トライボロジー

 全く参った。いやもう、焦った何の。
 これでもそれなりの下準備と兼ねてからの計画を遂に実行する好奇心とを両輪にここまで来たのだ。まさかこんな事態になるとは——確認は怠らなかった筈なのに。仕方がないと割り切れない。これが運の尽きだと諦めるのは正直非常に悔しい。道半ばで終わらせたくはなくて、だけどこれでは。

「どうすっかなぁ」

 通り雨があれよあれよと言う間に滝のような豪雨を降らせて早小一時間。物の見事に黒んだ空を恨めしがるだけ恨めしがってから肩を落とす。どうにもならなかったとしてもどうして今なんだ。
 広大な駐車場を有するSAは近年大幅なリニューアルを遂げていた。一般道からも利用出来る構造が売りで、観光地に向かう途中に出来た小観光地、と言った触れ込みで改装当初から客の入りが盛んだった。ところが都合の悪いことに、オフシーズン中の現在、閑古鳥が鳴いていた。これも運の無さというかなんというか。ガソリンスタンドが併設された立地だけあって旅客が居ない間は一般車より大型車の出入りが特に多かった。
 悪天に足止めされたのなんて幼い頃以来だ。野外活動で集合時間に遅れた原因を懐かしんでいると、広大な駐車場に入って来た四トン車から慌ただしくドライバーが駆けてきた。雨宿りをする自分のすぐ近くにまで辿り着いた時にはもう、何十メートルとない距離を走っただけには思えない有様になっていた。肩で息する背中に近付いていく。

「使います?」

 バックパックからタオルを手渡すとドライバーがこんがりと日に焼けた顔を皺くちゃにしてはにかんだ。

「気が利くな。ありがとよ兄ちゃん」
「いえいえ」
「つーか見てたな?」
「はい、バッチリ。俺も走ったなーって。凄いっすよね」
「台風の影響だってよ。線状降水帯がどうのこうの。ったく、こんな天気でもこき使われてたらいつおっ死んでも不思議じゃねぇよな」
「ご苦労様です」
「悪いな、ちょっくら取引先に連絡して来るわ」

 愚痴っぽくぼやきつつテキパキとした、こういった職業ドライバー特有の臨機応変さを尊敬しつつ、下心を隠している親切心を恥じた。きっと彼同様電話口の相手も悪天に憤懣やる方ないのだ。一方こちらは目的の為に手段を選んでいられない状況を招いた身だ。ここは腹を決めて押し通す方が後腐れがないだろうか。
 連絡を済ませたという男性は片手にコーヒー缶を携えて戻って来た。しかし何故か二本握られていて、その手から一本が放り投げられる。慌てて受け止めたものの、腹を括った勢いがその一瞬の出来事で霧散してしまった。こうも気前よく奢られてしまっては突き返せそうにはなかった。

「ほらよ、飲みな」
「いいんですか?」
「いいってことよ。しかしまた酷くなってきやがったなこりゃ」
「いつ止みそうですかね」
「暫く無理だ。お前さん予報聞いてないのか?」
「ラジオですか?」「おうよ」

 ドライバーの男性が気さくに話しかけてくれたものの浮かない顔はあっさりと見抜かれてしまった。渋っても仕方がない。単刀直入に訊いてしまおう。

「悪ぃなぁ、今日のは急ぎなんだ。乗せてはやれねぇよ。つっても元々狭ぇし、後ろは荷物だし」
「ですよね……すいません、なんか」

 見事な玉砕、分かってはいたが落胆せざるを得ない。勿論はっきりと言ってくれた事に感謝を述べつつ、当然直面しなければならない問題を解決すべく考え得る限りの案を探し、探した挙句どれも役には立ちそうになかった。
 八方塞がり、万策尽きたかに思われた。
「おう」売店の向こうから丁度やって来た、まだ若そうなドライバーが数秒こちらを眺めていた。かと思うと踵を返したのだ。それを見かけた男性は目聡くも立ち去ろうとする背中を見逃さなかった。浅く会釈する彼の目は何処か淀んでおり、疲労が窺えた。

「なんだよ居たのか。隣県か?」
「……っす。朝一で出て」
「でまだここか、おつかれさん」
「やってらんねぇ、ほんと」
「そう言うなや。その分貰ってんだろ?若ぇーんだから」
「俺の明細見ます?」
「っははははは!んなもん轢かれても御免だわな!」
 
 顔馴染みの元同僚なのだという二人の話に花が咲いている横で居場所をなくしていると、思い出したように若い方へ男性が紹介をしてくれた。胡乱な目付きながらさして興味もなさそうな会釈は素気無く感じさせる、ごく一般的な、何一つ不自然さのないものだった。
 
「そんで?なんだってまたお前さんはこんなところに一人で来たんだ?観光ってんでもなさそうだけどよ」
 
 そうして、至極当然だと言わんばかりの問いが目の前に現れた。どう取り繕うかが肝心なのは分かっていた。幸か不幸か成功も失敗もこの一言にかかっている、強弁すればボロが出るし、自信のなさは疑心を招く。一回限りの正念場には足りないものがあった。
「へぇ?」
 その意気地のなさを彼が何処となく小馬鹿にした調子で返される。『どうせ大した訳もなしにぶらついているだけなんだろう』。こんな具合に。
「そう、なんですよ」
 対抗心じゃなかった。もっと不純な弁明。俺はもう違うんだ、と他に考えるべきあらゆる事情を三段飛ばしにしてしまったのだ。
 

「「ヒッチハイク?」」

頓狂に重なった反応を、何処かしてやった気になってから項垂れていた。もっと上手い言い回しは浮かんだ筈なのに。返答は至極真面と言える。

「輪行なら俺もあるけどよー。流石に歩きはねぇなぁ」
「……あほくさ、映画の見過ぎだ」

まさか荒野のど真ん中で『乗せてください』と書いて立っているでもなし、線路の上を歩きたがる子供達でもなし。彼の言い様は流石に辛辣な気もしたが片や急ぎの仕事中の労働者、片や暇人な不審者——いや、こちらにもそれなりの事情が、などと言い訳をしてもやはり返って来るのは似たり寄ったりのそれだろう。ただ何が受けたのか男性は与太話の出来損ないを疑わないでいてくれた。ばかりでなく、あろうことか願ってもない提案をしてくれた。渡りに船とはこの事だった。
相手が彼でなければ。

「そういうことならお前が乗せてってやれよ。ここから近いんだよな?」
「はい、割と……」
「だってよ」
「嫌っすよ。遅れるし。そもそも何で俺がこんな奴のお守りとか」
「あのなぁ、思いやりってもんはねぇのかよ現代人」
「昨今の防犯意識舐めないで下さいよ。大体何が一人旅だよ、他人任せだろうが」

そう言われてしまうとぐうの音も出ないが今時一人旅に憧れて決行した、とでも呆れてくれていたならかえって都合が良い。こちらにだって選ぶ権利があるのだ。他人に口を出される筋合いはない。説明する手間が省けて願ったり叶ったりだ、とコーヒー缶のプルタブに指をかけたきり、開かない缶を握り締める。何ならこのまま握り潰せそうだった。足りない握力の分は奥歯に込めることにして口を閉ざす。次にその唇が開いた時、折から躓かせられっぱなしの状況にもいい加減うんざりし始めていたから、少しでも面食らわせてやろうとして俺はまたぞろ口を滑らせた。

「そうですよね、今時失恋で……なんて」
「失恋?へぇ、それはそれは」

 本来の目的、そのおよそ半分程の真実を伝えてみる。しかしそれだけては寧ろ疑わしさは増してしまったようだった。それはそうか。漸くしくじったことが実感されて来る。お陰で見ろ、二人共既に不審物を見付けたような顔付きになっている。通報されでもしないだろうか。ともかくもこれ以上ない居た堪れなさをコーヒーの苦味で押し流そうとすると、悪天は変わらないながらも徐々に晴れ間が見えて来た。でも今更止んでももう足がない。立ち往生は決まってしまった。悄気る自分を尻目に庇の下から駐車場へ男性が出て行く。彼はもう行くようだ。
 
「お、止んだ止んだ。そんじゃお先」
「コーヒーありがとうございました」
「いやいや、躓く石も縁の端ってな。そっちも気ぃ付けろよー」
「はい、どうも……?」

 『気を付けろ』?特別おかしくもないが違和感の残る言葉を貰う。首を傾げつつも戻すと、彼もまた妙な表情をしている。
  
「ったくあのおっさん」
 
 大仰な嘆息にハッとする。ああ、こんなのってない。ここから上手く別れを告げられるだろうか。今更ながらあんなことを言うべきではなかった。後悔に苛まれている傍らで、彼は不承不承にぼやいた。
 
「あの人さ、送り届けたことあるんだと」
「?」
「態々修学旅行のバスに乗り遅れた子供を似たようなSAでさ。タクシーでもあるまいし、結構離れてたから仕事先からは大目玉食らったんだとさ。何つーか、お人好しってやつなんだろ。地元のニュースになったとかって聞いたな」
「凄いですね。有名人だ。その子の旅行がダメにならなくって良かった」
「俺だったら合流とか面倒くさいし、そのまま家に帰って寝てるよ」
「……」
 
 邪険にされるかと思いきや多少の愛想はあるらしい。よく分からない人だ。一先ず話を合わせようとした矢先、少々捻くれた反応があった。この手の美談を嫌う性格をしているらしかったが、彼が自分より年上というのが何よりも解せない。この人、大人気なさ過ぎる。
 かと言ってじゃあ、判で押したような当たり障りのない文句ばかりを並べ立てられてもどうしようもない。俺は何を求めているのだろう。
 やめよう。旅行なんて所詮俺の我儘に過ぎない。彼の言う通りだった。ここで安易に誰かを頼るくらいなら一人で終わらせよう。でなきゃ始めた意味がない。彼の言った通りだ。自力以上を求めなければいくら時間がかかってもきっと何処かには着ける。思っていたより遠くまでは無理なのだろうけれど。そうして途切れた会話の気まずさを利用して、恐る恐る別れを告げようとした。改まって面と向かった彼はそれまでとは百八十度異なっていた。はっきりそうと分かったのが自分でも不思議だった。

「……あの、今止んでる、みたいですけど」
「一つ訊くけど」
「はい?」
「さっきの失恋旅行って嘘だろ」
「なんでそう思ったんですか?」
「勘」
「勘て……」
「正直言うと希望的観測。で、どっち?」
 
 当たった?とそれまでにこりともしなかった仏頂面が不敵に歪み、たじろいだ。触れられたくない部分に踏み込まれてしまいかねない圧力を秘めた口角だった。黙秘、で通せないだろうか。そうこうしている内に嘆息が聞こえてから、意図はどうあれ彼は意外にも承諾してくれた。
 
「いいよ、乗せてやる。けど一つだけ条件」
「条件」

 鸚鵡返しに訊ね返す。そこでまた彼が口端を上げた。
 
「乗ってる間は俺の言う事を素直に聞くこと。どう?」
「……それはまぁ、無理のない範囲で」
「交渉成立。それじゃあこれ鍵。先乗って待ってろ。勝手にエンジンかけんなよ」
「分かり、ました」
 
 何処をどう辿ったか、こうして俺は不用意にも救世主を得た。のだが、この救世主、もといドライバーの物集という男は全くもってそんな都合の良い存在ではなかった。
 
 





船を漕いでいた。高速道路の流れがあんまりに速くて目で追うのが億劫になるのも超えて。
路面の状態も良く、下手な変化に乏しければ自然と瞼も降りて来るというもので。

「よく寝るな」
「すみません……」

「別に良いけど」。カーステレオも聞こえない走行音の中、物集の運転に甘えて眠りかけていた。ナビは音声案内が切ってあって、地図の上で現在他の把握は出来ても今一何処をどう走っているのか曖昧に感じる。それもこれもここ数日中のどの移動手段より確実に心地の良い振動のお陰だった。電車通学していた頃を思い出せば安定した運転は通勤ラッシュに味わう苦痛なだけの時間とは雲泥の差だ。もっと荒い運転をするだろうという不安はあっさりと消えた。少なくともSAで見た横柄さとは無縁のハンドルさばきが助手席からでもよく分かる。でも小言の方は流石になくならない。そして逆らえる立場にも当然ない。今俺は同乗者というより喋る荷物だった。

「吐かれるよりはマシ」
「あでも、乗り物酔いとかしないですよ俺」
「強いの」
「本とか読んでても割と」
「うわ」
「うわって」

眠気を払う為に片手間に口を動かしているだけ、といった会話には中身なんてものはなく、ちらと窺う横顔はフロントガラスの方を向き時折ルームミラー越しに視線が動いていた。そこに映り込む車内は荒れていない程度に雑然としていつつ所々に生活感があった。長期間乗車していれば自然そうなるものだろうか。ぼんやりと殺風景な自室を思い浮かべる。捨て忘れた物は無かったろうか、と。
ETC専用ゲートを通過して数十分後、見えて来たのは寒々しい風景だった。木々の枯れた山々の横腹に口を開けたトンネルへトラックが吸い込まれると、何分と経たずに抜けた。僅かな間ではあったけれど急激な光の飽和に目の前が瞬く間に白飛びして、それまで重怠かった瞼に激痛が走る。眩しい。数十分走っても暫く目を開けられずにいた。晴れていなくて良かった、とは考えないようにしてやっとのことで目を開ける。
「あ、」
言葉が喉の奥に引っかかって、その上に物集の声が重なった。