「なぁ」
ハッとして我に帰る。床一面にばら撒かれたそれをみて頭痛がした。
「……悪い」
「いいよ。片付ける」
まただ。爪先から背筋に駆け上がる悪寒の波に飲まれそうになって、その光景から目を背ける。
昨日の言葉は何だったのか。何度でも繰り返す。何度綴じても開いてしまう。誰も読み返したくなんてないと解っているのにだ。どうしたらいいのかなんて問いはとうの昔に焼き切れていた。
「ねぇ」
肩が震える。一言一言に針が纏わり付いてでもいるみたいに、鼓膜に触れた瞬間に痛みが走る指先を見る。馬鹿馬鹿しい。指に走る痛みはこいつの所為なんかじゃない。強く握り込み過ぎた拳に堪え兼ねた掌が悲鳴を上げているだけだ。
これじゃ刑を待つ囚人と違いがない。
目の前に在るのは縄でも奈落でもないのに、それでも恐怖が拭えない。
痛い。怖い。何も落としたくない。欠けたくない。なのに崩れていく。元からそうであったように。
「手、出して」
ささくれと火傷に覆われた汚らしい手を恐る恐る差し出す。断頭台に首を預ける時の様な、ありもしない気配に歯の根が合わなくなる。
「また伸ばしっぱなしにしてんじゃん」
指の腹を過ぎ、節と節を絡め合わせる。その手は余りにも傷一つ無く、切る隙を失った棘が矛先を変える前に、離れようと肩を押した。
「切りなよ。危ない」
そうだ。だから離れたいんだ。危ないという認識があって尚近付こうとするなら、止めなければならない。なのに、手が届く範囲に入って来てそんなことを言うのは最早傲慢ですらない。
「爪切りあったよな。何処だっけ」
「…………ごめん 」
何に謝っているのだろう。探しても見つからない事は知っている。それでも、もうこれ以上欠けたく無くて足掻いた。
「ダメ。 折れたら怪我する」
いやだ。どうして、もう放って置いて欲しいのに聞き分けがないのはどっちなんだ。それに怪我ならもうしてる。自分で焼いた皮膚。搔き壊した瘡蓋。繋ぎ止め切れない十二時の針。
早く朝になってくれ。そうしたら、こんな呪いは解けて無くなる。何も落としてなんていないのだから、見つけになんて来られる筈がないのだ。
「……なぁ、あのさ」
「ん?」
「靴、あん時の」
「どの時」
「大昔」
「そんなに前じゃないだろ」
「……覚えてんなら」
「用水路に投げられたやつ?」
「そう」
そう。あの時、俺の靴は二度と地の上を歩けなくされた。
「まだ根に持ってたりとかそういう話?」
「違う」
違う。そんなんじゃない。奪われてボロボロにされた靴の事はどうでもいい。大差のない事なのかも知れないけれど。もう俺は真面に歩く可能性すら既に落としてしまったのだけは確かだ。
そこら中にぶち撒けた硝子の破片が今度は足に刺さって、身動なんて取れる訳がないのに、これ以上何を差し出したら気が済むんだ。
「運が良かっただけだよ」
「……運?」
「はい、手貸して」
いつの間にか探し当てたらしい爪切りを手に腕を取られる。羽交締めという格好だ。
「ちょ、」
「こうでもしないと大人しくならないだろ」
獣医か何かのように扱われると、ああ俺は動物なのだと思い知る。爪の切り方も知らない。呆れ顔も見飽きてしまった。不健全な、不毛な、不寛容な俺ばかりが馬鹿を見ている。
「拾ったもん勝ちだよな」
「なんだよ、それ」
「靴の話」
一向に要領を得ないながら手際良く刃が爪先を切り落としていく。残骸が敷いた紙の上にぱらぱらと降り積もる。
「偶々拾えた俺は運が良かったなってこと」
何が偶々なものだろうか。余程の物好きな癖して。
「触られたくないならそのままにしなきゃいいのに」
それはそうだけど、俺の爪なんて気にするのはお前くらいだろ、とは言えなかった。