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◼︎ピュクシス

 ぱきん、と弾ける。 割れる。
 盲目と憐憫とに脅かされて 砕けてしまう。一欠片を残さず、温く溶け出した。抗いもせず、無慈悲に歯を立てる。

 が゛りん

顎から伝わる感覚は、凡そ不愉快な感傷を挽き砕く振り子の様に何度も何度も、噛み砕いては喉の奥が冷えていく。凍えて、声が凍ってしまうまでひたすら砕く、砕く。
叫びが聞こえていかぬよう、蓋をする。開かれてはならない災厄に、手をかけてはならないと固く誓って。きっと、底に残されるものは希望の猿真似をした悪夢に過ぎなかった。
なのに夢を壊したのは、紛れもないその熱だった。

轢死

 しくじった
 しくじった。

 「あらら、結構やったなぁ」
 「大丈夫だろ、多分」

 「おい、骨折れてないよな?」

 下らない会話が頭上から降り注ぐ。どうせその上からまた新たに築き上げる色鮮やかな傷のお陰で、そんなもの杞憂だと知れ。それで満足いくまで嗤え。

 「ぶっは、折っちゃダメなのに焼くのはいいのかよっ」
 「根性焼きぐらいなら良いんじゃねぇの」

 泥塗れの靴が醜く切り揃えられた髪を踏み躙る。冗談じゃない。あれは煙草じゃなかった。
 あんなもの焼鏝だ。小火寸止めの火で炙った鉄パイプで殴るのは、こいつらにしたら根性焼きと言うらしい。成程一つ賢くなった。だからその足をどけ「何処見てんだよおい」今度は髪を引っ掴まれ、同時に盛り上がる観客席。
 中にはそいつらのツレのツレというような奴らも混ざっていた。鬱陶しい、消えろよ。

 「生きてんすかコレ?」
 「さぁ?死んで困る様な奴が殺されるわけないだろ、こんなとこで」
 「違いねぇ」
 「やめとけよ、まだ売れる。傷物にすんな」
 「テメェはその腐った目ん玉でも売ってろカス」
 「は?殺されてぇのかクソ野郎」
 「っはははは、じゃ俺内蔵貰うけど良いよな?」

 後から後から後から、蛆虫が湧いてくる。うじゃうじゃわらわら。これは何の茶番だったっけ?昨夜観た夢の続きが、視界の端にちらつき始める。
 ああそうだった。あの夢か。
 続きはもう見れそうにないけれど。

 「 黙れ 」

 ああ、来た。主賓の登場だ。主役の登場に、乱雑に掴まれていた頭は無造作に地面に叩きつけられた。何処かで何かが切れた音がした。

 「ああ? ……っんだよ、おいどの面下げて来てんだてめー」

 観衆の一人が詰め寄る。ながらも、その態度に悪意や威圧の気配は微塵もこもらない。遅刻した友人を咎める程度のそれは挨拶の役割すら勤めていて感心する。
 此方が同じことを吐いてもこうはいかない。少なくとも、殺意以外を込めずには出来ない。

 「おい——起きろ」

 寝てる訳が無いのに、起きられる訳ないのに。
 そう言う奴は横たわった脇腹を蹴り上げる。肺に空気が詰まって、けたたましくなる観客はいよいよ最高潮の様相を呈している。頭がガンガンとがなり立て続けていて真面に脳が働かない。

 「死んだんじゃね?さっき誰か殴ってたし」
 「じゃあ穴にでも突っ込んどけ」
 「流石にそれはねぇわ」

 軽々しく宣うそれ達が笑ってる。口々に、泡が吹くようにぼこり、ぼこりと聞こえる、湧く

 ——してるの

 声が

 ……声?

 だれ

 「あ?」

 奴の声がまた一際低くなった。それだけで辺りは静まり返る。
 一瞬、飛びかけていた、嘘みたいに、夢のような一瞬が霧散して、引き戻される。口の中は鉄の味塗れで、意図せず眉間の皺を深くする。冗談だっての、と嘯く男の声は震えていて先程の軽口とは正反対に怯えているのが分かる。釣果を囃し立てていた連中は皆、既に目すら合わせようとはしない。実際、男の声には訳もなく人をねじ伏せる圧があった。

 例えば人はそれを神と崇め俺もそいつを人とは呼ばない。

 口数の極端に少ない奴、という印象しかなかったその男が今や王様気取りの支配者面をぶら下げて芋虫のように蹲り呻く自分を睥睨する。睨め回されている様な感覚に、コンクリートに顔を埋める。砂利と小石が肌を削った。

 見るな
 そんな目で、俺を見るな。

 「……後はいい。失せろ」

 男の発したそれは命令でも指示でもなく、歴然とした遂行文だった。男が放った意味は、常に実行を伴わなければならない。拒めば、

「おいおい、礼もなしかよ?偶には分前の一割や二割くらい—— 」

 あ

  周囲が悟った瞬間と空気の裂ける音がしたのは、もう殆ど同時の出来事だった。男の手によって、灰色の景色に色彩が増やされた。

 「ひゅぇぅッ 」

 とても奇妙な鳴声と共に、出来あがったのは一つの残骸。

 人だった筈の何かの、残り滓、肉塊。

 目の前で弾けた人の塊が、無彩色の瓦礫の上に飛散し一帯を鮮やかに染め上げた。
 べちゃり、と赤い水溜りに力なく腕が落ちてぱっくりと裂けた喉頭の奥から絶えず赤い泡をボコボコと吹き出しながら、緩慢に地面を濡らすそれを、ただ見ていた。
 俺も、男も。温く、赤に染まっていくその世界を。

 「わっ、悪いこいつ新入で」「っの馬鹿、おい行くぞ——」

 誰かが誰かに自身の為に謝って、そして人の波は引いていく。遠くなる足音の後、遅れて鼓膜を揺らしたのは金属の落ちる硬質で不快な音。

 「っ……、はは、」

 ざり、ざりっ、と一歩ずつ、断頭台が近づいて来る。
 手から取り落としたらしい大振りのナイフを男が拾い上げる。屈み、再びそのギラついた双眸が現れる。それから、掌に収まっていたナイフが次に此方に刃を向けた時には何の迷いもなく本能的に目を瞑っていた。
 ダンッ‼︎
 「避けんなよ……なぁ?」

 男が先程ギャラリーに見せつけていた人形めいた無表情は完全に消え去り、今や口角を吊り上げて笑ってる。

 見上げる男の顔が、すぐ近くにある。
 突き刺さる。貫かれている。
 倒れ伏した、人だったものの腕が。振り下ろされたナイフの生贄は男へ、称賛の拍手代わりにとまだ温度の失われない血を流した。だくだくと頬に、額に、瞼の裏に。人の血という血が、べったりと肌を覆う。
 何がおかしいのか、この獣は屍肉から溢れた赤を見て笑みを深くする。

 「はっ、っっは、」

 態となのか、それとも偶然なのかは分からない。狙いを外した殺意が、ずっ、ずっ と引き抜かれるのに合わせて肉が蠢く。切り捨てられた蜥蜴の尾に似た動きで。まだ生きている。まさか、そんなはずはない。
 蹲る俺は、切られてもいないのに殆ど呼吸らしい呼吸もままならないというのに。このまま放って置けば簡単に、呆気なく手放してしまえそうだというのに。
 瞼が、唇が、痙攣して声なんて出てこない。

 人語を解す筈のない犬が、舌を突き出して喘ぐ姿とどこにも違いなんてなかった。
 男はそれを見て、何処かつまらなさそうに鼻を鳴らした。呆れるか見限ったかにも見える仕草の後に、徐に腕の拘束に手を掛ける。

 「……っ……⁈」

 目を白黒させている俺を他所に、きつく戒められていた腕が解放され、身体の上半分だけが自由になる。
 そして動かせる方の左腕を、まるでまな板に食材を乗せるように掌を上にし、俺の顔の横で抑えつけ始める。想像に、怖気が走った。
 やめろ やめてくれ
 男の口角が再び弧を描き、歪む。今から何をするのか当ててみろと、そんな風に。あてがわれるナイフの腹に、怯えた表情が反射している。鋒の数ミリ先にある肌は、まだ肌色のまま

「ゃっめ……、っぃ……‼︎」

 やっとのことで搾り出した懇願は全く意味を為すことなく

 「——セーフ」

 ぎゃりり
 ナイフの引き抜かれる音が耳のすぐ脇で聞こえる。ふっ、と空気の緩む感覚がしたと思えば、
 ダンッ‼︎

 「セーフ」

 三度目の死刑宣告を免れ、思考の失いかけていた頭が思い出す。
 男がしていたのは、 ナイフ・フィンガーゲームだった。自らの手を自らナイフで勢いよく突き刺す。勿論視線は的へと向けたまま。そして指と指の間へとナイフが刺さらなければ。眩暈のするそんなゲームを男は今俺の腕でやっている。焦点が合わない。舌の根も、歯の根も合わない。思わず、男の目を真正面から見上げてしまう。何を映してもいない。網膜が焼付けるに従って捉えた男の瞳は只澄んでいた。

 ダンっっ‼︎‼︎‼︎‼︎

 「ごっ…… あっぁ、‼︎」

 何処からか酷く醜悪な呻きがして 体を襲う衝撃に視界が白飛びする。
 今度こそ、銀色の先端が肉に突き刺さる。骨を過ぎ掻き分けて刃は身体を過ぎて行く。男の殺意が捩じ込まれる。

 「アウト」
 
 舌を噛み千切りそうになる痛みに目の奥が白む。カメレオンのように、瞳孔が別々の方向を向いてしまったような、分離していく世界に胃液が込み上げる。柄を握り込んだ指がゆっくりと弛み、そして力の込め直されたナイフが抜かれ、突き刺した手を離れて行く。肉を貫いた鈍色を見る暇も、なかった。

 段々と感覚も失われていく左手に、体温が
 男の唇の感触がした。

 いしてるの

 主君に忠誠を誓うように指先を取る、愚直な祈りを捧げ跪坐くのに似ている。

 「…… っぇ、」
 
 だから気付けなかった。気付けなかった。

 腕を引っ張り上げられ、自分の視線が急激に高くなった事も。取られた手を再び刺し貫いた赤黒いナイフが、今度は男の心臓ごと深く、深くその肉を抉った事にも。瞬きをする暇も与えられない束の間に。
 指と指の隙間を伝う、まだ温かい濡れた感覚もまるで現実味のない風景。

 「 っっっ⁈」

 己が心臓を貫き尚、男は笑みを崩さないまま白くなっていく唇から鮮やかな血液を零して笑っている。まるで壊れたラジオのように。

 「はは はは は 」

 なんだ これは

 温かい。まだ血に 温度がある。
 ぬぢゃ、 と不愉快な感触を知覚するより早く

 けたたましい轟音と共に、牢獄の檻が閉じ切られる。

 耳鳴がして

「たす かった、消えた だろ」

 
 だれがだろう
 なにがだろう。

「女の こえ 」

「……え?」

 男の答えを聞いてもそれが崩折れて赤い水溜りに沈んでも
 

 ——いしてるの

 耳の奥で 影の隙間から残響する声が 薄れて消えて無くなることは、なかった。

言えない傷

 歯ブラシと剃刀

 「……いった」

 嘘だ。いくら何でも。疑ってみても目の前の鏡に映る顔にはあってはならない赤い線が一本。
 プラスチックの黄色いコップの中から覗く歯ブラシ。手には、柄の色のよく似た、もう錆び付いてしまった剃刀。切れた唇をひと舐めして嘆息する。
 一体いつこんな所に紛れ込ませてしまったのだろう。ひとりでに、剃刀が歩いて来るはずも無いのに。ずぼらで通せる筈もない失態。

 「あー……」

 早朝からうんざりした。やっと治ったと思い込んで、爪を掛けたら開いてしまった古傷みたいに、だらだらと諦め悪く尾を引いて不快な感触だけを残していく。

 風邪で押し通せば良い。花粉症の時期もとうに季節を跨いでしまったのに、こんな日にマスクだなんてとこの際笑われてもいい。触れられる訳にはいかない。

 どうか治るまでの間だけでも消えてくれないかと願う。がまさか叶う訳もなく玄関の先に欠伸をしながら立つ背中を忌々しく睨んだ。

 「あ、おはよ」

 不審を抱かれるより早く目の前を通り過ぎる。後ろから聞こえる制止の声にも振り返らず足早に歩く。「珍しいなぁ」と惚けた真似をかます奴に腹が立つ。
 やがて、遂には。どう足掻いても埋まらないリーチの所為で追い付かれてしまった。
 
 「一限なんだったっけ?現国?」
 「英語。そっちは」
 「忘れた」
 「忘れんなよ……つーか教科書、あれ貸したのいつだよ、返せ」
 「それも忘れた」
 「お前な……」

 時間を余らせてまで待ってる暇があるなら取りに帰れよと言い掛けて、歯噛みした。理由なんて知ってるんだ。
 あの剃刀だって、捨てたと思っていたんだ。なのに、今朝に限って出てきやがって。

 「悪い。また明日持って来る」
 
 聞かないの、と言い掛けて、それも辞めた。
 聞かないでいてくれる、と知ることがどうしても躊躇われたから。
 
 「あ、そうだ」
 「?」
 
 不気味なくらい空っぽな鞄を漁り出して、何かを取り出す。
 
 「じゃーん。お揃い」

 渾身のドヤ顔へ、白ではないやたら派手な柄のそれを付けて笑っているらしい。口元は見えない。

 「花粉症ってなー」

 いかにも読んでますと言わんばかりの面を殴りつけてやりたい。むかつく。やっぱり顔が隠れていて良かった。

「そのままベッド送りにしてやりたい」
「それはどういう意……」
「まんまに決まってんだろ!」

 「俺のこと好きなの」
 「どっちかっつーと嫌いだけど」

 墓場まで持って行ける自信はない。
 当然、曝け出し過ぎるお前と比べてくれるな。

 「……よく抱けるな」

 人で無し。心底呆れた後 自虐する口元。
 こんな時間まで付き合ってやってんのにその口振りはない。そんな話を平気な面下げて、眇めた目が夜の帳に向く。

 「女には困ってないのに」
 「お前さ」

 躊躇いがちに言い淀んだ言葉が失速していった。
 分からせようとは思ってないから、別段それは構うことじゃないけれど最終的に出たのは吐き棄てた様な一言。

 「シツコイ」

 僅かに振れた頭が項垂れる。項垂れて、弱々しいそれがする。

「……そう言われてもさ、別に何ともないのに、なぁ」

 呟いた 「しんど」と入れ替わりに吐き出された嘆息に紫煙が溶ける。煙を目で追い掛けてしまえば顔は見えない。紛れてしまうから染め過ぎて傷んだ頭を掻き混ぜた。

 「代わりに使っておいてよく言う」

 敢えて禁句を踏み抜いて行く。今日は駄目だ。最低。不味くなる一方のハイライトを灰皿に押し付けて笑う。逃げられる前から 追い掛けることしか頭にないんだ。そんなんじゃ捕まるもんも捕まえられないのに?

 「るさい」「そうかよ」

 散らかされた衣服を拾い集めて年寄り染みた口調が変わって、不貞腐れる狡い奴を横目に 部屋を出て行く。

 「……今更、面倒くさくなんなよなぁ」

 最後の呟きだけはしっかり聞き逃した振りをして。
 こっちの台詞なんだよ。

 閉め切った扉の向こうじゃ、今更後悔してんだろうな。あいつにはそれで良いんだ。俺は慈悲深くないし、懺悔も聞かない。横着してんなよ。優しくも甘くもしてやれないんだから。慰めて叱ってなんかやらない。手放せないくらいの温い関係なら 墓場まで誰にも知られなくていい。お前は知らなくて構わないよ。でも気付いて知ったなら、そん時が最期だ。そん時は言うよ。耳塞いでても 無理矢理捻じ込んでやるから逃げ切れると思うなよ。

後先

 『「無関心」でいてあげるんだから、騒がないでよ』

 殺意より強い感情は湧かなかった。殺したくはならない。只死んで欲しいという冷ややかで他人行儀な諦念を抱く。視界からではなく、存在毎無くなって下さいと。蝿を手で払う様な、倦んだ感覚。
 動機は、幼稚な話だ。精神を病んで薬漬けの兄。その「友人」だった彼らが言った。それだけ。
 兄から彼らを友人だと聞いた事はただの一度も無かったけれども。原因を察する事は出来た。
 無関心?
 誰が、どの口で。言うのだろう。都合の良い台詞だなぁ。
 醜悪な好奇心でも、他人に興味を抱いたら無関心になんかならないというのに。
 非なんて何処にもない。当然だ。何故なら誰も自覚してなどいないから。問い詰めた所で何の意味もない。馬鹿馬鹿しい話だった。
 「そうでしょ、兄貴」
 
 可哀想に。
 何の意味もない、浮薄な言葉。何の感慨も抱けない。
 ボロボロになり深爪気味になった指に黄ばんだ歯を突き立てブツブツと日がな何事かを呟いている、丸まった背中に笑いかける。何処の誰も、笑えるくらい平易で同じ事しかしないのだなと、淡白な感想は暗い部屋に溶ける。
 つまらないね、皆。誰も彼も。そうとしか感じられない自分も。一向に減らない処方箋を床から拾い上げた。

 「今日の薬はいいの?」

 砕けたコップの破片が足に刺さる。

 「……要らない」

 くぐもった声は心無しか眠そうだ。昨日も寝ていないようだった。当たり前か。

 「でも飲まないと」

 直ぐ背後で新しくガラスの砕ける音がする。続けて聞き飽きた怒声。

 「欲しくない」
 「これ以上悪くなりたいの?」

 半ば詰問する様に言ってみても兄はこちらを振り返りさえしない。状況判断、存在の有無。
 損ねすら、最早出来ない。

「ならないよ、もう」

 どうせ飲んでも変わらないだろうなんて分かり切ってるよ、そんな感じ。
 諦めではなく何と言えば、この下らない感情を形に出来る?至極単純な捌け口。この心。空になった言葉。

 「何?」
 「いや。なんでもないよ」

 でもやっぱり、悪くはなるんだよ、兄貴の所為で

 俺達の所為で、周りが。
 大概、血の繋がった兄弟なのだなと感じるのはこういう時。無関心だから。自分にも、周りにも
 興味が無いのだ、生来から。気にもならないし正直関心もない。大抵それが誰かにバレた時、こういう事になるのだ。何て分かりやすい踏み絵だろう。飽きないのだろうな。同じことばかりで。皆。

 「ほら、早く風呂入らないとまた騒がれるよ」

 緩く手を差し伸べる。

 「ん、」

 億劫そうに立ち上がる。すると掻き傷塗れで酷く頼りなく細い脚が縺れて、兄の手が空を切った。
 ドタン、がシャンと騒々しくすっ転び、散らかったままだった硝子が右眼に刺さったようだ。慌てた様に目元を覆う兄。それを眺めている自分。

 秒針が白々しく進む音がする。

 「痛い?」

 凡そ人らしくはなく
 しかし傍観していた人間によく似合う台詞を掛けた。

 「痛い、前、見えない」
 「……そう」

 余程大きい破片でも刺さったのか、覆いの手は赤く染まっている。失明したかな。どうせ片目だ。それに。

 「多分兄貴は片方見えないくらいで丁度いいよ」
 「そうかな」
 「うん。だから風呂行こう?早く綺麗にしよ。血があると煩いから」

 何がだからなのか、誰もが考えようとはしない。
 バタンガシャン、遠くでけたたましく扉が閉まる。煩い。

「見えないから、足元」
「はいはい」

 垢だらけの手を取って、薄暗がりの廊下を導く。前は一カ月空けたこともあったから、それよりはまだマシだろうと言い聞かせる。

 「傷、見せて」「あー」

 奇声を発しながら凭れ掛る兄。 重い、これじゃ傷が診られないのに、始めから怪我などしていなかの様な反応に頬が緩む。大丈夫だ。今日も健全に壊滅的な兄で。安心しているのは、そんな手遅れで浅はかな本能。

 「……お前もどっか、怪我したの」
 「どうして?」「痛い?」
 「痛くないよ、何処も」
 「そう」

 「……うん」

 首を傾げる仕草は何処かあざとく、消毒する手を止めそうになったけれど、我慢して。取り敢えずガーゼをしたけど、大分不恰好になった。応急処置だから早くどうにかしないとな、と頭の物覚えの悪い部分で考える。

 「終わったよ」
 「ん」
 「このまま入って。滲みるかもだけど」
 「もう痛くないからいいよ」

 凄いね、兄貴は。

 「ならもっと痛い事する?」

 ふらふらと彷徨っていた視線が刺さる。どうだろう。勘違いならいいけど
 少し期待していそうな瞳に自分が映っている。
 何それ。何のつもりだよ。

 「好きにすれば」

 あ、そんなこと言う?

 「じゃ、先入っててよ。色々持って来るからさ」
 「……何すんの?」

 ひーみつ、とはぐらかして、目当ての物を探しに脱衣所を出た。
 自室、兄の部屋、クローゼットの奥、そして台所。「まだぁ?」、と幾分明るい声に、

 「今戻るから」

 ゆっくりと、血以外の何かを流す生の死骸。
ぴったりだなぁなんて自賛しながら、早足で戻る。
後先の知れない関係に酔いながら。

截断日記

 『昨日のメニューは?』
 
 随分と巫山戯た言い回しだった。深呼吸を挟んで言われた通りの手順で瞼を閉じる。

 「……糸鋸」

 『鋸?』

 話し掛けて噤んだ唇が急速に乾いて千切れそうになる。思い切って話し出さなかった事を悔いた。

 「誰だか分からない。その誰だかの、足を、切るんだ。
 相手、は泣きも喚きもしないから 鋸がどんどん深いとこまで沈んでって、それを、他人事みたいに眺めてる。切って、いるのは俺だけど……そんな夢」

 吃音混じりの聞くに耐えない話に受話越しの男は黙って耳を傾けていた。或いは、聞き流していただけなのかも知れない。それならそれでいいと思った。

 『誰だったんだか判らなかったの。相手』

 「知らない。俺も相手もガキの頃みたいになってたから」

『……へぇ。貴方の小さい頃って、興味ある』
「俺はないよ」
『華奢だった?』
「鍛えてたよ。それなりに」

  『鋸の大きさは』

 「知らない……でもガキの手には余る大きさだった」

 『切った足は』

 「断面が 断面 か、ら」

 あれ。どうだったんだろう。
 先程見たばかりだというのに、既に曖昧さを伴い出した夢に吐き気がする。裁断された足は、それからどうしたんだったか。

 思い出せ でないと また。

 『覚えてないならいい。思い出したらまたかけて』
 「—— 、っぁ ま——」

  ツ——————————————

 「起きて。時間だ」

  白い天井白い壁。    
 なんだっけ、此処。嗅ぎ慣れた匂いが近づいて来る。

 「意識が混濁しています」

 おかしいな。まだ目が覚めないままなのか。もう眠ってはいないのに。

 「おはよう。‪今朝の‬メニューはどうだった?」

 酷く巫山戯た言い回しだった。

 辛うじて動かせる首を、左右に振る。

 「そうか。それは残念だ。そうだね……次はどんな夢が見たい?」

 にこりと微笑んで訊ねる男の顔は、逆光で見えない。切り取られた様に、ぽっかり穴のように口を開けた暗闇が、顔目掛けて近づいて来る。
 近付いてい く   。

 「ぅゔぅぅぁぁぁぁァァァァアアアアアァァァァアアアアアア‼︎‼︎」

  『大丈夫?』

 「なんでもない。すこし吐いただけだ」

 『そう? 無理しても仕方ないよ』
 「分かってるよ 」
 『聞き飽きたなぁ、それも』

  受話越しの声は、いつもより退屈そうに間延びしていた。

 「日記でも付けようか。いつ何を話さなかったか忘れないように」

『……おすすめしないかな それは』