トライボロジー

「休憩」
「もうですか?」
 
 まだ前回のSAからそう離れていない。急ぎと言っていたし、頻繁に止まっていて良いのだろうか。無理を言っている手前気にせずにいられなかった」

「この先停まらないから、今休んどくだけ」
 
  
 普通車よりも高い助手席から駐車場に降りる。県境を越えたからか、様変わりした空気に底冷えがした。季節まで跨いでしまったような吹き曝しに、古ぼけた売店と自販機がひっそりとあるだけだった。利用者は片手に収まる程で、その内トラックは彼のものだけだ。ぐるりと車体の周辺を一回りしてみる。
 荷台には○○運輸、やロジスティクス、などの大手所有社の主張強めのロゴが、所々泥はねの付いた年季の入ったシャーシと正反対の鮮やかさで刻まれている。アルミの荷室が付いている形状のトラックはアルミバンというのだそうで、屋根のないものが平ボディ式と聞いた。これは高さが限られていない分汎用性が高く小型重機なんかを運ぶのに適していて、街中でも頻繁に目にする車体だ。乗って来たものは前者だが物集はどちらも操作経験がある、と独り言のように呟いた。車が好きなのだろうと察してそれ以上は訊かなかった。訊けなかったのかも知れない。何となくそれを悔いている。やけに辺りはしんとしていて、荒涼とした空き地に一人取り残されたように漂う停滞感を踏み付ける。駐車場の砂利が靴裏を擦る。
 
 一年前にもこんな気分にさせられた。一回り年上の男がその原因。原因と一方的に呼んでいいかどうかは知らない。
 空中分解とか、そっちの方が適しているよ、と共通の知り合いは軽くあしらってくれた。確かにそうだけど、納得がいかない。けど悔いはある日、向こうから消えていった。結局都合の良いように満足したかった。これが今もって俺を悩ませている失恋の正体だ。こうして自己嫌悪に陥った挙句、暫く誰とも会いたくなくて未だ旅人紛いの自虐を続けている。全く自分探しというよりこれじゃ自分失くし、と言った感じだ。失くしたいもの。思い出とか、そんなもの。持っている実感がないのに常に両手を塞ぐもの。失恋旅行というか、失望旅行というか。何とも下らないその終着点に向かいたい所があってここまで来た。免許も持たないで、思い立った日はこれ以上ない妙案を閃いた気がしていた。愚策だったと気付くまでの儚い間だったけれど。
 
 目が合った気がした。だから何だ、と言われるとそれまでなのだが物集は人の目を見て話す人ではないように思えた。長距離のドライバーを勤め上げるタイプに、そんな偏見を持っているだけなのかも知れないが。
 
 休憩というほど自分の身体は疲弊していない。寧ろ余計な荷物を乗せてしまった分消耗するのは向こうだ。厄介なお荷物。正しくそのものだ。
 
 せっかく休憩に立ち寄ってくれたのだからと適当に足を歩かせて固まった筋を伸ばしてからトラックに戻ると、いつの間にか運転席に彼は座っていた。待たせてしまっていたようだ。慌てて乗り込むと、誰か——相手方の想像は付くだろうが——と通話中だった。通話の邪魔をしないよう乗り込んでなるべく静かにドアを閉める。車体の揺れですぐに気付いたようで、軽く会釈だけすると掌だけで返事があった。少し待て、ということらしい。大人しく待つことにする。……何というか犬のようで少々尊厳が傷む。
 
「え?ああ、少し道が混んでたんで。はい、平気です。予定通りに着きます」
 
 いくつか業務上のやり取りをしている最中聞き取れたのはそのくらいの会話だったのだが、それで思わず二度見してしまった。
 ここまで渋滞には一度でも引っかかったか?それどころか俺なんか拾ってしまえば余裕はない、とも言っていた筈だ。
 
「何」
「あ、いや」
「もう出すけど」

 簡単な嘘程裏が気になってしまう。先程の自分も、まさかこうだったのだろうか。しかもあからさまに?
 
「どしたの」
「いえ……」
 
 がっくりと項垂れる。洒落にならなさ過ぎる。隠す以前の問題だ。大人気ないとか偏見だとか、もう口が裂けても二度と言えなかった。
 
「気分悪い?」
「大丈夫です。言ったでしょ、酔っては……?」
 
 隣から手渡されたのはまだ熱いくらいのスチール缶で、表面には『生姜ラーメンスープ』という何とも厳めしい品名がある。何故生姜。何故ラーメン。おでんとかお汁粉とか、しじみ汁とか言ったのならまだ聞いたことはあるのだがこれは初めて見た。どうやら物集も同意見だったらしい。
 
「あんま見ないやつだったから」
「……毒味ですか?」
「そうとも言う」
「えぇ……?」
 
 無茶を言う。そもそも麺を缶から流し込む度胸がない。喉ごしどころか気管へ直行便なのではないだろうか。乗せてもらった手前吹き出して車内を汚すことだって有り得た。生姜好きだからボタンを押してしまった、とのことだがその場の好奇心で食べ物を買うのはどうなのだろうか。無難なものをつまらないから、と言って選ばないような質なのか。見た目からするとそこまでの下手物といった風でもないし、飲めないこともない、かも知れない。手元と横顔とを矯めつ眇めつしそこで、内容物の記載に麺はないことが分かって胸を撫で下ろす。どうやら入っているのはスープだけのようだ。ドライバーの休憩所で、危険物を売るようなことはないようだ。にしたって塩分過多なような、気にする部分が的外れか。何処で見付けて来るのだろうか、こんな物。俺なら見なかったことにして過ぎ去るに違いない。触らぬ神に祟りなし、とは先人の教訓だ。
「でなきゃ懐炉にでもしてて」
 さりげなく言って、物集がシフトレバーを操作する。多忙なドライバー達から一日に二度も奢られてしまった。それどころじゃない。悴んでいた両手の中にあった温度が一息に上がって頬にまで伝播していさえした。戸惑っているのか、俺は。

「あの、訊いてもいいですか」
「何」
「なんであんなこと……」
「あんな?」
「電話の」 
 
「この場合は社交辞令。あとそれ、かなりブーメラン」

「うぐ……」くつくつと喉の奥で笑われる。思いの外簡単に流されるとぐうの音も出ない。訊いたとしても、その時はこちらからも包み隠さず事情を言わなければフェアじゃない。こういう心理戦めいたものは得意じゃなかった。だからつまり、この流れそのものが大分不利だった。いっそのこと全て話してしまおうか。姑息だ。俺は先手を打とうとしているのだ。勝手遠慮なく踏み荒らされる前に。
 既に車道へと舞い戻った車内でセンターラインばかり睨み付けていたからだろう。どちらも正面を向いている所為で、ミラーを通してだけ交わる。口火を切ったのは物集だった。
  
「実際、あれどういうことなの」
「あ、えっと」
 
 納得させて欲しい、という眼差しを受け止めて俯く。沈黙と言うには少し騒がしい速度の間で、最も重要な、そして何よりも粗末な動機について物集は踏み込んで来た。そうなるように仕向けたんだろ、といった口振りが耳に痛い。隠し通そうとしたのは丸切りでたらめだったんだな。そうに違いない。でなきゃ、こんな余計な事人に聞かせようとしない。だから隠していた癖にいつか何処かで誰かに教えてしまうんじゃないか、いつも必ず怯えている。誰にも言わないでいるつもりでいた癖にきっと俺は自分に何にも誓えない。すぐに口を滑らせて、言わなくても良かったことに触れずにいられないままなのだろうと。
 
「本当ですよ。半分はですけど」
「半分失恋旅?」
「まぁ、はい」
 
 全く解決してない、といった顔付きになっている様子を見て安堵した。思わせ振りなもう半分の目的を明かす前に意を決する。やっぱりこんなのはフェアじゃない。物集が何か言う前に突き付けた。
 
「物集さん、実はストレートじゃないですよね」
 
 じゃなきゃあんな言い方されないという含意に物集は微動だにしなかった。しかしたった今放った一言で上昇していた温度も急降下した。明らかな確信を秘めた問いに、気のない相手ならそうして見せないような仕草の一つ一つを注視してしまう傍らで、この一言が齎したものは沈黙でも動揺でもなく至極素っ気のないものだった。
 
「それで?驚きでもした?」
「いえ。安心しました」
「安心?」
 怪訝な声音を振り払うように返す。
「俺、人に隠し事って上手く出来なくて。その、教えて貰えて安心しました」
「安心、ね。あのさ」
「はい?」
「積んだ鞄。あれ、ロープとか細いものとか入ってない?」
 
 ハンドルを切りながら物集が唐突に話題を変える。ロープ。ロープだって?一般的にバックパックの荷物といえばアウトドア用の品で、一口にロープと言ってしまえば忍ばせてありそうな物ではある。
 
「ええまぁ。緊急用に一応は」
「そう」
 そこで俺は彼の至ったであろう想像を否定した。馬鹿は休み休み言うものだから。

「ちょっと考え過ぎですよ」
 
 
 疎らに並走していた乗用車は途絶えて、上下合わせて四車線敷かれた道路はトラックのヘッドライトだけが通り過ぎて行く。街明かりも街灯もどれだけ目を凝らしても届かない夜の中だった。案内標識が一瞬照らされ、すぐに視界から外れた。窓外は黒一色になってしまって、もう前に進んでいるかどうかも分からない。そんな山道をかれこれ数十分走って来た。

「そこの地図取れる」 
 
 カーナビの指示を裏付けるように、ドアポケットに無造作に入れられた地図の奥付は数年前の記載があった。ページのよれたそれを指示の通りに広げて見せる。すると横から伸びて来た手がある箇所を指した。
 
「ここだっけ、行きたいのって」

紙の上を滑る指の頂点、その示す目的地がやっと見えて来た。地図上では森林公園とあるだけの広大な土地に。



「ありがとうございました。少ないんですけど、これガソリン代です」
「律儀」
「無茶言ったのこっちなんで。助かりました」
「そりゃどーも」
「はい、物集さんもお元気で」

癖なのだろうか。再び手だけで応えた物集はトラックに向かって行った。見送った背中は、急ぎの仕事と言っていたようだから再度振り返らないと思っていた。だが去り際に確かに見たのは、ヘッドライトを何度か点滅させて走っていく様だった。気の良い人だったな。
辿り着いた敷地を振り仰いだ。とうの森林公園の一角は時間が時間なだけに無人だった、ここから山道を登ると、小高い丘に簡素な柵が設けられただけの空間。展望台とも呼べない粗末な場所が一つある。