればかりを唱え、また他に六つの瞳も無造作に追従しては頷くだけだった。
片方が没してから違和はより募っていった。祖父母に違わず父母が繰り返すのは否定。そしてまじないのような一言だけが降り積もっていった。家にないものは家族ではない。けれどその家には足りていないものがあって、影も形も掴めない。ないものだと断る二人と、ある筈だと思う一人が同じテーブルを囲んでいる。テーブルランプの下で立ち昇る湯気は、まだ食卓に温みをもたらそうとしている。
元から広く作られていた家は更に手に余るようになった。二人分の物を収めていただけの一室は、いつしか使う頻度のごく限られた客間として使うよう取り決められた。数少ない回数の内の一度目は、然程親密でもない同級生の招待に使われ、穿って見れば否定の延長線上にあった。
こうして客間は招く人々に振り回されながら使われるようになった。物置よりはいいが、かといって部屋が負う役割は変わらない。空白が部屋の輪郭を伴ったに過ぎなかった。そこにある不存在が立体感を持っていて、二人がいた頃より遥かに整頓された部屋が一層の力を持っているのに向かい側で閉じ切られている。部屋の真ん中に立つとすとんと全身から力が抜け出ていく気さえした。いつしか部屋の前に立てば、その感覚が必要性と不存在の間を取り持つ楔になっていった。部屋そのものによって、短絡的な探求は増されていった。
客間が最も多く使われていた時、周囲は単に都合の良い溜まり場として利用している認識があった。招く側と招かれる側の立場は完全に一致していて齟齬はなく、違うのは一人だけだった。集まった数人の中には外で走り回りそうな調子者、活発なのもいて、裏手の山に秘密基地が作れそうな場所があるとか、年相応に集団の興味を集めそうな話題を持ち寄った日もあった。一時何人かは行ってみたいと手を挙げたが、別の一人は秘密基地よりずっと面白いところを知っている、と強引に話題をひったくった。場の期待を一心に浴びて満足そうに鼻を鳴らして続ける。しかし坂の上の貸家に空き巣が入った、というところから後はさっぱりだった。次第に客間は噂話の市場となり、山奥の人影がどうだとか、この地方の集落の因習だとかを休み時間の暇潰しと同じように言い募っては盛り上がっていた。
知っているか、と一人が話し出したのは、ある種の珍しさから来る噂の切れ端に過ぎなかった。
『貸家の納屋には夜な夜な誰かが押し込まれて泣いている。』好奇心に手足の生えた集団は、秘密基地よりずっといい玩具に飛び付いた。集団には逆らえなかったのだと嘯いて、続く方を選んでいた。興味がなかった訳ではなかったし、何よりも口の端に上がって広がる泣き声が納屋の出す軋みか何かだろうとは誰も言い出さない、暗黙の了解を持ち出してみても、この時の好奇心は説明し尽くせなかった。
ライ麦畑の真ん中で誰にも手を伸ばせずにいるような気分になった。幾重もの罠が潜んでいて、但し手が出せない。子供達は誰も彼もが走り回るのに夢中になった。噂の帰結はごく単純な結果となった。
子供達は放課後に待ち合わせて、揃って目的地に向かうことにした。住宅街を抜け坂を越え、気付けば街灯も疎な頂上に着いていた。駆け上がって来た為に上がった息を整えることさえ愉快だったのだろうか。燥いでいる後ろで彼らが向かわない方を振り返った時、急にぎょっとした。遠目には光の点がちらちらと走る。家並の間に駅が見えた。あの辺りは商店街、あっちは確か取り壊しの決まった空き家のある並び。
強く歯を食い縛り過ぎていた。顎の痛みを堪えるのも忘れて、夜が目の奥に染み込んでいくのを抑えられずにいた。食い入るように見入って、誰かに肩を叩かれるまで目的を思い出せずにいた。どうしたんだと言われても、ああ、とかうん、とか短く答えるので精一杯になっていた。
ワゴン車が一台通りを過ぎて、坂道を曲がっていった。ヘッドライトが徐々に光量を増して走って来る。ライトの流れだけ目で追いかける。エンジンは切れた。例の貸家の目前の電柱に、もう何度もそうしているような動作で停車した。すぐにても運転手が飛び出して来て怒鳴り散らされるかも知れないと、何人かは早々に逃げ出して行った。残った内の一人が脇道の裏手に隠れるよう慌ただしくも手招きしていて、咄嗟に近い方を選ぶ。たっぷり五分は経ち、ヘッドライトが点いたまま前方を横切る訳にもいかない。物陰にじっとしている子供がいたからといって、幾許もない背丈では視認することはおろか存在にすら気が付かなかった。事実車の主は見向きもせず部屋のあるらしき階に向かった。実際には何分も経っていない。しかし切れかかった蛍光灯の明熱を思わせる拍動が長いこと掌の内に残っていた。
何かとんでもない場所を見付けてしまったのではないか。夜更けの街を一望する坂の上に、今夜見付けたものは本当は人の住む貸家などではなかったのではないか。
幾日か経って、遂にその夜の話を口にしてしまった。咎め立てられないよう用心深くこの話題に触れたのが直接のきっかけだった。
食卓は丁寧に営まれていた。食物に感謝を捧げ、皿に取り分ける一つ一つの動作が何年も同じように積み重ねられて来たと分かる。二人は完璧な再演を成し遂げていて、向かい側の三人目の黙考を完全に消し去っていた。切り出すと、二人から一切の言葉という言葉、動きという動きが失われたことが察せられた。
どうやってそこに?お友達と行ったんだね?
二人の間は独特だった。当然、誰かの誘いがなければ見つけられない場所を知ったのだ。そういう類の断定を与えた。一歩間違えればどういう事態が起こっていたのか今では想像も出来ない。二度と近付かないように。釘を刺さされた暁に、一体どう受け応えたか定かではなく、気が付くと一人部屋の前に立って、じっと扉の蝶番を凝視していた。自室とは違う部屋の前で、何時間か突っ立っていた。知らず知らず、誘われたことを感謝すらしていた。好奇心に負けて良かったとすら欣喜し、二人の反応の意味も部屋の数もこの頃にはさして問題にしなくなっていた。
きっとあの場所には何かがある。それでなければ変なのだ。何もなければそれでいい。漠然とした欲求の尾を捕まえられる機会が今ならば、二人の意に反する行動を取ってもいい。確たる意識の外側に、必ずそれはある。空想などではない。
例えば、登校の途中で耳にする奇妙な響き。例えば、いつからあるかも曖昧な路端に転がる不定形の塊。そのいずれもが、単なる鳩の鳴声であるとか不法投棄の成れの果てであるとかいう、確からしい判別がされた今となっては見向きもされない。これと何らも変わりがないことなのだ。今回もきっとそうに決まっていた。何か病的な観念に突き動かされているのは一種の感冒みたようなもので、それが長いこと巣食っていたばかりに表出したものだ。違和、と思っていたものにどんな風であれ形を与えてしまいたかった。それでどうなるかは知れないけれど、息が吸いやすくなればどんなにか楽になれるだろう。
何不自由のなさが、決定的な枷と化していたことは疑いようがなく明らかになった。
これで二度目だ。これで漸く二度。途中見覚えのある車両が坂の下に停まっていた。よくよく確かめれば、車両は真新しく広さも十分にある。持主は忘れ物でも取りに戻ったのだろうか。まだ日も暮れない頃に何処へ出かけるのかを気にする間もなく貸家のすぐ脇にある例の納屋から悲鳴がした。勿論、正体は大したものではなく錆びた戸の悲鳴だった。同じく貸家の住人の借りたものだろう。敷地内の端にガレージ状の空間があり、車の持主はそこへ用があったらしく中身を引っ掻き回していた。噂の正体の一つが全くの不可抗力で明かされつつ、恐る恐る近付いていった。
背後、しかも住人に含まれない子供が立っていれば驚きもしただろうし、実際そんな反応をした。男はやや訝しみながら、友人の部屋が分からないという方便で快く貸家を案内をした。友人と説明しながら、どの階の何号室だかの連絡を取り合わない仲だったのかどうかまでは年恰好が奏功して踏み込まれなかった。
貸家はロビーから各部屋に至る作りとなっていた。男の部屋は一階にあり、防犯上の観点から狙われてしまいやすい一階の特典として、外の一部を借り受け相殺しているという。案の定、悲鳴の噂は軋みに端を発したものだそうだった。期待外れを超えてしまえば、いっそ期待通りと言っていい。賃料と公平さのバランスが取れているのかどうかはさておくとして、どの部屋に誰がいるのかはおおよそが分かって来た。大抵は男のように単身かつ、朝には働きに出て遅くとも深夜には戻るような勤め人が主な住人の層で、眺望を求めて越してきた入居者がいる他は、希薄な関係ながらトラブルも殆どない。男からもそういう住人ばかりの何の不思議もない住宅だとの認識があり、同意を求めて来た。この男の日常は過不足なく完成されていた。或いは足るを知っただけのことか。どちらにしても、ただ一点、男の認識から外れる部屋があることまでを話し終えると、再び車両に取って返していった。
思い返しても『友達の部屋』は、やはり防犯意識を体現しているらしく、表札はあっても肝心なものがなかった。代わりに日に焼けた無地のプレートだけが、ともすれば住人の警戒心をより強く訪問者に植え付けてもいた。尤も、男に友人と伝えたのはこの部屋だった。何とか聞き出そうとしてよく口が回ったものだと驚いた。その成果は、正に決定的なものだったのだから成功と言って良かった。
そういえば君と名前が同じなんだ。親戚の人?言われてみると確かに似ているね。
扉の前に立つとまるで不自然なくらいそれまでのことは抜け落ちていた。無貌の、完成された日常の隙間に忽然と紛れ込む扉と夜景が蝟集し、渾然一体となって頭蓋の内に犇めき合っていた。
ぱたっと、廊下の隅に抱え込んだ膝の上に落ちたものがあった。それが乾かずにいた汗だったか涙だったかは分からなかった。肌の上を滑っていくひとしずくが、軌跡を作って落ちていくまで、不意に強く背筋を震わせていた。怒りともつかない後悔が押し寄せ、止められなかった。
次は絶対に、あの扉の先を確かめよう。それが最後になるのだ。
希求も何もかも終わりにする。単なる不自由のなさ、その発端は一枚の扉だった。これまでは違和と呼んで、最後に行き着いたのも一枚の扉。表裏一体の扉一枚を隔てた反対側に血を分けた人々が隠し通したかった何からしきものがあった。見覚えのある姓名の住人が近隣に住んでいる。この符号を繋げたのは紛れもなく当人達の警告と態度の変化だった。一度の話で食卓は様変わりしたが、どうあったかを逐一覚えていようとはしなかった。次の計画を立てるのに細心の注意を払った。計画といっても、何をどうするものでもない。細心の注意とは、突き詰めれば二人の目を盗むことに他ならなかった。カレンダーの日付に書き込まれた記号は、数ヶ月の後、二人が家を丸二日不在にすることを意味していた。
都合のいい不在が二人にしてみれば決して楽観視出来ない状況だったことは、それから後に起こった騒動で嫌というほど知れるところとなった。予定の取り止めに至らなかったのがせめてもの救いであり、同時に最悪の事態だった。
坂の街に生まれて坂を疎まなくなることはない。頂上からの眺めで一時騙されるだけ、そして慣れるだけで、次もそうだった。男に聞いた通り、部屋の殆どは閉じ切っていて無人か、同等の静けさに包まれていた。時折、到底届きようのない、駅舎に停車するブレーキが雑踏を掻き分けて響きそうなくらいだった。空間が息をしていて、昼の内は熱心に音を食べているような、深雪を思わせる余韻を、ひたすらに持っていた。そんな只中に、一つだけ。窓の開け放たれている一室に目を奪われた。階下からでも分かる薄いカーテン越しに、ゆっくりと濃くなる人影があった。酷く鈍間な影がはっきり像を結ぶと、そこからは一瞬の出来事だった。
煙草か何かを吸いに開けたかに思われた窓からは、半身を乗り出して人が見えた。寝巻きにしては堅苦しいシャツに上着を引っ掛けた出立ちで、脱色した髪が日に透けている。先に案内を買って出た男に比べればずっと若く、学生にしては妙に草臥れている青年は、初め階下から他人が窺っているとは知らずに覗き込んだ様子だった。あ、と口が形作られ、互いは鏡像になる。しかしすぐさま青年は中に取って返して窓を閉じ切り二度と出ては来なかった。叫ぼうと思った。いや、泣こうと思って、結局はどちらにもならない。直立不動になって呆然とするばかり。どうしようか、部屋の前まで行くべきだろうか。無貌の部屋、その主に直接会って、それからどうすべきだろうか。家がおかしいのだと伝えるか、それとも、それとも。探すことを目的として据えた時間が相当にあったのが原因かして、後先のことがこれっぽっちも続いて行こうとしない。何分もそうしていたようかに思えたが、時が戻ったのは一瞬だった。青年は慌ただしく階段から降りて来て、険しさはそのままに立っていた。初めて相対した。初めてだった。
この人がそうなのか。似ているかどうかは分からないが、並んで写真でも撮りもすれば分かることだった。家には青年の写真は一枚もなかった。あって当然のものだったのに、一枚たりともなかったのだ。
「に……」
「何してるんだ」
青年は肩を強張らせたまま怒気を孕ませるが、一方でとてつもない嫌悪と恐怖が滲んでいた。檻から逃げ出した猛獣と遭遇して狼狽えているような。どう返しても、納得させられる気がしなかった。求められているのは『何をしているか』で、具体的には『何をしに来たのか』。これは至極明瞭で、会いに来たのだ。だから目的は既に達成されていて、新たに作らなければならなかった。青年はそれでも返答に迷っているのを頭ごなしに咎めるつもりはなく、思慮深い内容も期待してはいなかった。反応がないのに焦れたのか本来そうすべきでないと分かって青年は腕を引っ掴み、部屋の前へと引き摺っていった。僅かも触れていたくないのか、扉まで来ると乱雑に振り払った。
「お前が来るようなことがあればすぐ連絡するよう言われているんだ」「通報だよ。実の親にさ」「だからもう彷徨かないでくれ。困るんだ」
矢継ぎ早に言いたいことを告げ促すが、当の二人なら今はいない。青年は一切を知らされていなかった。連絡先を把握しているということは、青年の元を訪れる想定は予めされていたのだろうか。「通報されたらお前はこっぴどく叱られるのだ」と言いたげでも、脅しになっているようで全く意味をなしていなかった。この場合、標的になるのは青年だ。会いに行った、と誰にも告げずに家を出た。状況としては不自然な家出が成立していて、真っ先に関係者を当たって青年が免れるとは思えない。だが、そんな心配が今必要なのだろうか。
『どうして家にいないのか』。会いに来れば楽になれる。そんなのは想像力の欠如が見せた幻覚だった。迷っていたのは初めだけだった。聞きたいことは積み上がり、とうとう雪崩れを起こしていた。
「そんなのが訊きたかったのか?態々ここまで押しかけてそんなこと」
そうだ。知っている人々はあらゆる方法で口を閉ざしてしまった。だからこそここまで来たのだ、どうしても訳が知りたかったのだ、と哀願した。実親は言うに憚って教える気もなく、それが裏目に出ていることが分からない。それに青年が横暴な相手に見えていたら、きっと引き摺られている間にも逃げ出していたし、叫べもした。寧ろ恐慌状態なのは青年だった。頑なに引き下がろうとしないでいると、何処かに通話している。しかしながら通話先は固定電話回線だったのか受話器は上がらない。不在に諦めるまで、青年は粘り強く待っていた。通報が失敗に終わると、青年は吐き捨てた。
そんなに聞きたいなら教えるから、聞いたらすぐ帰れ。でないとお前が同じ目に遭う。
「おなじって、どんな目」
「だから、追い出されるってこと」
「追い出す?」
「父さんも母さんも、祖父さんもそう。近付きたくないんだ。俺も近付かれたくない。会いに来なくていいし、来るなって言われてる。でも目の届く所に留めて置きたいからここに住んでるんだ。祖父さん達の葬式にいなかっただろ。そういうことだ」
青年は捲し立て終えると勢いは急速に萎んでいった。ばつの悪そうな顔がふっと自虐的に歪む。下がった眦が今にも泣きそうになっていた。
「帰ってこないのって、誰の所為?」
「帰れないよ。誰の所為でもないんだから。俺はもう兄弟じゃない」
「でもだったら、二人には知られないよ」
「そうみたいだな。留守番ほっぽって、何でここが」
「会いたかったから来た。だって、ずっと探していたんだよ。少しも……見付かると思ってなかった」
兄さんとは呼べなかった。長いこと口馴染みがなく咄嗟に出ては来なかったが、奇しくも呼ばれたがっていないようにも見えて口篭れば青年は少しほっとして見せた。それでもやはり扉をすぐにでも閉じたがっていたが、無理に身体を割り込ませて玄関口に追いやった。吃驚してたじろぐ。心なしか身体が動揺で震えていた。見なかった振りをして、後ろ手に扉を閉めた。こうして室内に踏み入った時、全く身に覚えのない空間にも拘らず安堵した。違う室内に繋がる扉を潜ったと思って、それは全く見当外れだった。ここに、この部屋に繋がっていたのだった。青年も青年で、追い出そうとしてもかえって騒がれるのを危惧して無理に帰そうとはしなくなった。
帰りたくなかった。帰れなかった。あの家には何もない。ここには家族がいる。『家にないものは家族ではない』。違う、真逆だ。家が先で、家族が隷属するのではない。家族と住む空間を家と名付ける。ただそれだけだった。青年は追い返そうとはしなくなったが厄介事に巻き込まれたとあれこれ思案している風だった。厄介事の方から押しかけられるとは夢にも思わなかったのだ。青年にとって、唐突に現れた家族は最早悩みの種でしかなくなったようだった。
一刻も早くこの場から立ち去って欲しそうに青年が背を向ける。やはり上げるべきではなかった。そういった沈黙の中に、居た堪れなさを色濃く滲ませている後をついて回った。もっと話していたかった。もっと見ていたかった。部屋の突き当たりで、階下から見上げた窓と正対していると矢庭にカーテンが勢いよく引かれてしまった。元々日当たりが悪くなかったのか、外部からの光を遮られただけで薄暗さが際立つ。
「何を見てたの、さっき」
「別に。何にも」
「何処か出かける時間だった?」
「予定なんか作ってなかった。することなんてない」
「だって、服」
「服?」
「でかけるみたい」
「違うよ。用事ってほど大した所じゃ」
直前、言い止してフローリングへ潰れるように座り込んだ。横に並んで座って続きを待つ。呆れ返って半歩分離れる。追う。二者の距離は平行線を保ちつつ、最終的に折れた方が話し出した。
「教えてって言ったよな。どうして追い出されたか」
青年は明快に四人から受けた仕打ちを明かした。話の端々からは汚水に塗れた雑巾を何とか摘み上げて見せるような遠慮があった。その手付きめいたものは、多寡はあれ覚えのあるものだった。祖父母の葬儀に不参加であったのも、指示があったから従った。仮に呼ばれたとしても断るつもりだった。以降もほぼ絶縁しており、一階の男から『友達』の報せを受けた後は気が気でなかった。いっそ越してしまうか、新しい部屋探しに悩んでいたところに、折悪しく。つまりはこういう事情だった。
彼は異性愛者達には受け入れられなかった。
「引越すの?」
「折半……向こうが半分家賃持ってるから、出る時は会わないとならない。それで縁を切って、終わり」
「待ってよ」
「なぁ頼むから、会いに来たとか妙なこと言い触らすなよ」
「言わない」
「なんで来た」
「空いてる部屋があって、変だなって」
「それで?」
「誰が使ってたか気になって、それが始まり。誰も知らないって顔した。絶対に知ってたのに」
「悪影響だからだろ」
「一緒に住むのが?」
「お前が俺をどう思うかじゃない。お前の周りがどう扱うかだ」
「よくわからない」
「他人を考えているようで本当は違うところが問題なんだよ」
再び捲し立てそうな語気を引っ込めて、戻して、その繰り返しで始めの恐怖は立ち消えていたが、今度は苛立ちが現れて来た。外光が途切れた室内では隅の方から怏々とした埃混じりの空気が充満しつつあった。辺りの空気を肺いっぱいに押し込んで吐き出された舌端は、控え目に聞いても独言だった。
「気になって、終わりなんだろ。お前のその好奇心みたいなのは一過性だ、勘違いするな。飽きたら覚えてもいない。こっちは、こっちは飽きたからって仕方ない。何とか認めるしかないってのに、どうして……」
長いことこんな部屋に閉じこもっていたからどうかしてしまったんだ。きっとそうだ。一度連れ出さなければ彼はもっと悪くなる。そう思った。但し体格の違いで簡単にはいかなかった。見兼ねて腰を浮かせるがそこから一歩たりとも動こうとしない。
「おい、待てったら。何だよ、急に。出ない、離せ」
「外行こう。ここじゃ駄目だ」
言い出した手前ながら、無理矢理に連れ帰ってあの物置にもならない一室に押し込みたいとは思わなかった。絶対に違う。でも当てがわれた部屋だって違う。何処もかしこも彼の居られない場所だ。じゃあ、何処へ行けばいいっていうんだろう。彼と家族になる場所なんて一つもない。探しても探しても見付からないのは、我が物顔をした家の模造品の中に僅かもその余地がないからだろうか。追いやられて甘んじることで、末席を演じようと。
違う。そんなのはおかしい。
「行けやしないよ」
意地の応酬の末に駄々を捏ね合う形から、気付くとこれまでになく食ってかかっていた。
そんなことが聞きたいんじゃない。
こんなことが、聞かせたいんじゃない。
「なんで決め付けるんだよ。だって、それならそっちにだって分かりっこないんだ。どれだけおかしなことが起きてるか」
「……おかしなことなんてずっと起きてないよ。お前が生まれて来たら出て行くからって言ったんだ、俺から」
「なんで?」
「なんで、なんでって訊かれたって知らないよ。俺が訊きたい……なんで、俺が出ていかなきゃならなかったんだ。言わされたなんて思ってない。決まってたことだ。おかしくなんてない。なんにもだ。そうだろ、なぁ」
生まれて初めて兄弟喧嘩をした。けれどどれだけ言い争っていても、兄弟はどんな兄弟より希薄な関係だった。だから似て見えただけなのかも知れなかった。いずれにせよ彼は支離滅裂に弁明していて、これっぽっちも納得がいかない。それなのに突き放したり、増して手を離すなんて到底選べなかった。
「……わかんないよ」
時報が遠い。心底欲しかったものが指の先に項垂れている。彼はいつしか何でもないものになっていた。
「あのさ、何しに来たのか、言ってもいい?」
僕は彼を見付けに来たんじゃなかったのだ。
「ねぇ、遊びに行こうよ」
胡乱に合う視線の先で、互いが漸く見つめ合う。