闇がりにぼやける視界の向こうにあるのはそんな終わりだけだ。
俺達が付き合っていた頃、無性に馬鹿をやってみたい時期があって、二人して碌に荷物も持たないでヒッチハイクをした。軽装のまま歩いて何処まで行けるか分からない猛暑の中でだ。頭が猛烈に緩かったとしか言いようがない。お陰で熱中症で搬送寸前になったとか、笑い話にもならない経験は恥ずかし過ぎて誰にも言えなかった。他にも鬱陶しい程思い出せる殆どの出来事は全て、今となっては酒の肴にもならない。その時に二人で話していた、空想上の目的地。『ここまで一緒に来れたらいいのに』と描いた終着地。
そこに今俺はいた。
結局、納得がいってないのは俺だけだ。離れた実感もまだないでいる。
なぁでも、何も居なくならなくたって良かったろ。俺だけで来たってどうしようっていうんだ。
もうあいつは戻って来ないのだ。こんな具合に端から時間をかけて二人の関係は崩れて、そしてそれだけでは終わってくれなかった、というのが顛末。何ともありふれてしまう終わり方をした。それからもう一年。たった一年前だ。決して早くなんてない。まだここに居たって何もおかしくない。でももう居ない。あいつの声がまだ耳に、視線が肌の其処此処にこびり付いているのが分かる。見渡す限りあるはずの山は暗澹たる闇の底に沈んで霞む目の前を覆う広大な夜の海は奈落の口を開けている。深く暗い谷の間に空虚な叫びが谺しては滲む。
自分を憐れんで泣きたくなかった。もっと誰かの為に泣ける人間になれるよう生きて終われたら、どれだけ幸いだったろう。どうしても出来ないのに未だに俺だけがここに立っているなんて、どうにかなりそうなくらい悔しくて押し潰されそうだった。
物集の目敏さには肝が冷えた。そういう用途でロープなんて持ち歩く趣味はない。あったとしてもかなりの重量になる。本当に人一人支えようとすれば。でもアウトドアナイフならある。肉厚ではなくて軽く、よく研いであり切れ味は申し分ない。以前何の手違いか職務質問された際に教わった。銃刀法に問われないよう危険物でないなら布を巻いたり保管に注意してすぐに刃を向けられないようにしておけばいい、と。それからは余計な面倒に巻き込まれる事もなくなった。そうして丁寧に折り畳んだ刃を翳すと何とも言えない閃きに息を呑みさえした。翻って柄を掴む指は酷く強張って開かず、僅かも緩ませようとしていなかった。固まった決意のような切先はどこまでも澄み切っている。
何時間そこに居たのか。白んだ山中に意識が溶けていた時、けたたましいクラクションが鼓膜を劈いた。がばと跳ね起きて、ぼやけた頭を浚った。展望台から見下ろす麓の公園付近に一台、見覚えのある車体が停まっていて唖然とした。おい、まさか。
僅かに逡巡してから登って来た道を駆け下りて行く。人違い、いや、車違いならいいと願って。だってこんな山奥に一台だけで来るなんておかしな話だ。知らない数字の並びであれば。ナンバーを確かめるまでもなく、誰が乗っていたかが分かってしまった。
「こん、ばんは」
「もう朝だけど」
「え、とそれじゃおはようございます……?」
再会がこんなにも気まずくて良いのだろうか。数時間前か、もしくは数日前か分からない。たその時よりもいくらか気怠げな様子だったが、あ、と咄嗟に首筋を覆う。まだ見える距離じゃない。だから落ち着け。これ以上勘付かれたら堪らない。聡い人は厄介だ。どうして戻ってしまったのだろう。どうしてその前に済ませてしまえなかったのだろう。数珠繋がりになった後悔の果てに俺はやっとのことで会話らしきものを思い出した。
「荷物、良いんですか」
「空荷だから今日は何も積んでない」
後は帰社するだけ、と呟くと長く深い息を吐いた。
「本気でやろうとしてたなら相当だなって」
「……なんで」
大仰に溜めた息を吐き出して、物集は吐き捨てるように話す。一々説明するのも億劫そうにして。
「俺の田舎が変に有名なとこにあったってだけ。やってたんだよ、時期時期にボランティアみたいなのをな」
「ボランティア?」
「声かけ。駆り出されてただけだけど、不審者探ししてた。春先とか。かなり前の話」
「ああ、そういう」
ボランティア、ボランティアか。そういった活動を耳にしたことはあった。でもそれらは著名な、それこそ樹海のような“知名度”のある周辺でだけあるものだと思っていた。成程、物集の勘はそうやって鍛えられていたという。そういう人間にとっては致命的な勘だ。尤も地元で頻発して欲しい事柄ではないだろう。身勝手さで言えばどちらも等分で、どちらにとっても迷惑極まりない。慈善活動なんかされてしまったら本当にもう立つ瀬がなくなってしまう。
「初めから目付けられてたんだなぁ、俺。なんか悔しいです」
「……」
「もしかして本当はストレートでした?話合わせてくれて、とか。うわ、そしたらなんか、すいませ」
「ゲイなのはほんと」
遮る形での自己申告は至極当然のように発せられ、追求も受け付けなかった。物集は淡々としていたが、ハンドルを握っていた時のそれとは違っていた。
「態々止めに?」
「止めるなら乗せた時に出来てたろ」
その通りだ。だから戻ったのかも知れない。俺は感謝していた。気紛れに付き合ってくれた『善人』として。
だがもう違う。
「どうしますか。俺のこと通報しますか」
猟銃を眉間に構えられている害獣がするような、殆ど威嚇に近い語調が飛び出したのには辟易する。これが人間の振りをしてよくも今まで平気な顔をしていられたものだと、我ながらどうしようもなさに一歩後退った。
「別に」
物集は威嚇を受け流すように、灯りらしい灯りもない中で言い淀むが、唐突に諦めたような顔を上げた。
「別にさ、誰が何処で有金使い果たそうが、滑落して遭難しようがいいんだけど」
「……はい」
「やめてくんない」
「え?」
「間に合わなかったら、とか急かされるの。嫌いなんだよ」
そんなことを言いに来たんじゃないんだろう。そのぎこちなさが訳もなく痛々しい。そうしてきっと、それ以上に俺は酷く憐れまれている気がした。態々送り届けてくれた人に対して、俺はこんな取り返しのつかないことを平気で出来てしまう。そういう自己都合の塊みたいな憐憫で舌が止まらない。
「感謝状でも貰えたかも知れないのに、勿体ないですね」
「あんな紙切れ欲しいか?」
「さぁ、俺には分かりません。同情、ですか」
「そう言って欲しいなら言う」
「あはは……もう、予定狂うな」
「お前の予定なんか知るかよ」
それもそうだ。起こっているのは都合の押し付け合いだけだった。なら、俺は他人を蔑ろにしてでも自分を優先して来たのなら。だったら最期まで貫かなければならなかった。
「おい‼︎」
「来ない方がいいですよ。ここちゃんと高いですから」
駐車場の端、脆い柵も崩れた崖端に立つ。一際強く吹いた谷からの風で一瞬前が見えなくなるが、確かにそこにはもう一人、息を切らした物集が居る。
「いいからほら、そこ降りろ。危ねぇから」
「今は“乗ってる間”じゃ……」
忠告を聞き入れるつもりはなかった。物集は他人をお人好しと言った。だがそれは同族嫌悪に違いない。彼は紛れもない善人だった。どう考えても奇妙な場面で口角が弛緩する。
「ほんと、いい人ですね物集さん」
「そんなん今どうでもいいだろ」
「巻き込んですみませんでした。嘘ばっかり言って……全部嘘ですよ。足の為にあんなこと言ったんだって、分かったでしょ。だから忘れて下さい。それで、見なかったことにしてくれませんか。お願いします」
何だがとてつもなく場違いなことを言っている自覚はあった。見逃して欲しい、と頭を下げる姿を物集は注視している。何をどう言い繕うにしても一歩でも動いたら飛びかかられそうな視線からどうにかして逃れようとしていた俺は、ならば追い討ちとばかりに咄嗟に持っていた刃を喉元に向けた。これなら一歩も近付けさせずに済む。そう確信していた。
「っっっ⁈」
握り締めた手元に突然鈍い痛みが走り、僅かに蹌踉めく。その隙を突いた物集が動いて、そして厳めしい文字列が視界の端で転がっていった。
「え、これ……?」
「当たり」
「は、……ははははははっ‼︎——あーあ……」
持って降りなかったのだろうそれは、まだ蓋も開かれない、中身を保ったままの缶。投げ付けられた衝撃でナイフを取り落とした手が微かに震えていた。ああ、ちゃんと毒味して空にしておけば良かったな。
「いいなぁ……物集さんはいいなぁ……なんで俺じゃなかったんだろう……なんで……っ」
何のことか分かりっこないだろうに、物集はへたり込んで動こうとしない俺の傍らにいてくれた。田舎がそうだと教えてくれたのだ。こういった手の話に付き合い慣れていたのかも知れない。一体何人の相手をしたのだろう。根気よく耳を傾けた後で、はっきりと断言する。
「タイミングじゃないの」
「ですよね……分かってるけど」
「納得いかない?」
「……はい」
友人は元々物集の言うような同性愛者だった。俺がストレートであるのは承知して始まった関係だけに、楽観的なだけじゃない展開が訪れるのが早かったのだ。それでも関係は続くと何処かで見過ごした綻びが、とうとう切れた瞬間があった。それが丁度去年頃に訪れた。それだけの話。
「あの、訊いていいですか」
「いいよ」
「ストレートって、ゲイを好きになったら駄目なんですか?」
俺にはその所為で、あいつを踏み躙ったような気がずっと付き纏っていた。最初からおかしな関係だったなら、こうなる前に手は打てたのに。それだけが悔しい。悔しくて、いてもたってもいられなくなる。あいつは逃げたのだ。
「さぁ。でもノンケが嫌だってんなら最初から手出さない方がいいだろ。少なくとも俺はそうするし、そうだった」
「そう、ですか……」
「言っても、大抵そんなの綺麗事だけど」
「え?」
「止められるんなら世話ねぇよ、ってこと」
年上風を態とらしく吹かせながら、俺を引き起こすと乱雑に先導する。痛いくらいに手を握られたらもう逃げようにも出来ない。どうやら離してくれるつもりはないらしい。
「送ってやるから乗れ。んでもう変なことすんな。次やったらマジで警察呼ぶ」
「それはいやだなぁ」
ゆっくりと、多分どちらともにそうなるように向き直った頃、遠くの山肌を東雲色が覆っていった。
「ほんとに朝だったんですね」
「お前何時間いたの」
「憶えてないです」
「冷えてる」
「そんなことないですよ、雪なんか残ってなかったし」
事実固く極度に握り締めた手は蒼白し血の気が失せていて、部分的には確かに冷え切っていたかも知れない。突飛な言動を経て尚、物集という人は生来の心配性故か、中々信用には至らなかった。尤も偽ってまで利用された方からすれば——脅迫された方からすれば無理からぬ話だった。
それなら、それなら。
「あの」
「何」
「どうして乗せてくれたのか、訊いてもいいですか」
止せばいいのに、腹癒せを装ってしまう。まるで態とらしい。まるで振り回された末の意気地のない報復めいて聞こえたろう。ボランティアの経緯を引くなら、目的地を聞いたらそこに導いては絶対にならない。下手をすると幇助に問われるかも知れない一件から物集が手を引かなかった訳、綺麗事を吐き捨てるような人。その訳に踏み込む。すると路面と足裏の間で砂利が鳴る。
「一人目」
「……?」
「俺が昔よく見たのはほぼ全部終わってた。大抵は事後処理ばっかりしてたって話。だからちゃんと止めたのはお前で一人目。
どうせやるならもっと上手くやれよ。どいつもこいつも誰にも止めさせないなら必要ないだろ、間に合わないなら。
っていう、それで気晴らしにドライブなんかした程度でお前のそれが変わるもんなのかどうか知りたかっただけ。
これでもまだ“いい人”?」
「……本人に聞かせたりしたら、やっぱりいい人ですよ。物集さんは」
不機嫌そうにな彼にとってはきっと善良さを評するのは禁句なのだろう。見ず知らずの俺なんかを乗せて、奢るような人の何が悪なのか。止められないのは物集の責じゃない。だから『お前は悪くない』が欲しいだけの悪ぶった幼稚な人でないことくらい、分かる。なのに僅か口走りそうになって、歪な形のまま言葉は凝固する。俺は今、この人と話していて良いのだろうか。こんな俺が。けれども物集から目を逸らすことは出来ない。
「ほんとは何するつもりだったの、こんなとこまで来て」
「要らない気がしたんです。あいつが望まない俺の、全部が。だって、分からないままだった。俺はあいつが勝手に逃げたって、思い込んでたのに……もしかしたら、俺が好きになったから一人にしたんじゃないかって、追い詰めてたなら——」
「……うん」
許せない。あいつ以上に、この生があることが許せずに、諦め悪く断ち切れもしていない。
「一緒に来れたら、あいつここから朝が見たいって言ったんですよ。普通朝焼けとか、朝日って言うでしょ。だから……っでも一人じゃ、何にも見えない……‼︎」
あるのはずっと先まで続く深い谷と、底なしの誘いだけだった。何も見えやしない。爪先が映る視界に点々と染みが増えていくのを見まいとして、物集から距離を取る。その時染みの上に影が差し掛かる。
「物集さ、」
「今納得いかないことを、無理に繕わない方がいいんじゃないの。そのままにしておけないっていうなら、見えないっていうなら、また来れば。そんで次も同じならまた来て、先延ばしにしていけば」
「どのくらいかかるんですか、それって」
「さぁね」