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朝焼けには遠い色

◆朝焼けには遠い色

 
 探していた。辿り切れない日々に埋もれて、まさかそんなものが残してあるなんて思いもよらないだろう。趣味じゃない色の灰皿は捨てておいたし、いつ置かれたか定かじゃないロゴの擦り切れたスニーカーも、いつしてたのか思い出せもしない眼鏡も一緒に纏めてゴミ袋に放り込んだと安心していたのが不味かった。
 昨晩見たディレクターズカット版の名作に思いを馳せつつ船を漕いでいた丁度その時、鳴り響く電子音に跳ね起きた。
 うたた寝日和の午後のこと。突如として妨げられた不完全燃焼の眠気に機嫌を損ねつつ犯人探しに躍起になっていると、寝室のドア裏に転がっているのを漸く発見した。

 そうか。あいつ、スマホのアラームを嫌ってた。楽な方に流れる俺と違って枕元に必ず一つ置いていたっけ。何十年も昔に埋めた古い玩具を発掘した気分、と美化は出来ない。叩き壊しそうな勢いで時計に手刀を決め、一息付いた。
 しかし何故こんな時刻にセットされているのか——。

 「あ」

 ベタベタと人の生活に手垢だけ付けて、結局まだ居なくなってくれないらしい。その場に項垂れて呻く。

 「あーあー、もう……」

 冴えない日常の中、一つだけ残った置き土産は取って置いてやるしかないのかも知れない。
 午後三時半過ぎ。朝焼けには遠い色した窓辺にぼやく。

俺が観てたドラマの再放送なんか覚えてんじゃねーよ、ばーか。






未消滅

 免れようのない危惧からの逃避を求めている。
 消滅を恐れながらふらふらと当て所なく蛇行する歩みの先に、雑踏から遠く離れた路地裏はある。その一番底から天辺を見上げる。細長く切り取られた黒い川が頭の上を流れているのに、真下に揺蕩う僕はどうしても息を吸い込んで、確かめてしまう。溺れた振りに酔って見失っている。静謐に取り残されてまだ見付けていない方法がないか探し続けている。徒労に終わればまた消滅を恐れて彷徨う。
 思考の徘徊癖に自覚的な分マシだと思いたかった。けれどきっと見付け出してくれる。
 ああ今夜も、僕は消えずに済んだのだ。

 「遅かったね」
 「ああ、ちょっと寄り道を」

貪婪

 べちゃべちゃとした肉塊を食む。ベチャベチャ音を立てて嚥下されていく肉に思いを馳せる暇もなく食む、喰らう。

 「美味いか。そうか」

 頭の上で喜ばれると、皿の中で減らした分が追加された。何だったか、こんな風に次々と注いでは食べする風習を何処かで聞いた。

 「まだあるからな。小さく切ってよく噛むんだぞ、ちゃんと」

 分かっている。戻さないようしっかりと奥歯で噛んで、味の分からなくなるまでぐちゃぐちゃに擦り潰してから飲み込んで、口を開けて見せた。

 ちゃんと食べられたかどうか、確認を求めた。貪婪に委ね、阿た。
 俺はまだ生きるに値するかと。

 「よし。頑張ったな」

 許しを得て、心底痛感した。

 「あ゙、りがとうございます……」

ああ、まだ息が出来る。

恵まれない幸運に

 悪魔×自殺者

 彼は救われてしまったのだ。

 昔共に見た古い教会のステンドグラスの中には確かに居たんだ。
 人々を導く御使が、確かに無邪気な信奉を受けて輝いていたんだ。

 乾風が秋めく空に吹き荒ぶ。屋上の遥か高みから眺める風景はつまらないくらい隅から隅まで知っている場所ばかりだった。そんな小さな、片手で収まる程の世界が地上からだと何故全く果てのない途方もない存在に思えてしまうのだろうか。
 何かを手放そうとする時の得も言われぬ高揚を手に入れた足元から重力がなくなり始める。
 ふらふらと頼りないまま日暮れに群れなす鳥に手を振る。彼らと同じ目線に立っても己の矮小さは決して拭えず、対等には到底なれやしなかった。諦め切れずに見上げ続けるのにはとうに疲れてしまった。
 ああ。もうほんの少し踏み出すだけでいいんだ。
 引き返そうにも刻一刻と流れていく時間がじりじり背を押している。

 躊躇うのはいい加減にしろ。
 不必要なお前は消えてしまえ、と路地に鐘が響いた。
 あれは筋向いに建つ小教会の時報だろうか。いや、気にして何になる?

 もういい。もう十分待った。遅刻は厳禁なのだ。今度こそ必ず辿り着かなければいけないのだ。

 前に一歩踏み出すと身体を引っ掴んでいた地面がすとんと何処かに抜けて、落ちて行った。真っ逆さまのその終わりは自分の終わりと同じ速度で迫って来る。悔やむ間もなくやって来て、ビルの群れを天辺から反対に向かって前進して行く。

 が、空白の肉体が叩き潰されるという時になってそれと目が合った。

 ◆

 「まずは君の新しい誕生日に」

 男のような姿をした『何か』が拍手を打ち鳴らす。嘲笑的な喝采を寄越したのは何処の劇場から抜け出して来たのか、風変わりな出立の男だった。どういう訳か足場もない宙空に立っている。しかしそんな光景にも増して、真っ先に視界に飛び込んだのは自らの横たわった身体だった。
 それを前に生誕祭だと嘯かれているなんて、どんなに滑稽な芝居でもお目にかかれる脚本じゃない。笑おうにも声が出ない。

 最期になんて悪趣味な走馬灯を見せてくれるのだろう。などと考えていても瞼を持ち上げたままでは目の覚めようがない。そうしていつまで経とうと辺りの風景は嘘くさいほどいつも通りの日常のまま、異常さの象徴である彼はというと平然とした顔で恭しく俺の手を取って言った。

 「ようこそキール。そしておめでとう」

 目の前に広がる光景は揺るぎようの無い事実だけを酷薄に伝えていた。事実明後日の方向へ曲がる——人間、元自分、自殺した愚か者のいずれか——の手足は想像よりも遥かに生々しい。肌から突き出した黄色い枝のような尖った骨が視界に突き立つ。未だ染み出す鮮血の肉溜まり。

 まさか本当に死に損なった?こんなに手足がひしゃげているのに?

 いや違う。

 「俺、おれ……なんで……?」
 「ん?ああそうか」

 何せ久方振りで、などと全く意味の分からない事を男が呟くと、見下ろしていた場所から見えない階段を一段ずつ降って来たかと思うと、やおら話し始めた。無残にひしゃげた肉塊の傍らへひらりと着地した。

 「そうだ。君の命は既に尽きている。覚えているだろう?あの高さから真っ直ぐここまで来た事は」

 細く尖った指で屋上から足元までの導線を描くと、切り立った現実の先端から飛び降りた時の記憶が一瞬にして蘇った。ようこそ、と軽く身を屈める男から咄嗟に腕を引く。抵抗はなかった。さっきの今に起きた事が彼の奇術師めいた言動で事実だったかどうかも曖昧になってしまう。
 だって、俺自身だった筈のものが転がっていて、それでも俺には掃き溜めのような路地裏も住んでいたアパルトマンも何もかも何も変わらずに映っていた。無表情かに見えた顔筋が屈曲する様は背筋に怖気を走らせる。
 こいつは何だ。まるで空想的としか言いのないモノ。だとしたら悪魔か。だが話に聞く有りがちな黒い翼も禍々しい角も尾もない。

 「君はキール・レイン。だったモノだ。覚えているな?」

 何の確認か知りたくも無い問に押し黙った。だった、ああそうだ。確かに自分はもう生きていない。人間の残り滓。成れの果てか。その事実にひたすら目眩だけがはっきりと知覚され、ありもしない空の心臓が早鐘を打った。

 その上何よりも酷いことに。

 「俺はミアレス。ミアでいい」

 「ミ、あレス」

 律儀に名乗る男は一歩踏み出して微笑んだ。
 ああその顔、その目。
 騙されない、俺は騙されない。

 「あ、ああ、あ」

 どうして、彼がここに来て、俺に囁いているのか。
 どうでもいい。どうだっていいんだ。

 もう二度と見ずに済むと思った笑顔を見せて異様に黒く影のように長い手を真っ直ぐに伸ばした。その冷たくも温かくもない手が顎を掬い、撫であげた。搗ち合った瞳に光は差しておらず、白く揺らめく炎の様な瞳孔が呼吸の度輝きを増した。

 「お前、は何」

 飄々とした語調のままに、ミアレスが小さく何かを呟くと目頭が急にかっと熱くなり、視界が滲んだ。途端に顳顬が痛んだかと思うと、急激な眠気に蹌踉めき膝をついていた。

 「まじないさ。どうにもまだ混乱しているようだから」

 混乱。こんらん。

 「はは、あー、あーーあー……——」

 何が違う。
 お前が、お前は言ったじゃないか。

 『悲しんでくれる内は平気』って。

 だから待っていたのに。
 だから

 ダニエ

 ◆

 翌る日の目覚めは奇妙な現実の続きだった。
 こんな姿になっても朝が来る。余りの恐ろしさに跳ね起きた。横には未だに消えない男の姿がある。骨も肉もない祈りで何を叶えたいのか。額に組んだ手を押し当てる彼は敬虔な信徒その物である。

 「よく眠れたかな」
 「……」
 「忘れてしまった?」

 祈りを止め、顔を向ける。
 忘れるものか。忘れたりしない。死んだ筈の人間の前で自分勝手に振る舞う横暴な男。そして、ダニエの生写しのような卑しい悪魔。そう、こいつは悪魔に他ならない。

 「ミアレス」
 「よく出来ました」

 悪魔は何に祈るのだろう、と不意に思う。

 頭上に迫る手を払い除けると、乾いた音が響いた。触れた。不可思議な夢だ。誰かの居る夢なんて長いこと見ていなかった。肉体から解放されても頭痛がするという何の参考にもならない発見を得る。
 目覚めたのは余りに見覚えのあり過ぎる一室だった。寂れたアパルトマンの部屋を見渡した。黴臭い湿気を含んだ陰険な部屋は、寝心地など僅かも考えられていないスプリングの壊れたベッドとシーツがそれぞれ部屋を飛び出した時のままにしてあった。元が何色か分からなくなった壁紙が恨めしげにこちらを見ている。

 「殺風景だ」

 確かにミアレスの言う通り四方を鈍色の壁に囲われただけの空間は家主がどんな生活をしていたのか口を割ろうとしない。強いて言うなら裕福ではないことくらい。清潔とは縁遠いワンルームに舞い戻って来た。辛うじてクッションの死んでいないソファに足を組み、ミアレスが天井を仰ぐ。髪も瞳も全身が黒一色で染め上げられている。一層際立つ姿も、だが少し冷静に対峙するとなると寧ろ空気のように意識の外へと出て行ってしまう。影みたいな存在感だ。けれど拒めない理由は簡単に結論が出た。

 「助からずに済んで良かった」

 当然死体はそのまま薄汚い道端で冷たくなっていくし、人通りも少ないだろうから明後日までは見つからない。もし誰かが見つけてしまったとしたら。いや、この地域の治安を考えるとかえって自然とも言えた。原型を最早留めない腐肉に群がる蝿のような人々を想像するのは容易かった。決して心地の良いものではない。常に街を覆う曇天からの雨で押し流してでもくれたらいいのに。祈りかけて止めた。そんなちっぽけな祈りさえ届く筈はない。あってはいけない。

 「良かっ、た」

 鸚鵡返しに反芻するのが今出来る精一杯だった。胎児に逆戻りしてしまったみたいだ。顎が上手く動いている気がしない。どうしてこんな喜劇が待っていないと思ったのだろう。
 彼に瓜二つの顔を持つ悪魔は徐に立ち上がった。
 すると窓辺にひらりと半透明な羽が舞い落ちた。と思うと拾い上げ、そして躊躇う事なく握り潰してしまった。「穢らわしい犬共め」と吐き捨てて。

 「先を越されずに済んだんだよ」
 「先?」
 「そう。『救い』を餌に魂を奪うモノ。天使に」

 天使。神の使いである。悪魔の口から飛び出したのはまたしても想像していたより空想的な存在だった。

 「奴らは執念深い。人々の救いになると妄信して止まないから」

 ミアレスがさらさらと砕けた羽の残骸を散らしながら微笑んだ。
 曰く天使とは獣であると。
 聖堂に描かれたものとはまるで違った存在で、純白の毛並みを持つ以外は地獄の番犬とそう大差のない姿形をしているらしいのだった。目敏い彼らは足も早く、間に合ったのは奇跡だと笑う。
 なんて憂鬱な奇跡だ。お陰で今もまだ目は閉じない。
 いつになったらここから消えてなくなれる?

 「そら、ご覧」

 そう言って指差した外にはそこかしこにライオンの鬣と身体、鰐の尾、それから猿に似た顔を持つ奇怪で大きな動物が飛び回り、跋扈していた。あれが天使?どれもこれも皆色だけは透き通るような白一色だ。けどミキサーでよく混ぜ切らないまま飛び出して来たような図体に、道行く誰一人として気付く様子はない。中には複数匹が寄り集まって癒着し思う通りに動けないでいるものも見えた。

 「なに、あれ」
 「君を狙う奴さ。あれは俺達を喰らわない。もう長い事死に続けているからね。喰らうのは、死にたて、君のような」
 「俺、」
 「そう。あいつらは君達を喰らって生み出すのさ。新しい天使を」

 「新——」

 ぎぃぁぃぃあぃぃぃぇぇえ‼︎‼︎

 「‼︎」「ああ、気付いてしまったかな」

 けたたましい雄叫びがすぐ側でしていても、ミアレスは至極落ち着き払っていた。そればかりか口の前で指を立てて宥め賺し囁く。

 「君が動揺すると寄って来る」

 だから静かにとミアレスは続ける。頷くけど、何度も何度も四肢で壁を叩くそれが鋭い咆哮を上げる度、どんどん動悸が、早まっていく。早る心臓なんてとうに潰れてなくなってしまったのに。何処にもない臓器が勝手に呼吸を圧迫する。

 「はっ……」

 駄目だ。あの声が駄目だ。耳を塞ぎたくても身体が動かない。全身をずたずたに引き裂く叫びが鼓膜を揺らすともう何もかもかなぐり捨てて一緒になって叫び出したい気分にさせられる。居ても立ってもいられなくなって、頭なんてそこらじゅうに中身をぶち撒けるまで打ち据えてやりたくなる。見ないで、晒さないで。本性を引き摺り出されまいと躍起になる。そうこの醜さを露呈させる彼の背中を俺は

 「大丈夫さ。キール、俺を見て」
 「ぁ、ぇ……っ」

 顔を両手で挟んで無理矢理目を合わせようとする。静かで暗い目に一時逃げ込んでしまおうとした。でも駄目だ。視線は合っているのに合わない。ぐるぐるぐるぐると意識だけが引っ張られていく。持っていかれる。

 「しつこいな。余程君が目当てらしい」
 「あ、」

 気付くと黒い腕の中に閉じ込められていた。ほんの僅かに叫びが遠退き暴れ回っていた音も次第に小さくなった。いいや、暴れていたのは自分の臆病だ。きっと天使は知っている。あの声は隠したいものに火を付けようとする。熱くなって抱え切れなくなるのを口を開いて待ち構えている。

 「安心して。ここには来ない」

 根拠のない気休めに僅かながら安堵してしまった。襲われない理由なんてないのに。死際を嘲笑った男がそれでも一言平気だと唱えてくれると足の震えも止まる気がした。それもこれもこんな風貌が為だ。そうだ、ダニエ。
 強張らせていた力を抜いて、縋るように抱き返すと少し驚いたのか目を瞠った。

 「本当だ。信じて」

 疑っていると思ったのか困ったような表情を作る。悪魔の持ち出す信用がどんな目的なのかもはっきりとしないのに、その歪んだ顔をされると全て下らなく思えた。
 俺は消えてなくなりたかった筈だ。でも、信じて欲しかったのは同じだった。

 「わ、かった」

 縋って疑って、それでも最後には戻って来てしまって。
 そうだ。だから許せなかった、全部が許せなかったんだ。

 幾分か落ち着いた自分を撫で、額に口付けを落とすとミアレスは横抱きに身体を持ち上げた。急速に視界が高くなる。落ちる、と思った。足場のない浮遊感に気が気でなくなる。慌てて支える腕にしがみついた。動揺、はしていない。すると彼らが来てしまうから、しないように。

 「いい子」
 「ん……」

 もっと、もっと駄目じゃないと言って。俺をひとりにしないで、置いていかないで。
 先に行ってしまわないで。
 全てを上げる。上げるから側に居て、ずっと。

 でないと。

 「少し遠くに行こう。あいつらの救いが届かない所まで」
 「届かない、ところ」

 「ああ」

 誰の救いもない場所。
 つまりそれは、 ゲヘナへの誘い。

 『キール、また寝てたの?』
 『     』
 『駄目だよ。俺が困るもの』
 『     』
 『許さない。だからほら、早く起きて』

 辿り着いたのは古ぼけた家の前だった。
 すっかり荒れた庭とサンルームが出迎えていた。テラコッタ色の三角屋根を被った小さな一軒家。所々剥げた外壁の隙間からは蔦や蔓草が顔を覗かせていた。何年も忘れられて長い事好き放題に日を浴びて育った楡の木がポーチ一面を落葉で埋め尽くしている。もう地面は見えないし、これからも誰かが目にすることはない程に隙間は失われている。

 「どうして」

 誰にも話したことのない場所だ。二人になってからも誰にも伝えた事はなかった。寂れているとダニエには言ったけど俺は紹介してくれた事がとても嬉しくて、だから綺麗だと言った。見る目がないなぁと、彼も横で笑った。

 ここにあの獣が来ないって?訝しんでもあの叫び声が頭を過った途端言葉にはならなかった。嫌だ。もう絶対に見たくない、聞きたくもない。居なくなれ、埋もれて、消えてなくなれ。

 口の中で何度も唱えている内ミアはいつしかすぐ背後に立っていた。護衛のように畏まったその態度に慇懃さはない。背丈は幾らも違わないのに、傍に並ぶと手を繋ぎ指を絡ませて来た。薄い。肉も骨もないみたいな手触りだった。

 「……?」
 「もう暗くなる、中へ」

 そんなはぐらかし方があるものだろうか。彼以外に知り得ない事を知っている、彼とそっくりな紛い物が唆す。本当に?本当に紛い物だとしたら、どうしてこんなにも同じ声で喋って同じ眼差しで俺を見るのだろう。緑がかった尖った瞳で。以前にも、前にも。

 「前は、よく……」

 銀色の髪が風に靡く。古いソファに並んで座って、朝までずっと一緒に起きていた。何を話していたかなんて覚えてない。そんな事はどうでも良かった。ただ隣で息をしていられるだけで満足だった。

 「よく?」
 「ここに呼んでくれただろ、覚えて……」

 あれ、おかしいな。ここは彼の家だったのに、悪魔の家なんかじゃないのに。
 リビングに転がっている空の餌入れは当時居座っていた野良犬が愛用していて、それで古いから新しいのを買ってやったらどうかと相談したのだ。でも使ってくれなくて、結局前の物に戻した。贅沢な奴だって二人して笑って。……犬?
 飼っていただろうか、そんなもの。

 「なぁ」

 男は振り向かない。呼び掛けても聞こえていないみたいに。本当はそんな名前じゃないよと告げているみたいに。
 中へ促される。至って普通に、何の変哲もなく扉を押す。何の抵抗もなく開く。鍵が掛かっていない。空き家になってしまったのだろうか。いつでも人気がない土地だったから、何も不自然じゃない。そうだろうか。
 どうぞと招かれた室内は予想に反して整っていた。
 錆び付いて開かなくなってしまった天窓も急な傾斜の階段も地味な色味のラグも同じだ。室内では時が止まっていた。

 「上にベッドがある。疲れたろう」
 「まだ眠くない」

 子供染みた答え方だった。だけどもう何度も眠った。眠り過ぎていた。これ以上目を閉じたらいつか開かなくなる。元々はそれが望みだったのに。睡魔からも逃れられずまた夢を見でもしたら本当に何が嘘で何が真実なのか分からなくなる。分からないのは嫌だ。理解出来ないものと向き合える程自分は強く出来ていない。

 「それは残念だ」
 「え、ぁ」
 「君がここで良いと言うから」
 「待っ……⁈」

 「待たないよ」

 すると突然ソファに押し倒され、目の前が夜になる。真っ暗だ。でも室内はまだオレンジ色の中にいる。抑え付ける力は強く容易に解ける気配はないのに、声だけが柔らかい。何も酷い事はしないと言って。訳が分からなくなる。

 「やだ、なん」
 「やっと捕まえたんだ。逃げるなんて言わないで」

 逃げる?そんな事出来ない。そんな事は、許されない。
 慌てて首を横に振ると、またあの困った表情。

 「『キール』」
 
 呼ぶ声は歪んでいた。

 ずる、ズッ、ずリュッ

 熱い、なんで。

 「あっ、ぁ、ぅ……っ」

 「息を止めないで、そう」
 「はっ……ん、ゅ……っぁ」

 繰り返される粘膜への往来。
 一体、何をされているのだろう。視界が明滅している。
 苦しいのにもどかしい。助けて欲しいのに、もっとと強請る欲望に逆らえない。

 「みあ……っ」
 「ん?」
 「きもちい……?」
 「ああ」
 

 頭がぐらぐらする。何も分からない、もう感覚も伝わらない回数重なった身体の隅々まで貪られているというのに、頭の奥が冷えていく。怖い。

 ズリ、ズッ、

 ズヂャッ

 耳元まで来てやっと分かった。すぐそこまで来ていたのに気が付かなかった。

 目の前に転がっていたのは、白い動物。

 「ああ、まだ動けたのか」
 「あ……ぁぁ」
 「せっかく綺麗に食べてやったのに」
 「た、べ……」

 翼は捥げ、首から上のない獣が呻いてる。欠けた頭部の何処かが気道に繋がっているのか時折途切れ途切れの掠れた、鳴声とも付かない音が漏れる。しかしその断面から新たに何かが形を成し出でようとしていた。
 二つの凹み、その下のとんがった膨らみと柔らかく並んだ……唇のような。人の、人の頭がぬるぬると内から内から新たに生えて来るのだ。
 その内の一つには、見覚えがあり過ぎるもの。

 『そう。あいつらは君達を喰らって生み出すのさ』
 『あいつらは君達を』

 『君達』

 「ああああああ」

 遅かった。どうして聞いてしまったんだ。どうして気付いてしまったんだ?
 彼は救われてしまった。
 誰が彼を手にかけたのか、悪魔?なら俺もそうだろうか。怪物、奸佞邪智の白き御使を。

 「だにえ、ダニエ……何、どうし……っ‼︎」

 獣はまだ脈打っている、潰れた喉笛を裂いてあの悲鳴が聞こえてるんだ、だから黙って。

 「キール」
 
 ミアの声、いやどちらの声?

 これが、彼?

 「違う、お前じゃない……っ」

 ダニエはここに居る。こんな化物なんて知らない。
 俺を置いて行く奴なんて知らない。

 「ぎぃ……ル……っ……」
 「やめろ!嫌だっ、来るなぁっ‼︎」

 「キール」

 「いやだ…………っ」

 魂を喰らう悪魔。天使の救いから守る邪悪の、差し伸べる手に汚れた手を伸ばす。
 ダニエが醜く鳴いている。ミアは笑う。楽しそうだ。なら畏れる必要が何処にある?

 「ミア、ミアぁぁ」

 無言のまま頬を撫でる悪魔に縋った。

 「俺を見捨てないでぇ……」

 だがいつか禍々しい彼が羽を広げて、救いを与え賜うと言うのなら俺は

 「見捨てないさ、永遠に」

 ああまただ。また辛抱が足りなかったらしい。
 かわいいかわいい、可哀想なキール。残念なからダニエは捕まえ損ねてしまったけれど久し振りの晩餐にはとても満たされた。
 死後の救済を求めながら迷える魂は皆一様に天使が奇怪な動物になるという。救われ損ない、と便宜上呼んでいた。彼は特に顕著だった。
 そして奴らも俺達も根源は同じ。呆れるほど容易く篭絡出来た。

 自ら救済の使徒と成り果てるか、糧とし食らうか。魂の使い道が違う以外に差異などそう多くはないのだから。
 さぁ、もう一口頂くとしよう。壊れた君は格別の味がする。キールは恵まれている。こんなに幸運なことはない。
 幻の家は崩れ始める。後には無機質な空間だけが残った。

 肉塊が真っ赤に熟れた口腔を蠢かせ、囁いた。

 「大丈夫さ、俺は決しテ

 
 キ
 み

 ヺ」
 

夏を口遊んで

『おかあさん、お星さまってどこにおちるの?』

 消えてくれと願われることがある。
 消えないでいてと願うことがある。

 流れる星の願いの中に、掬う望みがないとして。

 『それはね』

 手を伸ばす。いつか滲んで落ちてくるかも知れない光の為に。身勝手から惨酷な手段を望み、足元を踏み荒らしては探し歩く。そんなことをしているうちに、気付けば外はもう明るみの中だった。

「それは——」

 天井にある光の屑達は地上には決して落ちては来ないことを、くるくると流れる、部屋の天井に映し出された星の川をぼんやりと眺めながら、思う。
 

『おーい天川』

 うっかり返事をしてしまったのが運の尽きだった。

 「あつ……」

 屋内にあっても、校舎、取分け廊下に充満した熱気という熱気は外気と殆ど変わらなかった。立っているだけで斯くも鬱陶しい汗の感触が不愉快で仕方がない。夏季休暇期間の校内に残るのは部活動連か、それに近い集団の燥ぐ声
 首筋に纏わり付く不快感を追い払うようにシャツの襟で頸を拭う。
 暑い。肌の表面だけじゃなく、身体の内側から燻されている気がしてならない。真夏の砂浜とはまた違う熱に頭に靄がかかる。気休めに持っていた下敷きで扇いでやり過ごそうかとも考えた。がそれに先んじて、というよりその時丁度見つかってしまったのだ。担任という非常に面倒な存在に。
 丁度良いところに来たと言わんばかりの人の良い笑みを浮かべた男性教諭は手招きをしながら自分を呼んだ。

 『課題の提出か?随分早いなぁ。感心感心』

 足元にはダンボールが何箱か。常日頃から大体そうだった。物事を早め早めに済まそうとすればする程何故かやる事が後から後から増えていく。気付いた時には始めの倍を数える荷物の山に対峙している。
 今回も例に漏れずまずはと機嫌取りから始めようとした担任を横目に分りの良い生徒に徹する以外に逃道なんてなかった。

『いいえ。先生もお疲れ様です。どうしたんですか?』

 言い止しながら角の拉た箱を見下ろした。よくぞ、と柏手を打つ教諭は見た感じ他に用があるから雑用を頼みたい、という風には見受けられなかった。大方この酷暑に早く冷房が稼働している職員室に戻りたいのだ。きっと教師からすると生徒の方がいい身分だと言いたいのかも知れない。悪びれもせずに、社会から無条件に赦免され、切り離していられる身分。悍しくもあり、また利用しがいのある貴重な資源でもある。けれど世間話の応酬に付き合うのが既に億劫になり出した挙句の果てに『何処に運べば良いんですか?』と口走ってしまったのがつい数分前のことだった。

 中身を聞きそびれたが、ずしりと腕に響く重量からするに紙類や不要になった書類や本か資料なのだろう。もう片方はそれに比べればかなり軽いものの左右に揺らすとガラス同士が打つかる音がした。実験で割れたビーカー?いや違う。廃棄物なら生徒には任せないだろう。集積場の方向とも異なるしあの教師の担当は理系ではない。蓋はガムテープで固く閉じられていた為中を確認することは出来なかったが、もし下校する時までに担任が残っていたら聞くことにしようと頭の隅に書き込んでおく。

 配達先は、『四階端にある』教室にあった。
 この学園内の校舎は二つある。県内でも割と珍しい作りだといつだったか聞き及んだ、が興味がないのでそれ以上は覚えていない。
 この校舎は足早に歩を進める一階を含めて計三階建て。対して渡廊下で繋がれた片割れは四階建てだ。そして反対側に辿り着く為の通路は一度二階まで上がらなければならない。完全な二度手間である。何故こんな構造なのかも不明だが、あちら側の校舎の出入り口、昇降口にあたる部分が現在封鎖されている事が手間の原因だ。つまり、廊下を通る以外の移動手段がない。今時流行らないだろうが、七不思議に名を連ねていてもおかしくは無い。不便が許せる程余裕のある性格をしていない。ともかくだから引き受けるべきではなかったのに。爛れそうな肺で吐いた息が悲嘆と共に落ちていく。

 ◆

 管楽室、実験室に美術室。資材置き場に多目的室。様々な役割を持つ部屋が多くある校舎は未開の地に見えた。帰宅部には縁がない。
 横目に眺める人気のない教室は何処も薄暗く、それがより一層外からの強烈な日差しを際立たせる。茹だる暑さと目が潰れそうな明るさに反比例して伸びる黒々しい影のコントラストはいっそのこと感傷的ですらある。昔はよくこんな場所に忍び込んでは夜まで隠れていた事があったな。遠い記憶は擦り切れてしまって至る所が朧げだ。どうして隠れていたんだったかな。
 その内欠片も思い出せなくなって、それを忘れたと気付く事も出来ず、一人でに消えていく。誰が嘆く事もなく。

 上靴とリノリウム床との間で起こるベタついた足音がいやに響く。長い廊下のずぅっと奥にまで、まるで警笛のように甲高く。次第に飲み込む唾液も粘ついて来てげんなりした。
 何も疚しいことをしていないのに誰かに見つかりやしないか、バレてしまわないかと無意識の内に足音を消すように歩いていた。背負った鞄と抱えた箱の重さ以上に足取りが重い。

 四階の端、四階の。

 口の中でいつしか呪文のように唱えながら階段を踏み締める。漸く最上階が見え始め安堵した。まさか逃げる訳もないだろうに、心底ほっとしている自分がいた。呼吸を整えてから荷物を一度抱え直し一歩踏み出す。

 あった。ここだろうか。
 やっとのことで到着した教室は、他のそれと遜色のない些か立て付けの悪そうな引き戸、掲示物でも貼ってあったのかテープの剥離跡が四箇所一纏まりに残っている。急いでいたのかも知れないが、少し雑な、手荒な印象を受けた。
 ほんとにこんな所に置き去りにしていいのだろうかと疑問を覚える。これなら体育倉庫の方がまだ人の手が入っている気がして。

 扉の上部に備え付けられた小窓は内側から目張りでもされているのか外から様子は伺えない。
 もう一度大きく深呼吸をする。積もっていた廊下の埃と一緒に顎も上がって、自然と視線も上がった。
 視界に入ったプレートには今にも消えてしまいそうな字でこうあった。

「文……部?」

 文芸部、だろうか。それにしては字間がおかしい。追い出されてしまったのか、「芸」の入るスペースが明らかにない。

「あっ」

 どうせ誰もいないだろう。高を括っていたがいざ扉の前に立ってハッとした。担任から教室の鍵を貰っていない。どうやって開けろというのか、鍵開けの特技なんて持ち合わせていない。暑さを言い訳にはしたくはないがこの凡ミスは間抜けの謗りを免れなかった。
 また向こうに戻るのか?いいやそんなの御免だ。何往復もしたい道程でないことははっきりとした。ただ開きもしない戸の前で突っ立ていても仕方がない。じっとしていたら倒れる自信がある。心なしか息苦しい。

 どうするか。正直このまま置き去りにしても良いんじゃないかと魔が差して来た頃

 がたん

 室内から物音がした。
 気の所為だ、勘違いだと思い込もうとした途端二度三度と立て続けに中からした異音に後退った。鼠か?こんな最上階で?まだ迷い込んだ鳩か何かの方が納得出来る。だが数秒と経たずにそれが小動物の立てたものでないことが分かった。
 がらがらがらっ

 崩れた。いや何が?と自問しても答えなど出ない。校舎を包む空気はじっとりと生温く感じるが、背筋を伝うのは冷汗だ。寒いのか暑いのか最早判別はつかなくなっている。まだ正午を過ぎて間もないのに、不気味というには臆病が過ぎる。たかが正体不明の音くらいで。そんなもの日常茶飯事じゃないか。他人の声も犬の遠吠えも、仮にそうだと決め付けているから気にならないだけだ。恐る恐る教室から目を離さないよう視点を固定し荷物をその場に下ろす。一応念の為に。意を決して扉に手をかけた。たった数秒前までは開かないなんてと案じていたのに、それがもう開いてくれるなと現金にも願っている。笑えない。
 ガララ、がた
 予想に反して扉は呆気なく開いた。ガタついていたせいか半分辺りで止まってしまった、が開いてしまった。湿気と黴臭い匂いに思わず咽せてしまい、口元を汗ばんだ腕で覆う。中を覗くと広さは精々物置程度しかない空間が目の前に飛び込んできた。ただ異様な暗さに眉を顰める。窓の一つくらいはあるだろうに、光源がたった今開け放たれた分以外にはほぼない。
 しかも校舎の立地的に扉側からの光量は決して充分とは言えないのに。一歩ずつ慎重に足を踏み入れると、段々と闇に目が慣れて来た。壁際の棚の位置、無秩序に積み上げられた機材、立方体。円筒形が数本。床中に散らかったよく判らないものの輪郭達がゆっくりと立ち現れる。

 何とか触れる範囲にあった壁面に手を突き出して踏み場のない空間を更に奥へと進もうとした。電灯くらいはないと困る。
 その時、足に何かがぶつかる感触があった。
 何だろう。硬い角材などではなくて一安心と、それに腰を屈め顔を近付けた。台座の上に乗っているらしい球体はつるりとした手触りで、丁度天井の方向に拳大の凹みが開いていた。何だこれ。
 もっとよく調べて見ようとしたのが仇になったのか、球体に付いていた突起に指が触れてしまった。反射的に身構えてしまう。爆発するでもなし……しないよな?
 カシャン、と駆動音と共に動き出した球体は、程なくして淡い光を放ち始めた。室内の埃をその光線上に巻き込み、映し出す。暗室となった部屋をスクリーンにして。

「————」

 息を呑んだ。物置がプラネタリウムへと姿を変えていた。光の帯。それも人工の星海はただ投影されているだけではない。所々星が瞬いていて、実物など街明かりで滅多にお目にかかったことが無かった目には現実味に欠けている風景だ。誰が残していったものかは知らないけれど決して安価な代物じゃない事だけは分かる。

「と、ぁっ……⁈」

 暗室に灯った光景に見惚れている内に再び蹴躓いた。なんだってこんなに何度も。今度は一体何に。目を遣る。

 見えたのは脚だった。一瞬マネキンかとも思った。投げ出された二本の両足。紛れもない人間のものだった。

「ぁぇ、ちょ……なっ」

情けない嗚咽が漏れて、人間、と頭が認識した瞬間恐ろしい勢いで我にかえった。生きているのかいないのか、兎に角明かりを探さないと。
倒れている誰かの真横はすぐ壁になっていて、重く垂れたカーテンがあった。窓はあったらしい。ご丁寧にテープも使ってある。無造作に掴んで力任せに引っ張った。すると物凄い量の日光が一遍に溢れ出し、両目が焼けたと思うほどの威力に暫く目が開けていられなくなり蹈鞴を踏んだ。

「あの、大丈……」

 棚に凭れ掛かる肩を軽く揺すってみても反応がない。項垂れた顔は見えず、染め戻したのか傷んだ髪、ピクリともしない身体はそれほど大柄ではないようだ。身に付けているのは夏服。同じ生徒であることは疑いようがない。もし夏服の意匠が何十年も前のもので、なんてオチが付いたなら幾らか笑い話にもなったろう。でも指先で触れた腕はゾッとするほど冷たくともまだ血が通っている。スラックスに包まれた下肢は依然びくともしない。

「っ……っ」
「!」

 辛うじてか細い呼吸が聞こえた為、もっと楽な姿勢にさせようと抱き起こして苦しそうなくの字に折れ曲がっていた状態から床へと横たえさせる。埃だらけになってしまうのも申し訳ないが、汗で濡れたシャツを脱いで敷く訳にもいかない。代わりに襟元を緩めて気道の障害となるものを取り除く。首筋を通る血管は確かにまだ脈打っている。まだ大丈夫。早く人を呼ぼう。話はそれからだ。

「——」

 ぐったりと力なく眠る顔には、一筋の乾いた跡が見えた。

 ◆

 未だ雑務に追われていたと思しき担任、芝沼の手を借りて保健室にあるベッドに運んで来てからかれこれ半刻は過ぎていた。
 教師の消えた保健室は空調が利いていて数センチの壁を挟んだ向こう側の世界とは雲泥の差だった。
 症状は重篤ではないようだがはっきりとした意識がない上に脱水症状も出ているから救急車を呼ぼうという養護教諭と、彼の保護者に連絡をする必要があるとかで慌ただしく出て行った芝沼を見送って一息ついた。第一発見者だとは分かっている。だが実際の所何の関係もない自分が関与出来るのはここまでだった。何故あんな部屋に居たのか、どのくらい居たのか。生徒の名前も知らない。役に立ちそうな要素はない。見覚えがあればまだ良かったのだけれど、幼い頃と違ってクラスメイトの半分すら曖昧にしか覚えられない自分には無理な話だ。
 淡い色のカーテンで間仕切られた向こうに、清潔なベッドで伸びた生徒が眠っていた。気を失っている、が本来なら適切な状態かも分からない。
 シーツに手を付いて、改めて顔を覗き込んだ。童顔だな、こいつ。長めの前髪がそうさせているのかあどけない寝顔がそう見せているのか。身長も自分より少し低いし、全体的に華奢だ。肉付きが悪いと言えばいいだろうか。別に取って食おうと言うんじゃないがそんな生徒。どんな声で話すのだろう。気にはなる。もう会う事もないだろうから、関係ないけど。
 手遅れにならずに済んだと喜べる程性根が良く出来ていない。待つ間、下らない事ばかりが取り止めもなく浮かんでは消えた。
 もしこの生徒があのまま誰にも見つからないことを望んでいたのだとしたら。
 例えばその私怨をいつか買ってしまわないだろうか、と言った不安が芽を出し始めていた。
 放っておいてくれるだけで良い、だから近寄らないでくれ、と願う心の奥に潜む結末を、あの時歪めてしまっていたとしたら。

「……運が悪かったな」

 開き直って、ふと呟いていた。そんなの、諦めて貰うしかない。二度目を行う気があるならせめてもっと閑散とした廃墟にでも行く事だ。邪魔が入って欲しくないなら。
 横にあったパイプ椅子に腰掛けて、あの回転する偽物の星空を思い返していた。そうして上の空になっているとドアがノックされた。担任が戻ってきたようだ。漸く帰れると、床に置いた鞄へ身を屈めた。

 ◆

 非常に気まずい。何だろうこの空気は。
 だけど引いたら負けだという謎の意地が一歩足を前に出させていた。

 「あれ」

 たった今気が付きましたと言わんばかりのリアクションに虚を衝かれて僅かに鼻白む。あっけらかんとした様子の生徒は声を掛けるなり手を振った。ん?覚えてるのか。いや、後から誰かに聞いたのかも知れない。心当たりがないでもなかった。担任の顔が過る。職員室を目指していた所で以前倒れていたと思しき生徒と鉢合わせてしまった。駆け寄る姿は何処も問題なさそうに、顔色もあの時よりはずっとマシに見えた。緊急搬送だけで済んだのだ。出会したい相手ではなかったけれど、大事がなかったのなら喜ぶべきだろう。そうこうしているとその低くも高くもない声が近づいて来るや否や頭を下げられ面食らった。

 「ごめん」
 「え」
 「助けてくれたって聞いて」
 「いや別に、ほんと偶々で」

 早和木と名乗った生徒は大袈裟に礼を言う。大したことはしてないし、と言いかけてはたと思い直した。額面通りに受け取っていいものか。早和木が不思議そうに首を傾げている。どっちなんだ。覚えていない?軽々しい雰囲気に呆気に取られていたからか、どうしてだとかもう平気なのかとか、聞くべき事が何一つ言葉になっていかなかった。絵空事にすら思える出来事を辿ろうとする。でも上手くいかない。もういっそなかった事にすれば万事解決するような気がして居たところ、何か思い付いたように手を合わせている早和木が頬を掻きながら苦笑していた。

 「あー、その、あのさ」
 「?」
 「助けて貰いついでに、ちょっといい?」

 通算二度目に立つ扉は一度目と比べて何ら変化のないままだった。距離的にはちょっとではない。
 そういえば早和木は今日何しに来ていたんだろう。関係ないけど、と遠慮なく引戸を開く。開いた。抵抗はない。実は鍵のない施錠出来ない仕様なんじゃないかと疑う。そんな不用心な事あるだろうか。仮にも校舎なのに。目張りもテープ痕も丸切りそのまま残されている。せめて中は覗けるようにしておかないと早和木の二の舞になりはしないかと思いつつも結局何をするでもなく狭い室内を見渡した。あった、まだ。
 散らかり具合もそのままに、床へと転がされていた球体を拾い上げた。早和木の物だという、そのプロジェクターを。

『見覚えあったらでいいんだけどさ』

 ない訳ない。寧ろ遭遇したのはこっちの方が先だった。私物だったらしい。俄かには信じ難いが、頼まれてしまったのだから既に遅い。ノーと言えない性格でもないのに、結局引き受けてしまうなら同じか。
 断れなかった。いや、断らなかったのだ、と憂鬱に納得を与える。酷い既視感の中でぼんやりと思う。にしても今日はカーテンも暗幕も光を遮るものは何もない。徐に再び部屋中を闇に染めてみる、開ける、閉じる。
 だが見えこそすれど四方の壁が主張する圧迫感は激しい。物置を引っ掻き回しては秘密基地と称していた身分としては童心が擽られないでもなかった。どうしてあれほど嬉々として汚れた場所に居たがったのかが今はもう到底理解出来ないが、この部屋はというと倉庫にしては広めと言えても、これだけ物が押し込んであれば殆ど納屋だ。

 手の中のプロジェクターを間近で眺め回すと表面にはアルファベットでロゴが入っていた。しかしとうに掠れて驚くほど読めはしない。扉を振り見る。廊下の表札にしてもそうだ。此処にあるものはどれも隠れるのが得意だった。一人を除いては。また反対の壁際を見てみる。そこだけ丁度空間が開けている。きっと早和木が退けたのだろうと分かる。幸運にも丁度いい空白地帯だっただけかも知れないけれど。

「……あれ」

 早和木へ届けに行きすがら、何度かスイッチを入れてみた。投影レンズを覗き込む。反応がない。いやバッテリー切れだろう、恐らく。何せ数日以上は放置されていたのだから。
 もしかしたらあの後も作動し続けていたとしたらそれも頷ける。
 結局、早和木が何を見ていたかは皆目見当も付かなかった。顎先を伝い落ちる汗を拭う。

 夕陽の差した教室に一人で居たからだろう。声を掛けるとハッとしたように早和木は振り向いた。

「見つからなかった?」

本当に?と懐疑的な視線を受け取る。多分、気付かれてはいない。ポーカーフェイスではないが表に出難い性格が初めて役に立った。嘘は吐いていない。早和木の求めていた「正常な」プロジェクターは、あそこには無かった。代わりに故障した方は今鞄の底に沈んでいた。

もしも君になれたなら

 

 そんな錯覚を手にして
 ぼくはきみを壊してしまうかも。

『佑太 いまどこ』

 

 やけに多い人混みの中。辺りの喧騒はもうずっと長いこと静まる気配もないのに、その声を聞いた途端一瞬で全てが途絶えてしまったようだった。
受話口越しのがさついた命令に、唇が強張って動かない。動けない。
たった一人しか連絡先に登録の許されていないその相手からの第一声は、殆ど死刑宣告と遜色なかった。

 『どこ?』

 問いの意味は分かっている。応え方も、その言葉もしっかり用意されて頭に浮かんでいる。
 それなのに、どうやって話していたのか忘れてしまった様に動きとかいうものが失われた身体は、携帯を握り締める以外の動作が出来なくなっていた。瞬きも、呼吸さえも。

 『おい聞こえてんだろ。佑太?』

  聞こえてるよ

 でも今は深夜で、今朝も部屋に居なかった同居人からの電話が何故今掛かって来るのかと、感覚の乖離してしまった頭が考える。同時に、殴られた肩口が痛んだ。

 『何でこんな時間に外出歩いてんの、佑太』

 誰が許したの?

 許されていなければならないような事をしたつもりはないのだけれど、同居人の語気は強まるばかりで 『ああこれは』そう脳裏に過った瞬間、背後でけたたましい破砕音が聞こえた。機械越しの甲高い主張が鼓膜を劈く。

『なぁ、何でって訊いてんの。もしもし?』

 何を割ったんだろう。この前新調したばかりのカップか。気に入っていたのに。それともあの古めかしい、何処から持って来たのか分からない花瓶か、軽いだけが取り柄のつまらない柄が入った旅行土産の絵皿か。取り留めもなく、止め処なく流れる思考の波濤は正しく現実から逃避するために頭が働いている証拠で、視界が、顳顬がじわりと熱くなっているのは気のせいではなかった。頭が重い。立っているだけで正気が地面に吸い取られてでもいるように?笑えない。だってほんとに、その通りだった。

『おい、聞こえてんだろ。無視—— 』

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

 その日は足がとっても軽かった。

 自身を憐れんで視界が滲んだ。その溢れる涙を拭いさえも出来ないのに。笑う訳もこれっぽっちも分からないのに?こうして頬を濡らす僕が辛うじてまだお前と同じ類の生き物らしいことの実感が湧く瞬間酷い吐気がした。

 ◆

 潮騒の音が聞こえる。それから、遠くの船の汽笛も。

 そんなはずはないのに、両腕で覆った目頭はあつくて堪らなかった。

 失敗した、失敗してしまった。
 何度も何度も、同じように繰り返し繰り返し意識が沈むのを待った。
 けれど閉じ切る瞼越しの、白く明る過ぎる室内がそれを許してくれることはない。隙間から差し込む潔癖に清潔な光が肌を焼いた。

 何処にも行けやしなかった。ただ目の前には追われ続けた挙句連れ戻された現実だけがあって、今度こそもう二度と逃がさないと俺を睥睨している。逃げやしない。もう逃げられやしない。何処にも。

 何もかもが、一度でいい。一度でいいから全て無くなってしまうだけでよかったのに。
 どうしていつもこうなんだ。望んでも叶わない。行動を起こしても結果は変わらない。
 痣で彩られた身体を無理矢理ベッドから引き剥がして、何とか床に足を下ろす。ふらついて、重心が高くなってしまったような足取りに蹌踉めきながらもなんとか立ち上がる。
 何だ、断てなかったどころか無傷だったんじゃないか。通りで生きている筈だ。

 こんなんじゃ、こんなんじゃ

 殺されてしまったほうがよかった。
 このまま、緩やかに生きたフリを続けていくしかないのか。
 蹲って、暗く眩みかけた視界には白く無表情なままの壁。ああそうだ。今は一体何時なんだろう。というよりも、昨日の夜からどれくらい経ったんだろう。またあいつから着信が来てしまう。
『なにしてんだ』って。

「 っ、……」

 冷汗の止まらない手足が、溺れた時のように痺れ始める。最近はずっとこんな風だった。何もしていなくても突然身体が強張って動かなくなる。
 けれど擡げた頭を上げて映った景色に、別の意味で動けなくなった。

 は?

 足元の一歩先は、僅かな明かりを反射して光る海だった。部屋の中、足を下ろした場所以外辺り一面が硝子の海原になっていた。比喩じゃなく、文字通り砕け散った硝子の破片がそこら中に散乱している。寧ろそれ以外に床には何も転がっていない。さっきどうして破片を踏み抜かなかったのか不思議なほどそこは荒れていた。数歩踏鞴を踏んで、再びベッドに腰が沈む。よく見るとそのベッドのシーツも、所々引き裂いたように千切れて波打っている。脈に合わせてブレる視界に、動悸が早まっている事に気がついた。そもそもあの踏切からどうやって俺は帰って来たのだろう。覚えていない訳がないのに。
しっかりと見回して認識する。自室じゃない。

 ここ は

 部屋から勢い余って飛び出した。肌が切り刻まれるのも構わず扉を開いた。そうだ。やっぱりそうだ。見覚えのある廊下、見覚えのある扉。ささくれ立って耳の痛くなる空気、静まり返りきってまるで一人しか住んでいないかのような部屋。チリチリと切れた痛みを訴える足先の感覚が這い回る虫のようにただそこに立っているだけで叫びたくなる焦燥を与えた。
 今度は膝をついて、やはり皮膚が切れるのも厭わずに破片の水面に目を遣る。答えはちゃんとそこに映っていた。

 今度こそ俺は叫んだ。

 「あ、あああああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあああああ‼︎‼︎‼︎……」

 聞き慣れた悲鳴が耳の奥で反響していた。

 ◆

 ツー

 『佑太だけど、今は出られない。直ぐ掛け直すから少し待って欲しい 悪い』

 手元の受話口からする電波に歪んだ聞き慣れない自身の声だけが鼓膜を震わせた。俺ってこんな声だったんだ、と嫌になる程思って、また掛け直して、そして現実は本当だったのかと馬鹿のひとつ覚えみたいな思考を続ける繰り返し何度も繰り返す。
どうして自分の携帯に掛けて、自分の留守番メッセージを聴いているのだろう。おかしな話だ、架空の話でも見ているような?あいつの携帯を握り締めて、焦点の合わせられない頭でまた言い聞かせる。
決まってる。今あいつ、「藤間」なのは、俺だったからだ。見慣れた風景の中に見慣れた人間が居る。だけど中身は、本人じゃあなくて。違和感の塊が肉を得た、そんな実感が胃液を逆流させる。この部屋の主が何を割ったのか、何をしていたのか。それ自体は余り重要な事ではなくて、問題はこの破片がいつからあったのかという事だった。もしかしたら、もしかすると、俺こと「佑太」はもう居ない?そんな疑念が浮かんだからだ。
だとしたら、だとしたら、なんだっていうんだ?

目覚めた時は微塵も思わなかった願いを、ひたすらに唱え続けている自分が居た。

 『 佑太?』

 『ただいま』

『すぐにかえる』とだけ入ったメールに、俺は今度こそ頭がどうかしてしまいそうだった。
 自分宛に、自分からメールが返って来る。そんな現実に?

 違う。

 だって、あいつの身体には今、理由なんて知りもしないけれど、意味なんて分かりもしないけど俺が居る。じゃあ、今俺である佑太の正体は一体なんだ。

 「ただいま」

  慌ただしく開いた玄関に立って居たのは紛れもなく鏡越しの俺で、服も踏切に飛び込んだ時のままだった。何にも変わらない。毎朝見た自分の生写しが居る。
 極彩色の痣に彩られた手足、その腫れた目でさえも、何にも変わりはしない。いつも通りの自分、いつも藤間に殴られている自分。

 「ど……した?何、その怪我…… っ」

 それでも使い慣れない声帯が普段はまず絶対に言わないだろう言葉を発した。あいつが俺を心配するなんていう違和感。実際は、自分で自分の心配をしているだけ、なんていう奇妙な自虐の模倣品。
 思わず噎せて、本当に大丈夫かと問いたいのは俺自身だろうにと酸素の足りない脳でぼんやり思う。
 しかし佑太、 恐らく藤間、はそんな怪我なんてなかったかの様にもう一度だけ「ただいま」と笑う。
 『お前の仕業だろ?』と目が言う。

 ふざけているのか、ガーゼで顔の半分も見えないその顔が赤く笑っている。

 「……と、うま?」

 恐る恐る、震える声が問い掛ける。

 「なんだよ、『佑太』」

 藤間はそう答えた。答えた。言った。笑ったんだ。目を瞠る。
 凡そ自分が見えていないような純粋さで、何もかも知っているような顔が向き直る。

 とても透明だと思った。

 次の瞬間、俺の中の奥の深くの向こうの何かが弾けて駆け出していた。駆けてそして、

 自身を殴った。殴り付けた。

生まれて初めて自分を殴った。自分で。

 

 

 し

 

 

 ね

 

 

 あ、ああああ

 

 

 

 

 奇怪な嗚咽に似た声と共に飛び起きる。

 「はっ、……っ!」

 ゆめ、だったのか
 ゆめだったのか?

 こんなにも胸の悪い寝覚めはなかった。冷汗は既にシャツに染みを作って襟がびたりと肌に張り付き気持ち悪いし暑いのに寒くて目眩がする。
 辺りを見回すと、何のことはない。いつも通りの代わり映えのしない自分の部屋だった。雑然とするにしては物がない、殺風景な部屋で眼が覚めた。
 その事実に心底安堵する。吐きそうなくらい。

  「はは、痛って」

 同じだ。ベッドから落ちてもいないのに痛む全身も。殴られた痣の位置も傷の場所も、覚えている限り自分の物だ。ちゃんとおれは俺でいられている。よかった。昨日から今まで、何も状況は変わっていやしない。よかった。悪い夢が重なって、どこにいるのか分からなくなる所だった。どうしてあんなもの見てしまったんだろう。

 夢だったとしてももうあんなのはごめんだ。
 あいつと替わってしまうくらいなら、手でも首でも骨でも腑でも持っていってくれ。そっちのが全然いい。
 ベッドに転がっている携帯の画面には修復出来そうにないヒビが入っていて画面は暗転している。だから時間を知ることは出来なかった。あの踏切で落とした時にでも割ったんだ、きっと。胡乱気に窓を見遣ると空は既に薄暗い。夕方はとうに過ぎた頃だった。
 やっとのことで落ち着いて来た。息を一つ大きく吸い、瞼を閉じ、そして吐きながら開く。

 カーテンの向こうからは、明滅する街灯の光がちらついていた。

 身動ぎする度に不快になるシャツを乱雑に脱ぎ捨て風呂場に向かう、出来るだけ早足で向かう。
 洗面台正面に掲げられた大きな鏡を覗くと肌色を鮮やかな青と赤、そして紫と黄色に塗りつぶされた身体が映り込んでいた。
 一番新しいのはどれだったかと探し出すと時間がいくらあっても足りはしないので適当に眺めて浴室の扉を開ける。
 ひやりとしたタイルに火照った体温が吸い込まれていく。シャワーヘッドから噴き出した冷水と一緒に不快さも流れていく。排水口から出て行く。
 器用なことにあいつの暴力は予想よりも遥かに理性的で、目につくところは避け服を着れば見えなくなる場所ばかりを狙う。やられているときには全くそんな素振りは見せないのに只々器用だと思う。
 だから外面はいつも綺麗なままで、多分この傷を誰かに見せたところで誰も信じる人間は居ないのだろう。俺の自演とでも思われておしまいだ。そういう、やつ。

 あいつは

 ああ、今頃、あいつは何をしているんだろう。
 部屋にいる様子はなかった。だからきっと‪今夜‬はもう帰らない。沸々と、腹の底から違和感が溢れる。

 ならいいか、と湯船に浸かる直前、ユニットバスの便器の前で喉奥へ指を突っ込む。

 「っぉっぅぇ……ぇっ……」
 
 ぼたん、ぼちゃんと今朝食べたらしいそれが汚らしい音を立てて零れ落ちる。食道の焼け爛れる不快さに再び吐いて、口腔に満ちる酷い胃酸の味にまた吐く。結局それでも足りなくて、何か食べた後にまた吐けばいいか、とぐちゃぐちゃになった思考と一緒に吐く、吐く。
 シャワーの水が傷口に染みた。夢の中で切った手足を確かめてみても、そこに怪我はひとつもない。当たり前だったけれど、何故かとても間違っている気がした。こんなのは違う。おかしい。

 ぼんやりとした考えが水煙にまかれて、無意識のうちに手に取るそれは赤黒い錆に覆われている。肌に当てがい、力任せに引っ張る。

 出て行け でていけ あかいのもしろいのもくらいのも、ぜんぶぜんぶでていけ

 ぜんぶはいて、きれいになれ

 そうしたら、おれはもういちど くろくなれるはずなのに。

 気が付くと、また俺はあの部屋に居た。
 けど二度目の夢は少し状況が違った。床に破片は欠片もない。まっさらな部屋に一人、取り残されたみたいに立ってた。
 何処に消えた?
 あいつは何処に行ったんだ?

  風呂場で何をしていたかなんてもう頭には残っていなくて、あるのはそんな狩猟本能のような思考だけだった。続きをなぞるように、ひたすら頭にあるのはそんなことだけで、ずるずるり、ずるり、足を前に一歩、二歩。
 どうせ現実じゃない。どうせ、どうせどうせどうせどうせどうせどうせ、名残惜しいなんてすら思わない。傷も残らない。なら好きにしてやればいい。

 藤間、藤間?
 何処に行ったの、藤間。

 手探りで部屋を進み扉の取手に手を掛ける。蝶番の軋む音がして飛び出した廊下は暗いまま。誰の気配もない薄暗い道の先、突き当りから漏れる光に目が釘付けになった。

 シャワー、の音が聞こえる。けれど誰かの、浴びているであろう筈の誰かの水音は、ない。

 早足で辿り着いた水場に湯気はなかった。流れているのは冷たい水ばかりで、湯船に湯は張っていなかった。代わりにそこに居たのは

 土気色をした自分だった。

 視界の端にはさっき自分が手にしていた剃刀と赤黒い体液が入った。

 
 
 「あれぁぇ?」

 酷く奇妙な嬌声が聞こえた。

 ◆

 「……————」

 ヒュッと喉が鳴った。
 あれ、今何時だろう、辺りはまだ暗い。

 「⁈」
 
 俺の部屋。いつものように生きている部屋。生きていていい部屋。

 「と、ま……?」
 「——……」

 俺の隣には藤間が寝ていた。あれ、なんでこんな、おかしい。夢じゃない。藤間は普段の染めて傷んだ髪のまま、ピアスも外さず俺の隣で寝てる。また誰かと寝てるんだろうな、とか考えて過ごす為のベッドの上で。なんでかなんて知りたくない。そうじゃない。

 「……っ、て……」
 「あ……ごめ、」

 藤間の頬が切れている。擦過傷を作った頬に無意識に手が伸びて、触れた途端に瞼がびくりと痙攣した。瘡蓋は出来ているがその周辺がまだ赤らんでいるのを見ると、どうやら相当な力で付けられたものらしい。自分の身体で見慣れているだけだから医者ぶったことは言えないけれど、兎に角喧嘩でも何でもして付けたのかな。分からない。分からないけど、気にするななんていうのは無理な話だ。

 「ゆ、た?」
 「……大丈夫、これ」

 いつもならもうこんな、こんな事を発した時点で殴られる覚悟はしていた、のに。

 「さわんな……」
 
 不機嫌さはなくならない、明日の朝にはまた散々な目に遭うかも知れない。でもおかしい。おかしいんだよ藤間。

 「ねぇ、誰がやったの」
 「っおい佑……」
 「それどうしたの?大丈夫なの、痛い?痛いよな」

 徐に身を起こして藤間の顔一杯に自分の顔を近付ける。つまらないタバコと香水の匂い。あー、抱いてる、確実に金で呼んだ奴を抱いてる匂いがする。何でだよ、俺はお前の事しか考えないで狭い部屋で待ってるって言うのにお前は好き勝手してるのっておかしい。殴るのなんてどうでもいいけど俺なら金なんて要らない。従順にして何でも言うこと聞くのに、それじゃダメなの?

 「ってぇ……って言ってんだろ」
 「っ!」

 何何々何なんで、そんな反応するの、何で蹴り飛ばして捻り上げないの、ねぇ何でそんなやめろよ、そんな顔しないで。
 藤間は俺の手を払い退ける、だけしかしない。出来ない?

 「佑……っ!」
 「は……ねぇ藤間、藤間俺——」

 「……つっっ!」

 どうしよう
 キスを貪る舌が絡まる、何か言おうにも何も言いたくない。必要ないよ。

 「ん……っぅ」

 こいつを壊したい、今すぐ跡形もないくらい。

 「は、ぁ……っ!」
 「ふ……っあつ——」

 これ以上長くキスをしていると舌ごと噛み千切られてしまうかな、と身体を押して離れるけれど、火傷の痕を引っ掻きながら抵抗にもなっていない抵抗をしているのがとてもとてもとても愉しい。待ってって言ってるみたい。何だこれ、ふざけんな。

 「何してんの、それお前がやった奴だよ——熱かったんだよなぁ……あぁ、そういうこと?」

 やって欲しいの?と囁くと藤間は顔面蒼白になって俺の下で足掻いてる。馬鹿だなぁ、寝起きの癖に敵うわけないのに。こいつこんなに莫迦だったかな。
 押し倒した藤間の着てるスウェットに手を突っ込む。ポケットの中にはいつものセットが入っていると分かっていて、開封したてのタバコと火種のコンビを目の前でチラつかせる。こんな不味いもの吸う趣味なんてないけど、一本咥えて取り出したら点火する。肺になんて入れてやらない。フィルターから少し息を吹き込むと先端が光って赤々と主張を強める。ベッドヘッドの灰皿を引っ張って来て、芯を叩いて灰を少し落とす。もういいかな、このくらいで大丈夫だろう。

 「せっかちだなぁ……」
 「や、待っ……っ佑太ぁ!」
 
 指で摘んだタバコをゆっくりと、服をめくり上げた肌へ焦らすように近付ける。慌てないで、もうちょっとだよ動くとズレるよ。嫌ならじっとしなきゃ動くなよ藤間の癖に。

 「やめ——

  っぁ゙ぁ゙あ゙っァ゙ア゙ァッぁ゙っ‼︎‼︎」

 ジュッ 
 肉の焼ける匂い 
 君の匂い
 
 収束 明滅 再臨 恍惚
 収束 明滅 再臨 降伏

 「どう?俺とお揃いだよ」
 「ァァッ……づっぁ……っ」
 「何とか言ってよ……痛い?」

 肋骨と胸郭の間にタバコで作った真っ赤な花が咲いていた。特にここは痛いんだから失神しなかったのは褒めてあげたいなぁ、俺はダメだったから。こんなに熱いものじゃかえって痛いかどうかもう分からないと思うけど。
 ぎゅじゅりぎゅじゅり。肌に揉み消すみたいにして押し当てると藤間はよく鳴いた。良かった、痛いんだね。おんなじだよ、俺はお前とおんなじだ。おんなじだったんだよ、でもなんで?

 「ふ……ぅぁ」
 「はぁ……なんで?ねぇ藤間、」

 「‼︎」

 赤くなった火傷痕の更に下。明らかに異なった様子の箇所をゆるゆると撫で回してみると、露骨過ぎる反応が齎された。あぁあぁああどうしてくれようか、この無様で可愛い生き物を。

 「なんでココこんなにしてるの?」
 「っぃ……ぁ」

 「いっっっつも俺のこと酷くするのに……藤間の方がよっぽどこういうの好きだったんだ?最低だな」

 最低、最低と言葉を重ねると次第にその気になってきたものと見て、耳をピアスの上から噛んでやった。シルバーの硬質な感触が歯に当たって何とも言えず愉快な心地になる。キャッチとボール部分を纏めて噛み締める。大袈裟に跳ね上がる肩が堪らなく劣情を煽るって気付いていないだなんて言わせない。二度、三度と舐る、食む。藤間の鼓膜には堪えきれない責め苦だろうな、なんて思ったとしても手心を加える期待はするだけ徒労でしかないんだよ、でしょ?
 だって藤間は、嫌がって手を緩めた試しなんてない。泣いても喚いても絶対に止めなかった。一度でもそうしていれば良かったと悔やんでも遅いのだ。苦しんでよ、いや違う、藤間だって待ってたんだ。今は何も考えさせたくない、壊したい。そうしてばらばらになった自分を敷き詰めた部屋で泣いて欲しい、俺がそうだったように。

 その時だけ「好きだよ」って言って。
 それ以外は要らないから。

 好き、好きだよ。服従して欲しいくらい好きなんだ、藤間のこと全部を好きになってる。
 なのにおかしな感じだ、それ以上に黒い情動を隠せなくなっていく。

 「ビクビクしてる。火傷してるのに、興奮とか」

 嘲りを含んだ命令に何の返事もないから、ぐずぐずと表皮の溶けた部分を舌で突く。またしても上がる嬌声。悲鳴?この火傷が全身に広がっていって、丸焦げの姿を想像していたら頭を掴まれた。髪を引き千切ろうとすらする力で、と言いたくても言えない程の弱々しさが顔の横に添えられた。やめて欲しくないみたい。

 ああ、愛してる
 腑の底から爪先まで。
 でも藤間でなくてもいいのかな。
 分かんないや、ねぇ。

 「ば……っか、ぁっっ、舐めんな……っ!」
 「ん……やら、嫌に決まってる」
 「ひぁぁ……っ!」

 
 舌を這わせながら側頭部を掴む手を引き剥がして、薬指の付け根を思い切り噛んだ。薬指の径に沿ってぐるりと赤い輪が出来上がったのを見て満足するとガチガチに勃ち上がった竿を嫌ってほど丁寧に触れた。萎えていない、良かった。
 最初はとろとろになった先っぽから、徐々に根本へ向かってゆっくり。焦らしてるって分かっていても火で炙った痛みと比べ物にならないのだから下手な文句も言えなくなってる顔を見て微笑んだ。

 「ね、挿れたい……藤間」

 力無く頭を振って拒むけど、別に許可を得ようとなんてしてない。今のは宣言に等しい。慣らしてないけど藤間には必要ない。痛いって分かればいい。俺とお前はいつだってこうであるべきなのだ。

 ぐぅぅ、と捻じ込む先端に体重を乗せる。割れ目を押し開いて肉を裂き、動き易くなるまで浅い所を抉る。

 「が……っぁ……ぅ!」
 
 汚い声。でもやっぱりそれでいい。雌犬みたいに鳴かれても抱き潰してしまいそうだし、処女ならこのくらいでも許される。でも藤間は許さない。

 「どぉ……?初めて、藤間のナカ」

 熱くて狭い。
 奥まで導いてくれるのに合わせて、ズッ、ズッと性急な律動に身を任せる。

 俺が、俺だけしか知らない痛みだ。与えてあげる。俺なんかが受けたぜんぶ。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ藤間にあげる。あげるからぜんぶのみこんで。吐いたらだめだよ、泣いてもダメだよ。ぜんぶちゃんとたべてぶち込んでやる。

 「痛、かった、んだよ、毎日毎日、お前はさぁ、見ろよこれ、なぁおい見ろって‼︎」

 シャツの前を捲り上げ、黄色と赤と、それから青の痣を晒させてヒステリックに叫ぶ男の声は耳慣れたいつもの罵声だった。やっている事は鏡越しのあいつで、殴っているのは俺?
 もう理解したくない。考えられるか?あの藤間が俺の下で泣いてる最高だ仕方ないよなしようとしたけど無理だったんだよだってこんなにたくさん俺は殴られて来たのにその俺を今は俺が殴ってる怒りからでもなく悲しみからでもない何かで。

 頭がヘンになってしまった。いやもうなってる。なってた。だったらなんだよ。当たり構わず振り回していたつもりの腕は全部が藤間めがけて飛んでいく。君の頬が赤く染まって綺麗だ。

 「っ…… ぃっぐ、‼︎ゆ、た……ぁ……ぃた—— っ」

 「なぁっ、俺どうしたらいい?どうしたらお前を殺さなくて済む?藤間、とうまぁっ‼︎」

 限界だった。
 首筋に指先が食い込むのを、じっと見ていることしか出来 ない。

 もういい

 ぜんぶいい

 はやく

 はやく 
 はやく
 はやくおわって

◼︎夢だと思って

 夢だと思って、俺は玄関前の人間にこう言った。

 「今日は何時ですか」

 夢だと思って俺は彼にそう訊いた。

 「ええ、良い天気ですね」

 夢だと思って、俺は彼の手を取った。

 夢だと思って彼の指を手に取った。

 夢だと思って、夢だと思って。

朝寝坊

お題/朝寝坊・ほだされる・舐め取る

 時計ばかりを気にする性分が抜けない。今か今かと目覚めを待ち焦がれる様は傍目からには餌を待つ犬と同じなのだろうか。甚だ遺憾ながら間違いとも言い切れないのだから、つくづく呆れ果てるしかない。
 それもこれも全て今日という日がいけない。カレンダーの印は休日。窓の外は恨めしくも曇りなく晴れ渡り、ベランダの下を覗き見ると賑やかな子供達の歓声が遠ざかっていく。こんな馬鹿な期待を持て余して隣をもう何度見ても重怠げに閉じ切られた瞳が開くことはない。カーテンの隙間に差し込んだ指を払って溜息をついた。
 このまま一日中部屋に篭り切りだっていいんだ。どうせ明日は雨だと聞いた。天気なんて気にしてない。空模様は関係ない。でも立ち込めるこの気分はなんだ。
 抜け出していた部屋に戻ってみると、決して大きくないベットの上に一人、起き抜けの姿があった。

 「寒いんだけど」

 起きたと見るや不機嫌に歪ませた顔と鉢合わせる。

 「なぁ」
 
 ほだされた方の負けだと分かっているのになんでこんなんで泣いてんだろう。

 「……馬鹿じゃないの」
 「な、っに」

 目尻を熱い舌に拭われて出ていたものも引っ込んだ。急に何てことをするんだこの男は。

 「起こせばいいのに」
 
 そんなこと出来たら苦労しない。出来ないからこんなことになっているんじゃないか。

 「待っ……おい、って」
 「うるさい」
 
 引き摺り込まれた腕の中で喚くと、更に力強く拘束されてしまい口答えるのもままならなくなってしまった。二度寝でもする気かこの年中引きこもり野郎。

「……遅いんだよ」

 ぼそりと呟くと、黙らせるように唇を塞がれていた。

お題/サイダー・鼻歌・急所

 湿り気混じりの真夏が振り撒く、執拗な暑さには殆辟易させられる。しかし熱帯夜の寝静まった街頭に漂う陰気な、それでいて何処か爽やかにすら感じる清々しさは嫌いじゃない。知らず軽くなる足取りが通りに響き渡る。今夜の相手は誰だろうな。構やしないか、誰だろうと同じだ。知らない路地で調子っ外れの鼻歌がしている。何処の誰だか知らないが良いBGMには違いない。憂鬱な夜にはぴったりだ。道端に捨てられたサイダーの空瓶を見つけ、何の気無しに勢い良く蹴り飛ばす。少しでも問題を先延ばしにしたいが為の時間稼ぎみたように。あらぬ方向に転がった瓶は閉じ切られたシャッターにけたたましく打っつかって大人しくなった。からからからからからからから。甲高い主張に天啓を得た。
 閃いた、今日はこれにしよう。ブルーシートはあったろうか。

 「んん、ぅうんんんん‼︎」
 「へいきですよ。すぐおわりますから」

 無機質な部屋の中、拾った瓶の口を握って壁に叩き付けると辺り一面にペールブルーの海が広がった。破片の水面を踏み砕き、汚らしい嗚咽で顔を濡らす肉袋を宥め賺すも効果は薄いようだ。
 簡素な室内でがたがたと喚いて悪足掻きをされても困る。赤ん坊をあやしているのではないのだけれど、大抵目覚めたら皆一様に似た反応をする。何一つ後ろ暗い記憶を持っていないのならここへ辿り着いたりはしないのだから、諦めて貰う他ない。
 鋭利な先端をちらつかせると怯え切って震える口元で猿轡を噛み締めて首を横に振るばかりになってしまった。脳震盪になりそうな勢いだったが、瓶から凶器へ昇格した得物は中々どうして不敵に輝いている。目の高さまで持ち上げた切先を急所にあてがう。あともう一息、一思いに引ききってしまえばお終いだ。
 というところで。

 「あ、っうぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァッああぁぁぁぁァァッぁぁぁァァッァァッ——っ‼︎」

 「あ」

 パニックを起こした身体が一瞬で脱力した。どうやら失神したようだ。まだ五分しか経っていないのに。俺にとって大した値打ちもないなら手間を取らせないで欲しい。部屋で待つ彼の為にも。ああ、喉が渇いた。これは時間泥棒だ。取り出した端末を片手で操作する。

 『もう終わる?』
 「もうちょいかかる。待ってて」
 『分かった』
 「あーそうだ」
 『なに?』

 『買っておいて欲しいものがあったんだ。丁度飲みたくなって来て——』

わらう

 嗜虐

 嫌いな物は何か?
 蒙昧な無邪気さを装っている。
 
 『人と食事を囲む事』
 『人と並んで歩く事』
 『誰かと一緒に』

 最後の方はもうとうに興味も失せていて記憶の何処を探しても見つからなかった。

 けれど

 けれど何だか俺は、そいつが同じ年まで生きてきた事が間違っているんじゃないかと直感した。

 奴は透明だった。
 ただ誰の目にも映らない影に仮に名前を付けたとして、果たして人と表現出来るだろうか。俺には違和感だけが残された。

 奴は何処にも存在などしていない。
 多分きっと、明日には影すらもなくなると。

 俺は考えた。

消すのと消えるのと。
どちらがより、有益なのかと。

◼︎衝動殺人

 飛び降りる彼が好きだと思う。

 高い所から飛び立つ彼がただ愛おしいと思う。

 低い地べたを這い回る俺と同じ細胞を持つなんてとても考えられないような存在証明に酩酊する。
 この衝動の飼い殺し方を彼は教えて行かなかった。

 生きた人間の愛し方を彼は殺して行った。

◼︎繭糸

 それで僕は

 解けた自分の中で眠る

 不帰と呼んで 哀しんで

 惨めな涙を紡いだら

 何個目かの僕の 

 できあがり。