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サンドリヨンの爪

 「なぁ」

 ハッとして我に帰る。床一面にばら撒かれたそれをみて頭痛がした。

 「…​…​悪い」
 「いいよ。片付ける」

 まただ。爪先から背筋に駆け上がる悪寒の波に飲まれそうになって、その光景から目を背ける。
 昨日の言葉は何だったのか。何度でも繰り返す。何度綴じても開いてしまう。誰も読み返したくなんてないと解っているのにだ。どうしたらいいのかなんて問いはとうの昔に焼き切れていた。

  「ねぇ」

 肩が震える。一言一言に針が纏わり付いてでもいるみたいに、鼓膜に触れた瞬間に痛みが走る指先を見る。馬鹿馬鹿しい。指に走る痛みはこいつの所為なんかじゃない。強く握り込み過ぎた拳に堪え兼ねた掌が悲鳴を上げているだけだ。

 これじゃ刑を待つ囚人と違いがない。
 目の前に在るのは縄でも奈落でもないのに、それでも恐怖が拭えない。
 痛い。怖い。何も落としたくない。欠けたくない。なのに崩れていく。元からそうであったように。

 「手、出して」

 ささくれと火傷に覆われた汚らしい手を恐る恐る差し出す。断頭台に首を預ける時の様な、ありもしない気配に歯の根が合わなくなる。

 「また伸ばしっぱなしにしてんじゃん」

 指の腹を過ぎ、節と節を絡め合わせる。その手は余りにも傷一つ無く、切る隙を失った棘が矛先を変える前に、離れようと肩を押した。

 「切りなよ。危ない」

 そうだ。だから離れたいんだ。危ないという認識があって尚近付こうとするなら、止めなければならない。なのに、手が届く範囲に入って来てそんなことを言うのは最早傲慢ですらない。

 「爪切りあったよな。何処だっけ」
 「…​…​…​…​ごめん 」

 何に謝っているのだろう。探しても見つからない事は知っている。それでも、もうこれ以上欠けたく無くて足掻いた。

 「ダメ。 折れたら怪我する」

 いやだ。どうして、もう放って置いて欲しいのに聞き分けがないのはどっちなんだ。それに怪我ならもうしてる。自分で焼いた皮膚。搔き壊した瘡蓋。繋ぎ止め切れない十二時の針。
 早く朝になってくれ。そうしたら、こんな呪いは解けて無くなる。何も落としてなんていないのだから、見つけになんて来られる筈がないのだ。

 「……なぁ、あのさ」

 「ん?」
 「靴、あん時の」
 「どの時」
 「大昔」
 「そんなに前じゃないだろ」
 「…​…​覚えてんなら」
 「用水路に投げられたやつ?」

 「そう」

 そう。あの時、俺の靴は二度と地の上を歩けなくされた。

 「まだ根に持ってたりとかそういう話?」
 「違う」

 違う。そんなんじゃない。奪われてボロボロにされた靴の事はどうでもいい。大差のない事なのかも知れないけれど。もう俺は真面に歩く可能性すら既に落としてしまったのだけは確かだ。
 そこら中にぶち撒けた硝子の破片が今度は足に刺さって、身動なんて取れる訳がないのに、これ以上何を差し出したら気が済むんだ。

 「運が良かっただけだよ」

 「…​…​運?」
 「はい、手貸して」

 いつの間にか探し当てたらしい爪切りを手に腕を取られる。羽交締めという格好だ。

 「ちょ、」
 「こうでもしないと大人しくならないだろ」

 獣医か何かのように扱われると、ああ俺は動物なのだと思い知る。爪の切り方も知らない。呆れ顔も見飽きてしまった。不健全な、不毛な、不寛容な俺ばかりが馬鹿を見ている。

 「拾ったもん勝ちだよな」
 「なんだよ、それ」
 「靴の話」

 一向に要領を得ないながら手際良く刃が爪先を切り落としていく。残骸が敷いた紙の上にぱらぱらと降り積もる。

 「偶々拾えた俺は運が良かったなってこと」

何が偶々なものだろうか。余程の物好きな癖して。

 「触られたくないならそのままにしなきゃいいのに」

 それはそうだけど、俺の爪なんて気にするのはお前くらいだろ、とは言えなかった。

day1&2

day1

人外×人外

 色んな人間が居る。正確には、色んな姿形のなんだろうけど。

  「ひとのフリすんの難し…​…​」

 渡り廊下の外はというと沈痛な面持ちの自分など何処吹く風で、切り取られたままの風景が輪郭を置き去りにしてぼやけてしまう。整った中庭を駆け抜けた。どうにも憂鬱な気分をぶら下げる午後は、その後ろ姿が酷く恋しい。

 「ユーリア」
 「わ、危ないよ」

 制服姿で花壇の前に居たユリアが鉢植えを手に微笑む。寮長の誕生日だとかで育てている可愛らしい花が光った。珍しい種類らしく、教授達にも何かと目を掛けられている花壇の端に腰掛ける。

 「今日はもう終わり?」
 「そー、疲れた」
 「栽培学だっけ?」
 「実習だらけで死にそう」
 「座学の方が好き?」
 「そうでもないけど……昼間は眠いし」

 猫のように口を大袈裟に開いて欠伸を一つ溢した。講義室の広い机が居眠りには最適なのだ。あの何とも言えない冷ややかな磨き上げられた木の感触を味わえばきっと、いくら真面目な生徒であろうと瞬く間に虜になってしまうに違いない。思い出してまた眠くなって来た。

 「——、っ」

 すると突然、身を屈めたユリアに目の前を覆われた。温い唇同士が合わさり直ぐに離れる。

 「な、んだよいきなり。びっくりした」
 「だって出てたよ、火」「え」
 「緩いなぁライダは」

 くすくすと笑うユリアの長い舌がちらりと見え隠れする。肉色の舌先は二つに裂けていて、気が付くと瞳孔も鋭く尖った形へと変貌していた。

 「ユリア……出てる出てる」
 「俺は良いんだよ。言うほど変わんないから」

 そんな事は断じてない。彼自身は知らないだろうが隣室の生徒が『首席のあいつは蛇っぽい』と噂していた。実際には蜥蜴の方が正確なんだけど。雰囲気がどうとか見た目がどうとかそういった話であればまだ良いのだけれど、どうもそんな気がしない。他人の目は馬鹿に出来ないから恐ろしいのだ。注意した方が良いだろうか。でも聞きそうにないんだよな、ユリア。

 「だってそれは……まぁいいや。ライダは鈍いし」
 「聞き捨てならないなぁ」

 日に透ける髪が額に流れるのを払ってやって、少し汗ばむ肌を撫でる。それだけで、再び目が細められるのを見逃さない。喉が鳴る。途方も無い獣に睨まれているようで。サイズで言えば俺の方が大分大きな筈だけど。

 「もう一回?」

 言わせるなよ、と笑む。僅かに見開いた瞼は驚きからか。何となく、してやったと思う。

 「いいよ。でも部屋に戻ってからね」
 「けち」
 「そんな事言ってると明日の講義も寝通しになるよ」

 口にしてから何かに気付いたユリアが「あ」という顔を作る。何だかんだ失言も多いのだ。そこがとても嬉しい。

 「……いいよ。そうしてくれて」

 生まれ付きに磨がれた犬歯を覗かせて手を引く。こうして並ぶと優等生のユリアを襲おうとしている不良生徒にしか見えない。俺達が人でなしには見えないように。

 「後で泣いても知らないから」

耳朶に吹き込まれる凶悪な猛毒が、心地良く身体の芯を震わせる。

嵌合体

 世話焼き×被虐趣味

 
 盲目と信仰を肴に呷る酒の不味さ、悍ましさ
 真っ赤な海が血を吐いて
 真っ白な空が黒い雨に濡れている。

 「はなすな」

 「離すなよ」

 
 再三の警告に無言を貫いた。締め続けた指が少しずつ白み始め、反比例して眼下の顔は段々と赤らみ眼球は血走っていく。
 止めようという選択肢はない。与えられてもいなければ選ぶつもりもないと確信する。この先幾度と無く繰り返されるであろう行為に於いて彼は否定しない。俺もしない。

 頸動脈と気道を圧迫する力を僅かに抜こうとする。と放り投げられていた両手に腕を猛然と掴まれ進退窮まった。身動ぎも許されない中、首に添えた手だけがしっかりと互いを繋ぎ止めている。仰向けで向けられた苦し気な瞳を見つめ返した。
 
 縋るような目。一切の支配権を委ねている男に見せていい表情ではない。ほんの僅かに緩めた手を引き留める。『行くな』と、彼は言っている。まだ駄目だ、と。

 『——和』

 既に出せない声なき声で蠢いた唇の意味を理解した途端今度は本当に彼の望む通りに動いた。

 「、かっ——っ」

 渇いた悲鳴、一瞬の断末魔の後双眸から光が途絶えた。ご要望通り意識を手放した。口元には薄ら泡を吹いて。
 
 不眠症なのだと、初めて会った彼は笑って告げた。お世辞にも健康的とは言えない体躯をした彼の生い立ちには何一つ触れていない。ただ目の前に居る人間、即ち俺については金を払えばある程度自由に出来る男と知っていたようだ。
 彼は決まって「和」と呟く時だけあの顔をした。肉体が本能的な拒否を示す時、精神だけがそれを阻んだ末に出る名前には独特の響きがあった。「和」呟いてみる。先程のような意味のある単語には全く聞こえなかった。

 『和、今日来て』

 次第に頻度が増していく『関係』の形を果たして彼がどう形容するだろうかと、そればかりを頭に浮かべて車へ向かう。
 外はまだ湿り気を含んだ鈍色をしている。

 『待ってて』

テキストではなく、一言伝言を残してキーを差し込んだ。

心臓を流す

 ぽっかりと存在していた筈の空洞に、詰め物をしてしまったような感じだ。『どんな感じだそれ』と、不可思議そうな声で訊かれたものだから答えてやった。

 「消された感じ」
  『消すって、何を』

 「空っぽ」
 『初めから無かったものは消されたって言わないと思うんだけどなぁ』
 「俺にとっては、」

 確かに在ったんだ、嘘なんて吐いていない。
 寧ろ『初めから』を言うならそれこそ無かったのはそっちの方なんだよ、と言いたい。非存在の消失を証明出来ない以上、こいつにとっては不毛極まりない次元の話だ。ただ漠然と在ると知っているのは、思い込んでいるのは俺だけでいいと祈り続けている。
 怒鳴るような背後からのクラクションに急かされて、続きが喉から居なくなってしまって、断続的に連なる足音は次第に近付いていく。
 高架下に落ちた影の間から、その顔が見えたのと同じくらい極自然に俺は泣いた。

 『「空っぽさん」は今どこに?』
  「なんだそれ」
 「お前が言ったんじゃなかったっけ」
 「そういう意味じゃ、」

 無意味に、重力に従って流れるだけだった滴を男は指差して笑い飛ばした。

 「何で泣いてんの」

 腹が立って、それでも何処かで分かっていたような気もして傍の階段に座り込む。
 
 「訊くなよ」
 「訊くわ」
 「生意気ー」
 「お前言っとくけど俺の方が年上」
 「三つだけじゃん」
 「…​…​俺が高三の時お前中坊になる計算だけど」

 「知んないよ、そんなん」

 知らないのだ。訳もなく、こんな時に言うべき言葉なんて俺は知らない。そういう人だ。そういう、男だ。後が続かなくなった声の代わりに勝手に溢れ出して止まらなくなる。殆ど発作めいていて、自分ではどうしようもない。
 空を失くして、吐き出して。詰め込まれたものとの引き換えに在るものは、未だブラックボックス然とした塊でしかない。
 勝手に出て来るこれにも、名前はないなら

 「な、早く帰ろ。飯食ってくだろ」
 「…​…​うん」

 俺は、心臓を流すのだ。差し出された手を握り返しながら。

グラス

 割ってしまうくらいなら、大切にしたいものは使わない。だから手元に残るのは大抵要らない物ばかりだった。
 いつの間にか皹が入っていたり、欠けていたり、失くしてしまったりを繰り返す内に、いつしか失望が先に立つようになってしまって。
 時折、本当に要らない物が何だったかさえ見失う事が増えた。

  そう、男は呟いていた。

 『アンタの要らないモノって何』

 訊ね返した日の夜。
 跳ね回る街灯の光を足元に、男が言うのだ。

 『何か代わりになるもの探しておいてくれよ』

 何て空寒い、中身の無い告白だったろう。詐欺師だ、道化師だ。

 『とか言って、どうせそれも壊す癖にな』

 どっちの台詞だったのか、曖昧なのは何故だろう。

 手から滑り落ちたフリをして砕いてしまえれば良かったのにな。

chameleon

 爬虫類に似た目の色が何色にも移ろい出した時、ああまたかと安堵する。
 俺は姿を変えられない。だから直ぐ捕まってしまうのだ。

 『またバレたんだって』

 『変装』と『擬態』の違いとは何か。
 時折同じ嗜好を持つ知合いと会話に登る事があった。度々話題になるも、納得のいく着地点を見つけられずに終わってしまうのが常だった。
 
  曰くそいつが言うには、『変装』は後天、『擬態』は先天だ、と。他者を欺く行為に於いての意味自体はどちらも変わりないだろう。しかし後天的な変装を既に身に付けていた互いに取って、擬態とは羨望の的でしかなかった。
『結局は後付けなんだし、見る奴が見たら気付くもんなんだよ。不自然に浮いてるわけじゃないのにな』
 その通りだった。どれだけ周囲に化けていようとも俺は周囲そのものに色を変えてしまえる類の人種ではなく、幾度かの失敗を経て尚足掻こうとして余りにも呆気なくそれは起きた。

 「ああ、アンタがそうなんだ。知ってる?他の連中が何て呼んでるか。男好きの優等生、って」

 容赦なく叩き付けられた雑言に足が竦んだ。
 いつ、何処から、どうして。
 止め処なく湧いては消える疑問符を押し退けるようにして、その時もう一つの強い衝動が胸を焦がした。

 本物はいた。これ程近くに居るとは思わなかったんだ。見抜けない、見抜かせない先天的な、モノを持っている奴が。

 「…​…​杉生」

 話した事は無かった。正面切って見詰めた顔に、息が止まる。
 均整の取れた気怠げに眉間を歪ませた男に、俺が誘なわれるのはそう遠い話ではなかった。

 こいつの擬態は完璧で、例え真面目腐って俺が吹聴しようが喧伝しようが説得力に欠けるのではないかという恐れの方が遥かに大きく、連れ込まれていく何人もの女達には不審がられて終わる未来が容易に想像出来た。実際昨日も試みて、扉に掛けた手が動かなくなってしまったのだ。
 でも知ってる。俺は知っていた。

 「東堂…​…​何やってんの、こんなとこで」

 部屋戻らないの、出し抜けに言う杉生の姿はラフなもので、時刻が日を跨いだ今に至るまで非番だったらしい事を物語る。 幾つも並んだ扉の前で、間抜けに突っ立っていた俺が悪い。ただ、会いたくなかった奴に会ってしまえば機嫌なんて簡単に下降していった。

 「何でも…​…​また弟が馬鹿やったって連絡して来た」
 「弟なんていたんだ」

 大して興味の無さそうな話に乗って来る。藪蛇だったか。珍しいこともあるなと身内なのか他人なのか分からない兄弟を余所に思う。掌に握った自室の鍵が耳障りに喚く。

 「一人だけだよ。どうせお前が聞いて楽しい話にはならない」

 他の誰かの香りを纏わせながら佇む男は、俺の前で誰かの話ばかりする。色を自在に操って、何不自由なく生きている。捕食されないよう滑稽に装うしかない愚かな奴とは全てが異なる。例えそんな愚者がどれ程渇望しようとも、素気無く見限られる。初めから目玉が別々の方向を向いている様で、気味が悪く、故に手放せない。

 「それは俺が決めるんだよ。 お前、最近やけに空けるよね。メールもない」

 空けていたらなんだというのだろう。送った所で返さないのに。こいつと俺の仕事は分担が別で、そんな事は理解している筈だ。第一俺がお前のような奴と組んで仕事なんて出来る訳がない。日々金を巻き上げるだけの顔役には向いてないと知っているだろうに。馬鹿をやった弟をとやかく言えた義理ではない。

 「覚えてない、どうでもいいだろ」
 「ああ、男でも漁ってたの」

『そんな事』がある訳がない、と確信し、俺が真っ先に否定すると見透かされている。どうしてこいつが俺の前に居るのだろう。何故擬態したままでいてくれなかったのだろう、何故見破られてしまったのだろう。
 それならば互いに見付からずに済んでいたのに。

 「違うに決まってるだろ。お前だって、さっきまで寝てたんだな」

 寝乱れていてもマシに見えてしまう髪を指差して、馬鹿馬鹿しくも訊ねた。腹癒せか、それとも矮小な反骨心かは分からなかった。

 「向こうがどうしても一晩だけって聞かなかったから」
 
 あっけらかんとして口角を上げる男の微笑は何か底知れぬ意図を見せて、直ぐに立ち消えた。真意はどうあれ、それが女だろうが男だろうがどちらでもいい。聞きたくもない。聞かせないで欲しい。早くこの場から離れたい。いい加減こいつの相手をしているとおかしくなりそうだった。それなのに。

 「そう…​…​なぁもういいか、今からまた仕事が——」

 「追い返したけどね」

 ほら見ろ。この男はこういう奴だって知ってたじゃないか。どうして立ち止まったりなんてしてしまったのだろう。無視をする事だって出来たんじゃないか。
 (どうする?)
 欠伸をしいしい男は糸を垂らした。そんなもの取って堪るものか。何を今更、何て浅ましい。蒙昧無知な恥知らずがと脳内で自虐の警報が鳴ってる。転がされているだけ、期待させられているだけだ。どうせ捕まりはしないんだと必死に言い聞かせた。

 「じゃ、お仕事頑張って」

 すれ違い様に手だけを振り、そのまま男は横を通り過ぎて行こうとしていた。大きく息を吐いて、眉間に指を当てる。そして振り向く。煩い、もう分かってるんだよ。

 「彰っ」

 直後、パシン、と乾いた音が杉生の手に吸い込まれる。

 じゃら、と難無く受け止めたキーホルダーを当て付けのように揺らめかせ、続きを促す男の顔は既に勝者のものだった。仕方ないんだ、だって初めから造りが違うのだから。
 見窄らしい格好をしていても、暴かれてしまうだけだから。

 「…​…​終わったら戻る」

 「起きてたらね」

 だから早くおいでよ、下手な仮面なんて捨てて。
 それは願望から来る幻覚か、街灯の明滅に照らされた錯覚だ。けれど交わった互いの視線は酷く似た色を灯していた。

角砂糖、ティーカップ

 そのどちらに毒が仕込まれているかを案ずるのは最早奸計であり、ある種の謀略であるようにさえ思われた。

 どちらか一方でなく、どちらともに存在すると認める醜怪な執念を持たずして、誰がこの手を伸ばし得ようか。
 余りある強勇さを持ってしても、不可能の事の様に思われた。

 私の眼前に、眼鏡の、硝子玉の奥から睨め付ける鋭い鋒が立ち現れる。瞳から迸る疑いようの無い燦然と輝く殺意と、又それに相応しく妖しげな感じを纏った微笑みとが、整った面立ちに浮かぶ筆舌に尽くし難い表情の下、不均衡を更に強く印象付けている。
私は肩を震わせた。

「どうしたんだい。冷めてしまうよ?」

 指先が震えている事すら忘れて、テーブルに並べられた紅茶に手を伸ばした。
 金縁の、白磁が目に眩しいカップがソーサーから引き離される。もしかするとそれが永遠の別れにならないとも限らなかった。数秒後、このカップは二度とソーサーの元には戻らないかも知れない。粉々になったカップを目にして、彼は漸く利用された事に気付くだろう。
 また或いは、カップの横にこれでもかと蓄えられたシュガーポットが白い腑を晒している様などには動悸が止まらなかった。
 私は依然、相対する男を信じようとすらした。

 「ああ、そうだ。お茶に合う菓子折があったんでした。今持って来るから、待っていて」

 男が席を離れ、それまで部屋中に張り巡らされていた罠糸が一瞬間緩んだ気がした。
 何よりも真っ先に、私は手を胸元まで引き戻し大きく息をついた。 
 無口な彼らとの距離は元通りになった。再び、座した私との奇妙な空間を共有する羽目になるのだ。何という不幸か。

 いや待て、痺れを切らせて席を立ったのでないとすれば、男は何をしに私を視界から外したのだろうか。

 角砂糖、或いはティーカップ。

 私の眼の奥で、白く甘やかな立方体と、白い陶磁器の二つが一緒くたに溶解して一つの形を取り始めるのだが、やがて泥のような粘度を保ちながら滴っていってしまうのだ。
信じようとすればするほど輪郭を失っていく様など、正しくあの男そのものである。私は慄いた。

 これは罠?ほんとうに?

 最早自問すら曖昧なこの肉の器を飛び抜けて、口蓋から外へと漏れ出しているのではないか。でないとするなら、私の内側に引火性の瓦斯の様な速度で生じつつある疑惑の行き場を何処に求めたら良いのか。一歩間違えば、瞬く間に火の手は私を呑み込んでしまわないと誰が言い切れようか。
 今あの殺人者がするであろう行為が私を陥れる為の罠ではないと仮定すると、奇妙さはより鮮明に頭蓋へと叩き付けられた。
意を決して、私は席を立つ。座り心地の決して悪くはないソファーに批難の軋みを一つ貰うと、益々掌が汗ばんで来た。冷汗と動悸とが耳鳴りを生じさせ、歩みは遅く鈍くなっていた。

ふっかつの

 管理人だとか言う男がいた。俺の部屋に一人で立っている。顔見知を初期設定にしてしまったお陰か思い出すまで空巣で通る出で立ちに慄き、室内の荒れ具合に驚く。そして何故か説明を求める前に耳元で途轍もない轟音が炸裂。
 何事だ。

 「あああああ」

 いやそんな、自棄になって付けた名前みたいな奇声を発されても、こっちはひのきのぼうはおろか碌な装備もしていない村人その二が精々の一般人だぞ。
 にげるを選ぶ余地があるようには思えない。背を向けた途端に襲いかかられそうで目を逸らす事も出来ない。想像に歯の根が合わずに不愉快な音を立てている。
 隣人は夜が仕事なのか、入居しているらしいが今時分は見たことがない。もう片方は空部屋だ。以前ここに住んでいた奴は俺と入れ違いに引っ越したとか何とか耳にした気がする。理由なんてどうでも良かった。例え壁が薄かろうと静かなら何も問題はない。問題しかなかったじゃないか。件の住人はその後どうなったか、ご多聞に漏れず流れる噂話達は何と言っていただろうか。

 「あ…​…​…​…​の、」

 後退りながら今更轟音の正体を、足元に飛散したそれを見た。砕け散った破片にこびり付いた色には見覚えがあった。一歩動かした足で破片を踏み抜いてしまった。けれど何故か、音がしなかった。確かに割れた感触もあった筈なのに、微塵も鼓膜は振れる事なく。
 ほんの一瞬だった。時間にして僅か数秒。その一瞬が与えた影響は凄まじかった。

 「ああああああああああああああああ」

 耳朶は叫び声らしきものだけを脳に伝達する。内容を理解する前に、何故「あ」としか聞こえないのかを考えて轟音がした側の耳を手で触った。

 見覚えのある色だった。

  俺は咄嗟に、男の方を見た。

 「これで   だな」

 やっと聴こえた男の声は、酷く震えていた。

塞ぐ

 塞いでしまいたくはないのに、代用を詰めて埋めておく癖がある。詰物が外れてもどうにかして代わりを務めてくれる何かを探す事に長けていた。宝探しは、いつもこんな喪失から幕を開ける。
 失くしてから気付くなんて空寒い言葉が大好きな、噛み潰せるくらい愚かしくて

「はよ」
「おはよう。寒いね」

僕の大嫌いな代用品は血腥い好意に気付いてくれない。

ピアス

 『見逃してやっただろ?』

 無邪気に、年上の癖にそんな風に笑う大人は考え得る限り、さいてーだ。

 「お前、開け過ぎ」

 「なにすんすか」、と思わず声を荒げてしまい噎せ込んだ。絵面的には不良に絡まれたメガネ君、とかそういうシチュエーションだが残念ながら相手は教師で自分は生徒だった。

「頭髪はウチ厳しくしてねぇけど、これは開け過ぎだろ。七はねぇわ」

 放課後、珍しく一日中真面目に授業を受けたりなんかしてしまった日。人気が絶えるのを待って帰ろうとしていたら、何故が副担任に捕まった。とは言っても髪に隠れていない所のロブとコンクは、両耳でも二、三個にしか見えない筈なのに。目敏い、ヘリックスまでバレていた。生徒指導でもないのになんだこの人。透視か何かだったのか。

 もうすぐ試験前の検査あんだから外しとけよー、と軽く耳打ちして来る。呆気に取られて思わず訊いてしまった。

 「没収、とか、しないんですか」
 「ん?あぁ、面倒だしな、見逃してやるよ。有り難く思えー」

 生徒に指導を怠っておきながら感謝しろとはどんな教師か、と大口叩ける立場でもない。と、いうかーー 近い。この人、気付いていないんだろうか。
けど、通報されなかったのは不幸中の幸いだった。一つ一つ選んで身に付けている物を、態々取り上げられたい人間は少数派だ。そして俺はそんなマイノリティに属してはいない。

 「…​…​先生」
 「ん?」
 「今度コーヒー奢ります」  
 「そりゃいい。期待しとく」

 腹立つくらいの体育会系スマイルをしやがった教師に軽く会釈して、開け過ぎだと評されたそこに触れてみる。気付いちゃいないのだ、あの人は少しも。お守り代わりに佐川明が身に付けているシルバーのネックレスと同じショップのピアスを、おれが右耳にしていることなんて、微塵も。

 その日偶々自販機のアタリが出たからとか。そんな見苦しい言い訳するつもりはないんだけど。ウチはよく分からない校則を設けていて、頭髪は緩くてもピアスと化粧には厳しい。ケバい年増共にこれを適用してくれないあたり大して役には立っていない。そして校内、特に生徒が使用し得る場所は全面的に禁煙らしい。生憎煙草を吸う程不良じゃないから肩身の狭い思いをするのは大抵教諭陣な訳で。
 そしたらまぁ、件の謝礼をしようかと昼休みに探しているとだ。

 「おーっと…​…​仲野」
 「何してんすか、こんなとこで」

 予想外、なんて面で声をかけてみた。その手にあるのはライターと、点火前の煙草が一本。
 そこは中庭が良く見える非常階段で、どの校舎からも死角になる踊り場に佐川は腰掛けていた。
 どこからどう見てもこれから一服しけ込もうとしている現行犯だった。曲がりなりにも教師なのだから、とは思う。けど邪心がなかったと言えば嘘になる。でも明らかに、その瞬間だけは佐川の動揺が見て取れた。

 カシャ

 「おいおいおい、何してんの」

 とか何とかぼやきつつ、少しも焦ってなどいない口振りの佐川が煙草を吸い始めた。目一杯吸い込んで空中に吐き出す様が、餌にやっとあり付けた飢えた動物のようで何処か悲哀を滲ませる。いやそうじゃない。散り散りになっていく半透明の有毒性を眺めている場合でもなく。目の前で躊躇いもなくやられてしまうと、なんだか拍子抜して訊いてしまった。

 「いいんすか。ダメなのに。めっちゃ吸ってますけど」
 「ダメじゃねーよ、見つかんなきゃいーの。ほら、もう鐘鳴るぞ」

 俺のはカウントされてないんだろうか。てか今写真、撮ったんだけど。考えないのだろうか。ばら撒かれるとか、そういう流れを危惧するとか。そういえばこの人、教頭からの心証悪かったんだったかな、とか。これは盗み聞きした話だから確証はなかったけど。脅してやろうかな、とか、この状況で浮かばないヤツなんていないんじゃないか。そういう視線を、この人に向けてみる。

 暫く手の甲を向けて追い払う仕草を見つめていると、徐に腰を上げた佐川が咥え煙草のままにやりと笑った。

「それ、見逃してやっただろ?」

 程なく追いつけそうな背丈を少しだけ屈ませて、俺の左耳に紫煙臭い吐息を吹き込み、囁く。その動作で、佐川の首元を、肌の上を。鈍色のチェーンが流れ落ちた。

ふーん

 「俺が口外しないって本気で思ってます?」

 悪ぶっているつもりはない。でもそういう評価に反抗しないなら、認めているのと同等で。
 ピアスがその証なら、多分俺は健全な青少年ではないのだ。

 「へーきへーき。だってほら、」

 「は…​…​?っ…​…​‼︎」

 これで仲野も共犯、と

 この教師は、俺の口に捻じ込んで来やがったのだ。吸いかけの、火が唇に届かんかという煙草を。

 「っげほ、っちょ、あんた何して——」

 慌てて口元から離した吸殻を足で踏み消して、立ち去ろうとする佐川を振り返る、と

 するとどうだ。先程まで手にしていた筈のコーヒー缶はいつの間にか佐川の魔の手に落ちているではないか。何だそれ、プロのスリかよ、とか思ってしまう手際の良さに開いた口が塞がらない。

 「ちょっと、」

 「仲野」先手を取る様に、佐川が半身だけ此方に向けた。

 「コーヒー、ありがとな」

 しれっと言い放つ、その態度が

 「っくっそまず……」

 ほんとに、さいてーな人だ。

◼︎蜂蜜漬け

 どろ、どろ

 黄金色に輝く液体の中で、烏が揺蕩っている。微睡みに抱かれて、汚泥の夢を見ていた。
 黒く蕩け 沈む嘴。蜜を割き落ちる趾。
 眠くなるまで、共に解けていく。瞬きをする砂になり、瞳の上に降り注がれる。
 どろ

 呟くと、一呼吸遅れて

 『僕にも』

 重怠く沈み込んでいく瞼に触れた指の冷ややかさが美しくて、身震いするほど気持ちか悪くなって吐き出した。

瘡蓋

 後輩×先輩

 瘡蓋は塞がっても その痕は当たり前の様にその手に入る。塞がった筈なのに、塞がり切らない後悔の痕になって、煩わしさだけを置いて行く。
 もう沢山だった
 だから 喚かないで、もうすぐだから。
 もうすぐそこに。

 (あー、つめて)
 「口閉じてろ」

 あーだのゔーだの勝手に溢れて来る喉から漸く血の味がしなくなった頃に頭上から無感動な声がする。それだけの声を出しただけで脳天から爪先まで馬鹿みたいに骨が軋んだ。
 「かけるよ」の後間髪入れずに微温湯が降って来る。その温度は低くはないのに、やけに冷たく感じるのは妙な感覚だった。
 身体中ありとあらゆる傷に沁みてそれはもう痛くって、それっぽさをアピールしてみるも見事にガン無視。熱湯で殺されかけた時よりはまだマシかと置物みたいになって暫くされるがままになっていた。浴室の床一面茶色の水が流れていくのが見えた。
 汚ね、と目を閉じる。

 「寝たら殺すよ」
 「おきてまふよ…​…​」

 口を開けた途端に水が入って来てアホみたいになる。殺されかけた奴に向かって平然とそんな事を言うこの人は、どうせ自分で殺す気なんてさらさらないのだ。俺は知ってるし、割と本気でどうでもいい。死んだ後のことなんて生きてる奴が考えろ。

 「珍しいな。何処も折られてないの」

 そっすねと返そうとして止める。そんなにしょっちゅう折ってたら医者代馬鹿にならなくね、とかそんな事を言うつもりはない。少し間を開けた事で訝しんだのか出っ放しだったシャワーが止まった。聞いてんの?って具合に。別に聞いてなくても関係なさそうな気もしたけど。

 「がんばったんで」

 死なない程度に、と。俺に死んで欲しい奴なんているんだかいないんだか知らないけど。少なくとも殺されて欲しいって人は一人いるらしいから何となくむかついて言ってみる。まぁ次は腕折ってるかも知れないし、言った分フラグ立てただけかも知れない。タダほど怖いものはない。明日は無事でいられるだろうか。無理そうだな。

 「そう」

 と心底興味のない答えと同時に何故か肩口をぶっ叩かれた。途端腕に激痛が走り流石に無視出来ず痛みに身体をくの字に曲げて唸った。抑えても止まらない。え嘘でしょ、回収が早すぎる。というか折れてはいないだろ、それくらい自分で分かる。

 「あっだ…​…​」

 見ると腕の肘辺りから真新しい血液がだくだくと流れている。こんなとこ切られてたのか、気付かなかった。

 「何自爆してんの?」
 
 馬鹿なの?なんて盛大な開き具合に呆れ声の部屋の主が「さっさと上がれ」と心底面倒そうに幾分足早に浴室から出ていった。何だそれ、理不尽過ぎね?というか今のはどう見ても自爆じゃないし、と思う暇なんて与えられる筈もなく。

 俺は死に損ない過ぎていた。一度目は弟に首を、二度目は顔も知らない男に頭をやられかけて、その度に生き残ってしまっている。三度目はないだろうなと薄ぼんやり思うようになると何故かその後不思議とそれらしい場面に遭遇していなかった。だから今回がその三度目になると踏んで高を括っていたのは否めない。染みだらけの壁と街灯が目に入って、何とか生きてたらしい事を知った。
 まだ鉄臭さの残る口内に辟易しいしい、脱衣所にあった新品らしいタオルで傷を簡単に塞ぐ。見る間に白から赤になる布を見ていたら、何か笑えて来た。自棄を起こした変な笑いって言うよりは、普通に、笑顔。明日晴れるのか、良かったってな感じの。
 止血にもなってない止血じゃ流石に止まり切らなかったのか、あまり効果はないようだった。重力に従ってぼたんぼたんと滴るそれを見ていたら「おい突っ立ってんじゃねぇよ」なんて怒声が飛んで来る。見えてない癖に何で当たってんだあの人、倒れてるとか思わないのかよ。思わないんだろうな。それはそれで、何故か気に食わない。
 
 「何でそのまま出て来てんの?」「いや手が塞がってて」
 
 殺風景なリビングに入ると物凄い形相で見咎められる。早く来いって言ったのは誰だったんだろう。幻聴?下は一応履いてるんだけど。謝られないから自然と謝らなくなっていく。刷り込みのように。だからこの人に謝る気はないし、そうされる予定も絶無だろう。あったとしたら、それは恐らく何方かが謝れなくなった時だけだ。

 でも浴室へ取って返して、バスタオル片手に大型犬よろしく頭を拭かれた時には流石に居た堪れなくなって口から出かけた。小言もなしにそんな事をされるなんて、また地味な嫌がらせを、と項垂れさせた頭が上げられなくなる。

 「もうへーきですよ…​…​なぁ聞いて」

 多分聞こえてても止めないんだろうな、とか思っていたらその乱雑に髪を拭っていた手が唐突に止まって、先程無理矢理止血してまった腕を取られていた。被せられたままのタオルは視界いっぱいに白く広がっていて、俯いたままではその顔は全く見えない。温度のない床に座って、何方か一方の反応が訪れるまで動く事の許されない沈黙に身を委ねる。

 殺されるなら、こういう時が良いな。 訳もなく思う。まぁこの人に殺されてやる気はないし、今ならば多分死なない。何となくそんな自信があるけれど。

 「…​…​お前さ、」

 タオル越しのくぐもった呟きは、そこでふっつりと途切れてしまう。後を継ぐ為に用意していた幾つかの下らない話は、その真剣さになりを潜める。

 「何」

 何処と無く抑揚の失せた返事になんとなく、その視界に入っていない筈の肩が振れたのが分かった。

 らしくない。死に損ねた俺みたいになんだか滑稽に思えてきて。
無造作に、頭の上に居座っていたタオルを引き剥がす。邪魔だったから。

 「…​…​何」

 鸚鵡返しのよう反復された言葉に対抗して、さっき俺が雑に巻いた腕のタオルも毟り取った。流石に皮膚ごとちぎれそうな感触がしたけど、そんなこと御構い無しに血塗れのそれを床へと落とす。最後に、その人の目を見る。きっと恐らく呆れかえって笑えないくらいの冷酷な顔が俺を待ち受けているのだ。

 そう思っていてもなぜか

 俯いた視線があげられなかった。
 なんか言えって、と。
 そういう空気に、俺は無視を決め込んで、ゆっくりと顔を上げる。

 見るとそこには

「せ、んぱ……——」

 鈍く明滅する蛍光灯越しに、えらい勢いで椅子を上段に振りかぶった人間が見えた。

 え、あ 何これ

俺死んだんじゃね?