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露に訪う

 
 生来より病弱な彼の手足は痩せ衰えた皮と骨ばかりだった。ごつごつとして節が浮く節々の細さはまるで蜘蛛のようだと柄にもなく私は、世話を任されている青年に溢す。気を悪くするでもなしに彼は苦し気に乱れた息遣いの奥から何かを思い出したように話し始めた。
「庭木の枝葉に姿を現す蜘蛛がいるとね、巣が鬱陶しいと言って家人は皆すぐに払ってしまう。それが僕は酷く惜しい」
「惜しいと言って、君が損をするようにも思わないが。開けたままにするのはよしてくれ。体に障る」
「雨後の巣が僕は一等好ましいんだ。巡らした巣に、晴れた日中に紋白なんかを絡めとる巣にね。ふと見るとひょいと昨日の雨がかかっている。とすると、夜になって眺めていると今度は巣に月がかかっているんだ。ほら、あんなにたくさん」
 彼は指した庭の方を見て無邪気になっている。久しく見なかった明るさである。
「水に月が映っただけだろう。しかもどうせすぐに乾いてしまうのに」
「そうとも言うけれど、何せ僕は外に出てはいけないから蜘蛛がそんな風に商いをしてくれるのが嬉しくて堪らないんだ」

「どんな商いだ」
「巣を壊さないお代に僕は蜘蛛に月を売って貰うんだ。そういう風に、小さな頃は月売りだなんて呼んでね?君が来ない日はついそんなことで気を紛らわせてしまう」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうだね。夢見が過ぎると思ってはいるのだけど」
「違う、そんな事じゃない」
 違う、と重ねる毎に次第に曇っていく伏し目は諦観に満ちた暗い影を落としていった。
「水を変えて来る。大人しくしていてくれ。すぐに戻る」
 乾いた礼を聞き切るより先に出て行こうとする最中に袖先を引かれ、離れることが叶わなくなった。

「……すまない、下らないことを言った」
「そうだな。これまで“来ない日”なんてなかったろうに」
「お前になくとも、僕にはあったんだ」
 
 あった、と穏やかに、けれど確かに言い切る強さに絡め取られてそれはじわりじわり引き出されていく。薄ら灯りを障子戸が格子に遮り、土気色の肌はより強く重く闇に近い色を宿していた。

「今少し待っていてくれ。頼む」

 あと少しだけ、あと少し、彼の元を訪う誰もを自身にに先んじることがないように手を握り締めた。

待合室

 傍らにある観葉植物に生命力を奪われている患者達は、院内放送に従ってドアに吸い込まれる。入室した前と後のとの違いに、診察の結果は必要なかった。強いて目に見える違いはない。次から次にドアに吸い込まれては新たな出会いを待っている。俺の前と後と、上と下の患者達。白影の記念写真を受け取り退室する前と後で、モニターに並ぶ減り続ける。待っていた。呼ばれる場所も整理券も渡されないで俺は待合室のソファに腰を下ろす。硬いソファが何列もある。座り心地を診てもらうべきだ。外来受付の時間は過ぎている。見舞客が来ても病室は空きだらけだ。空っぽに花束を手向けて花瓶は用済みになる。庭は荒れている。ホースは繋がらない。今日は来るはずだったんだ。よく滑る階段を上って、土くさい屋上の涼しい顔を気にしない振りをする。両輪が空転する意識だけが取り残されている。
 階下は花畑だった。季節外れの満開模様を眼下に、歓声を後目に。
 いやな光景だった。いやな風景だった。

 待合室に戻る。やがて案内があるのは誰だか俺はもう知っていた。
 いやな並びだ。いやな順番だ。
 見舞客を見舞って、案内が響き渡る。お悔やみ申し上げます。
 悔やまれなくっても、必ずお前を迎えに行くよ。屋上から。頭上から。
 そしたらまた会おう。そうすれば、欠けた頭の足しになるから。

Autopsiesaal

 視界が真っ赤になった。それはもう見事に赤一色になった。遅れて届く嫌な匂いが鼻をつくのだけど、そういえば物心ついた時にはとっくに苦手な匂いだったからいつまで経っても好きにはなれなくて当然だと思った。いつもの教室で起きた出来事は変わりなく過ぎる予定になっていた筈の午後を狙い撃ちにした。せっかくの金曜日になんて仕打ちだろう。況んや貴重な昼休みに起こってしまえば、当然遠巻きの生徒は迷惑顔になりもする。そこはかとなく申し訳ない事をしてしまったと思わないでもない。原因が誰かはこの場合些事だった。
「っとー、悪ーい」
幸い目には入らなかった。分厚い眼鏡を掛けていたから。代わりに夏服のブラウスがこれでもかと染をこしらえていた。酷い有様だった。
「おいおいお前これどうすんだよ」
「やっべぇ俺の一六〇円」
「しゃーねぇなぁ俺が奢ってやるって」
「うわマジ?超助かるー」

「はぁ……」仕方ない。今日はもう帰って洗うか。向こうも俺が居ると気不味いだろうし、白い眼で見られながら授業に集中するのも難しい気がした。どうせ逃げ口上だけど。どうせ教室の席はない。戻る必要もない。一度廊下に出てからロッカーを引っ掻き回して体操服を探し当てる。あった、一応。ジャージの裾は見事に切り刻まれていたけれど、背中に何か落書きされていたりはしなかった。幸運だ。常に白くあるべき半袖ウェアの方はというと使い古した雑巾のような色に成り果てていた。ような、ではなくてこれから雑巾にしてしまえば名実共に服から掃除用具へと早変わりだ。その方がかえって清々しい感じもする。けれど汚れた教室をそのままにしておく方が後々面倒くさい事態になる。自分の昼食を気にしている場合ではない。
でも何ジュースだろ、これ。
 匂いはきつくも強くもなく、野菜ジュースの類かと思っていたけれど実は絵の具を解いた水かも知れない。びっくりするほど手間のかかるジュースだったら些か悪いことをした。まさか週に何時間と過ごさない美術室から画材を引っ掻き回して来たんじゃないかと思うと。給食でよくある牛乳なんかであれば派手に汚れなかったろうに。今日日牛乳をパンと供する高校生が居るかは知らない。購買でも見かけないなら既に絶滅したと言う事にしておく。
「閑谷ー、お前何だその格好は。制服はどうした」
「昼休みに、その」
「…………」
 何故だろう。こんな日に限って、こんな人に見付かる。何だかな。何だかなぁ。指導の長峰。普段は校門前に張っている。避けていれば鉢合わせしないで済んだ人種だ。避けていれば。こんな状況で、この口煩い筆頭に目を付けられるとどうやっても騒がれるに決まっていた。しかも面倒くさがり過ぎて口を滑らせずにいられるかが常に死活問題だ。うっかり教師に直接伝えてしまったらなんて考えたくもない。
「水遊びをしてて」
「…………そうか。まさかプールに入ったりはしてないよな?」
 はい。ホースで偶々。
 ありふれた言い訳で切り抜けられた、ことにしておく。

 陽の高い畦道をひしゃげた自転車に乗っていた。どちらが引き摺られているのか分かりにくいが、結局あの後すぐ早退した。劣等生お得意の「気分が優れないので」の登板は割と頻度が高い。多分周囲の反応は「ほっとした」だ。確かめていないから知らないけれど。

 幸い制服シャツ以外の犠牲者は居ないので問題ない。小汚いジャージを着た高校生の絵面は諸々の事情を考慮しないのであれば、それなりに青春を謳歌していそうに見えると思うのだがそこの所どうだろう。誰の返事もない。チャリを漕いでも一人、風が吹いても返事はない。それはそうだ。青春真っ盛りな登下校風景だった。
 そうして駐輪場から引き起こした自転車も、以前から後輪がパンクしているのは知っていた。いつの間にかフレームも歪んでしまっていて、十中八九誰かしらの仕業だろう。これじゃ真っ直ぐ帰るのは無理だな。だって乗ってる奴がこんな風なんだから。直進と無縁であればある程捻くれ者は歓喜する。真っ直ぐは疲れる。
今にも外れてしまいそうなペダルを漕ぎながら見るともなしに前を向く。幸いハンドルは曲がって居なかったのでパンクを直せばまだ乗れる。どうせ買い直す金もない。あっても取り上げられてしまうに決まっている。
「あー」
 不思議だ。何も起きない日なんてない毎日。露骨なデタラメを誰もが信じてくれると俺は信じて疑わない。卑小な自尊心を粉微塵に挽き潰して車輪は進む。砂利程の意味もなく、往来で踏み潰される為に生きている。
 帰りたくないなぁ。毎日面倒くさくて面倒くさくて、空を仰ぐ。田んぼに自転車を放り捨てて何処かの沢にでも身投げしたい気分だった。不法投棄万歳だ。
 あーあ、眠くなって来た。気の所為だと良かったのに、どうにもそう言っていられない眠気に後頭部を小突かれて、次第に船を漕ぐ。足は回る。車輪も回る。目は回らない。
 俺は俺に付き合い切れなくてうんざりしている。

「閑谷」

 そろそろ息をするのも億劫になっていたら、進行方向を遮る形で人が立っていた。徐に手を振ってから駆け寄る人影は逆光の中で幾らか大きく見える。顔見知りでなかったらどうしようかな。下らない不安を抱えてブレーキをかけた。甲高い悲鳴が上がる。メンテするの忘れてたや。うるさ。長峰といい勝負だ。
「今帰り?」
 ラフな格好の青年が俺の前に立っていた。昨日も今日もそんなんで、もう見慣れてしまったものだから特に言及もされない。上はジャージ、下はスラックスとかいうふざけた姿の俺に。けれど眠気は吹き飛んだ。それはもう凄い勢いで飛んだ。
 緋田だ。元々近所同士の人。最近までは先輩と後輩で、今はただの友人。ただしセの付くお友だち。友人に当たるかどうかは互いの主観に拠るものとする。多分緋田は『先輩』と呼ばれる方が好みだ。何故って昔の方が良く笑っていたから。だからそういう勘違いになる。どうかな。大して変わらないかも知れない。誤解を恐れずに誤ったままでいる。
 跨っていたサドルから降りると、寝不足を隠そうともしない欠伸が一つあった。メイクかというほど黒い隈に縁取られた瞳がぐるぐるぎょろぎょろ。
「うん」
「そっか」
「うん」
「これから仕事?」
「そ。コンビニ」
「また変えたんだ」
「今年三回目」
「記録更新中?」
「の予定」
「根無草だね」
「回転早いって言って」
「それ変わってない」
 立ち止まって話せばいい。でも二人とも何故かそうしなかった。ずるずる引き摺っていく重いだけの自転車が酷く煩わしい。緋田は歩調を合わせることもなく数歩先を歩いている。どの道遠い距離でもないのだからこのまま行こう。向かう予定だった目的地は緋田の勤め先だった。ついて行けば手っ取り早い。
「じゃあ待ってるよ。いいかな」
「……」
 上目遣いで伺いを立てる。眼鏡の分厚いレンズの向こうは歪んでいる。もう何もかも一切合切、正せるものなんてないみたいだなぁ。歪み切ったらどうなるのか。緋田は伺いにさしたる反応を示さない。知っているだろうに、と目で分かる。あー、無駄足だったかな。断られたら仕方ないと腹を括った。
「いいよ」
「……ありがと」
 どうでも、と頭に付されていそうな返事だった。露骨だ。断られた訳じゃないのだ。喜べば良い。素直さは大事だ。

 緋田を前にしたら俺なんて些細な存在が喚いている暇なんてない。俺はただ黙って目を閉じていればいい。そうすればいずれ勝手に全てが終わるのだ。堪え忍ぶと言って小綺麗な美徳にすり替えておけば良い。どうせ皆同じだ。緋田の前には。高校生にもなるとそれまで曖昧だった上下関係がはっきりと正され、縦社会を与えられる。馬鹿な俺はそれでもいくつ年に開きがあっても良い関係を築く努力をすれば解決出来る。そんな妄想に浸っていた。
 彼はとても良い成績を収めた学生だった。両親はそれをひけらかして喜ぶような人達じゃなかった。酷く円満な、絵に描いたような神童は全てに恵まれていた。俺は羨ましいと指を咥える浅ましさを呪うような、ただ家同士の距離が近いだけで話す事が許されているような人間だった。
 緋田は今みたいな男じゃなかった。勤勉で努力家、何をやっても人並み以上に優れていて、誰からも好かれ分け隔てなく接する人だった。
ただし高校に上がってからはその限りではなかった。
 その置き土産として俺は緋田と因縁のある連中から諸々食らって来た訳だけど。あれは何か、俺なんかが未だに緋田との関わりを絶たない状況が腹立たしいというやっかみ半分、単に標的を変えただけ半分とも言える。
 ともかく周囲はよく人が変わったようだと口々に言った。でも変わったのは緋田じゃない。彼は何も変わっていない。状況に応じてそう見えるだけだ。それが周りには分からない。何故か。本当は始めから何の興味もなかったからだ。
 変化の差異を平等に扱えると勘違いをしている。思い違いも甚だしい限りだ。彼の異質さが露見するところとなったきっかけが何だったのか何も知らないし、聞かせても貰わなかった。緋田は「それまで」を恐ろしいまでにあっさり捨てた。だから「これから」にも価値を見出さない。それくらいは俺が見たって直ぐに分かる。分からない方がいつだっておかしい。緋田の父親はアル中になった。母親は蒸発して行方不明のままだそうだ。離婚はしていない。でももう一緒にもいない。呆気なく終わった完璧な理想に嗚咽してから、意気揚々と彼に連絡をしたのは卒業式の前日だった。
 いつの間にか緋田はフラフラしているだけのクズと呼ばれるようになって、学生の当時一度も正当な評価で上回った経験のない人間の溜飲を下げる役を一手に担っていた。
 コンビニに昼間からワンカップを買いに来るような大人と緋田は暫く暮らしていたという。それを父と彼は言ったけど本当は違う。あれは生ゴミだ。家が日中は酒臭くて嫌だからと住み込みの仕事ばかり選んでいた時期があったくらいだから、どの程度かは想像に難くない。俺にも少しは分かった。家がいつからか家じゃなくなるのだ。追い出された訳でもなく、ただ違う場所に成る気配がある。誰にも分からない気配の跫音を同い年の頃、緋田はずっと聞いていた。俺は知らなかった。知らせて貰えなかった。当然だった。『後輩』でしかなかった俺には。

「お待たせ」
「緋田くん」
 明滅する街灯に照らされたコンビニは周囲何百mにも渡って何もない道に平然と佇んでいる。実際狭苦しい田舎なのだけど、地方という名を借りた僻地の空は今日も鬱陶しい晴れ模様に恵まれていた。雲一つない夜空の下を歩いていく。付かず離れず歩いていて、結局途中で自転車は捨てて来た。もう乗らないなら必要ない。ゴミはゴミ箱へ、生ゴミは各自治体の指示に従って。
「なー、閑谷」
「なに」
「お前今日もやられたろ」
「うん?」
 主語を濁して微笑んでいる。彼の唇が歪む。
そうだなぁ。あいつら、緋田の後輩だから余計図に乗るんだ。三年になった途端に居丈高になった。そういえばさっきコンビニの前でうじゃうじゃ固まって屯していたっけ。素通りしたけど。向こうも向こうで教室の外で事には及ぶほど暇は余らせていないんだろうね。俺にとってはアル中もクラスメイトも違いはない。風景でしかない。遠景に並んだ梢と、稜線を描く山。それらは何ら特別な思いを抱かせない。美しいと讃える人も居るけど俺はそうは思えなかった。全部緋田の妨げでしかない。
一人暮らしのアパートはお世辞にも広いとは言えない一室に招かれる。何日振りだろう。やっと入れて貰える。
「緋、くん」
「早ぇよ」
「ごめんなさ、‼︎」
 限界を開けるもすぐに引き摺り倒されていた。後頭部をぶつけて目を白黒させていると、下を全部毟られた。足が寒い。「見せてみろ」って合図。
 ひーくん、ひーくんと頻りに呼んでいたら殴られそうな顔に変わる。やだな、怖いよ。でもひーくんには殴られたいかも知れない。分からないけど、痛くしないで。
「あっ、いぃ、きもち……っひ、んんっ」
「なーに」
「見て、俺のビンビンち○ぽ見てぇ……っ」
 我慢汁が汚らしく音を立てている、ぢゅぽぢゅぼぢゅぽ、って。馬鹿みたいな開放感に堕落する。酒池と肉林の延長線上に居る。
「駄目」
「な、んれぇ……」
「んー?」
 緋田と寝る時はいつも冷ややかな緊張感で胃が縮み上がってしまう。ついでに愚息も。俺はセックスをしているつもりで向こうはメスと鉗子を使った非性的な行為を繰り返しているつもりでいる。こっちを切ったら骨はこうで、ここを裂いたら肉はこうで、という具合に晒されるだけ晒される。別にそれは嫌じゃない。少なくともジュースを引っ被って血塗れの真似事をするよりはよっぽど。かけて、欲しい。
「乗って」
「ん……っぁ、あ゙ア゙ぁっ‼︎」
 熱い、下半身が溶けてしまう。何処でもいい。緋田のものなら何処にでも。
ここにメスが無いだけで緋田の部屋がワンルームだなんて呼ばれているのが何故だかもう心底面白くって仕方がない。だってこのベッド、まだ湿ってるんだ。別の誰かを呼んでいる形跡はある。男女の別は付かないし。干渉するかしないかで言われたら、しない。そんなのは緋田の自由だ。彼は自由なのだ。緋田を邪険にしないなら誰でもいい。彼を追い出さないだけでいい。延々と透明な檻から出る方法を探しているのは俺だけでいいのだ。
「ひ、くん……ねぇ」
「あ?」
あ、駄目かも知れない。でもいい、いいよ。
「せん、ぱぃぃ」
どうせ使えなくなった人生なら、いいんだよ。


Delaunay

 『ねぇ君は、世界の希望全てが揃って顔を背けたらどうなると思う?』

 『こんなにも』青年の全身が傾ぐ。重力に逆らい切れず傾ぐ全身が、広がった大の字のままに倒れ込んだ。仰いだまま全身を目一杯躍動させて意識の一部に入り込む。空白の原に寝転ぶ青年は朗々と騙った。それを黙って聞いている。黙らせる気も失せる妄言が滅入るこっちを余所に囁きかけている。

『全部がまるきり正反対のものになる。そしたら君はもう君じゃない。絶望に世界は塗り替わる。どれだけの希望が溢れているか想像出来るかい?手に余る程の量、凄いことにそれら全部だ。誰かに何かを与えた後で君から全てを奪っていく瞬間。矛先が向き変わる瞬間が来て』
それがどんなにか素晴らしく、どんなものにも代え難い夢想の底から彼はこちらに向かって堂々と手を伸ばした。
『そしたら君は信じられるか?』

「……信じないよ」

 暗転してから飛び込むしみったれた部屋の真ん中に呻いていた。俺はどんなに彼が手を差し出したって信じない。眼裏にまだ残っている。彼という暴力装置に従ってしまったらどうなるか。彼の“瞬間”と交わってしまったらどうなるか。考えたところで——いいや、考えてしまったが最期だ。反転世界の希望の総量がそっくりそのまま彼の切望するものに変わる。吐き気がする。早く忘れてしまった方がいい。でなきゃあんなものを見ていい筈がない。美しい絶望を信じて疑わないあの生き物に。彼は俺を何処へ連れて行くつもりなのだろう。境界線の結ばれない母点が散らばる異界から遠慮もなしに。
『君は信じられるか?僕が君みたいに愛しているって』
信じない。俺はそんな風にはならない。お前みたいになったって所詮無理な話だ。退化する夢想の中でだけ腹を空かせた希望に食い尽くされてしまえ、妄言。

雑踏に閉じ込める

「なぁ、これ聴いてみて」

 時折、彼に逢うと思うのだ。気の所為にしていた瞬間も、不思議と憶えていない瞬間も、彼には一つ一つが持って帰らなければならない成果物だ。機材を纏めたバッグが部屋の決まった場所にない時、彼が何の為に向かったかは分かっていた。分かっているのは、具体的な「何処」ではない。目的と、その用途についてだけだった。
俺はこうしてじっとしているだけで、周囲の環境や空気の波立ちや温度が持つ手触りを後から掬い取るなんて行為に意味を見出せていない。今もそうだ。ただ一つ、それを試みている子がいるのは知っている。

 そこら中山になっている機材の真ん中を陣取って、旅から戻った彼の成果が出て来るのを待っていた。荷解前に制止しておく。
「戻ったなら声かけて」
「ごめんて。これお土産。駅前のコンビニにあった」
「こっちでも買えるんじゃないか、これ」
「でも俺が買った方が好きでしょ」
「いや……?」
 理屈の通らない押し付けに賛同しかねて首を捻る。ビニール袋の底に入っていたのは、市販品の菓子袋と、見慣れない形をした瓶ジュースが一本。屋台のラムネ瓶のようなシルエットに貼り付けられたラベルの表示には酒類とある。つまみとアルコールだったみたいだ。レシートがないので、代金を払おうにも分からない。分からせたくないのかも知れない。
「飲めるのか?」
「飲めない」
「なんて言って買って来たんだ、未成年」
「免許証ありますっつった。したら見せろって言われなかったんだけど、問題?」
「店の問題。売ったら違法だよ」
「そっかぁ」
 土産というから飲酒のつもりはなかったのだろうが、杜撰な店員と危機感のない客には浮かない気になる。
 今一真剣に聞き入れられない注意をそっちのけにして、荷物からは早速戦品が登場した。片手に収まるサイズのレコーダーは、これまで彼が沢山の成果を上げるのを助けた優等生だ。今回は片道一時間をかけて向かった街だったそうで、忙しのない人々が行き交う空間の、断片が収められている音声ファイルの最上段のものを開いて、有線ケーブルの端子を捩じ込んだ。程なくしてヘッドフォンの向こうからやって来た音の波が容赦なく押し寄せた。
 単調な、ありきたりのコード進行を置き去りにした異国の歌のように往来が奏でるノイズの不協和音に、毎度のことながら呆れ返った。
「いつもより長いんだね」
「そうそう。五分くらい?言ってもこの前なんか、ほら、あそこの繁華街で録って来たやつは夕方だから結構静かめでさ。欲しかったのとは違ったけど悪くなかったから、その感じで」
「そう」
 数多の騒音が、風防越しのマイクを通して耳介を過ぎていく。雑踏に押し潰されようとする彼の背中が頭の中で飽和して弾け、また現れる。繰り返し繰り返しそうして身を委ねていると、次第に遠くに離れて行った自我が引き戻されるのを怯えて叫び始めるのだ。“二度とごめんだ”と、雑踏の中に紛れ込んで行こうとして、慌てて引き留めることになる。
 この子の悪い癖なのだ。いつだって俺を何処かに連れて行きたがる癖。インドアではない。出不精なことは認めるけれど。
「謎な趣味だよ」
「そう?なんかこういうのさ、寝る前に聴いたりすると落ち着くんだよなぁ。交差点のど真ん中に寝てるみたいに思えるし、そんな馬鹿してみたかった、って空想も叶うしさ」
「やりたかったとか?」
「んな訳ないじゃん。やっても止められるに決まってるだろ?近所の人とかに」
「経験者ぶってるな」
「ちーがーうってば、そんなのやらないよ」
「だと良いけど」
「ずっと聴いてたくならない?」
 まだまだ聴かせ足りないといった無邪気な声音を拒絶する。
「人ごみが苦手だから、俺には分からないよ。煩いだけで、ちっとも」
「……そっか」
 つまみの袋を無造作に開いて差し向けると、彼は首を横に振った。
「俺はいらない。辛いの駄目だし」
 そういうことならと、瓶と開きかけのつまみを冷蔵庫に放り込んだ。喉は乾いていない。ごちゃごちゃと散らかったままの部屋で、やっとのことで戻って来た劣情が剥き出しの肌に触れたがっていた。空き袋を端に追いやってしまってから、隙間のないよう抱き竦めてみた。
「こうしたらおんなじ」
「だろうよ、すけべ」
 キスの一つも落とすと、柔らかさが言葉の端に滲んでいる。
「じゃあ、こういうのは録らないんだな。後から聴いて落ち着いたり?」
「ならない、しないっ」
「そうなの?」
「お前、へんたい……」
「そうかな」
 むくれた頬に心が擽られて、羽交締めにした布越しに脈拍が伝わる。
この音だって残すことは出来る。肌の上を指が掠めた。
「っ!」
「凄い音」
「……口から出そう」
 出せるものなら出して欲しいが、恐らくそんなことが言えなくなるような事態が起きていた。一体何を、無言で訊ねる。
「信じてなさそうだったから、こうしたら分かるかぁ、って」
「………………あのさ、一応訊くけど」
「なんだよ」
「抵抗ないの、これ」
「そんなには」
 ある方がおかしいのだろうか。彼の心臓に顔を押し当てられている格好は、さながら犬と飼主だ。撫でられでもしようものなら流石に耐えられなかった。居た堪れなさに思わず抱き返してしまう。

「安心する?」
「胎ん中みたい」
「憶えてる訳ないのに」
「胎内ってさ、どんな感じか憶えてないのに懐かしくなるよな……ずっと前に居たから、あの中に」
「胎内回帰だね、赤ん坊になりたいの」
「ならないよ。老けたらどうせまたもう一度子供に還るんだ」
「嫌な空想」
「ほんとだし」
「聴こえてる」
「どうよ、張り裂けそうじゃね?」
「自分で言っていいの」
「……分かんない、けど、ほんとだし」
「録っておく?」
「やだ、俺のなんか要らない」
 自らの心音を要らないと言い張って、紅潮させているところに、僅かながら苛立った。
そんなことをしたって、無駄だ。要らないなんてどれだけ言って見せたところで頷いてはやれないのだし。
 要るよ、と返すよりもっと良い方法を二人は知っていた。


空地のアンブローズ

 『購入者募集中』の茶けた誇大広告を掲げた、通り抜け不可のテープに彩られた所謂空地と呼ばれるものの前を横切る。その場所を通れば近道になると知っている少数派だけの特権を振りかざし、抜け道の往復を重ねていく日課を繰り返すこと何回か。その頃にはもう縦横無尽に埋め尽くされた緑の間に淡いナガミヒナゲシが群生する季節に差し掛かっていた。点々と咲くヒナゲシの、頼りなく伸びる茎の先に花弁が乗っている様は何とも頼りなく思われて、当の空地は傍からは荒れ放題の有様だった。しかし不思議なことに、一体誰が手を入れているのかある程度踏み込むと地面さえ覗いている。淡紅色の彩りとざらついた土との内側には、外から見え難いのをいい事に、近頃はドラム缶や不法投棄紛いの廃棄物が散見され始めた。
 そろそろ通れなくなるのかも知れない。これまで楽が出来た分、どうこう文句を言うのはお門違いと割り切ってその日も足早に空地に立ち入っていた。
 敷き詰められたように咲くヒナゲシと、錆の目立つ原色のドラム缶の間に妙な物を見付けていた。所謂、人だ。人の頭部が草陰の間から生えている。位置からすると地べたに座り込んでいるのだ。どうしたのだろう。
 明らかに声をかけるべき状況に、尻込みをする。恐らく今この空地に無断で立ち入った二人を見咎める者は誰もいない。
「……」
 もっと暑く、或いは凍えそうな季節だったら。家路を急ぐ理由を見付けてすぐにても空地を抜け出ていたと思う。彼の心配をする必要はなかった事が、その手の中で捲られていく頁を見てはっきりとした。彼は誰を気にすることもなくそこに寝そべって本を読み耽っていたらしい。
「ねぇ、それ楽器?」
「えっ……俺?」
「君以外誰もいないんだから、そうだよ」
 驚いて肩から滑り落ちそうになった荷物を指して彼は頁から徐に顔を上げ、目尻を細めた。渋々ケースを下ろして開いて見せる。どうしてこんなことをしているのか、互いに理解していない邂逅だった。または、もうすぐなくなるだろう近道で。野良猫一匹ですら通りかからなかった空席にぽつり一人訪れた彼に興味が湧かなかったと言ったら勿論嘘になってしまう。
 想像とは違う結果を面白がったのか、ケースを覗き込んだ彼は首を傾げつつ、
「へぇ、三味線?」
「三線。三味線の元になった方」
 蛇革を張った本格的な物ではなくそれらしい柄も入っていないが、人工皮革で作られた三線そのものを取り出す。天、チラと呼ばれる先端から猿尾までを真っ直ぐにそれぞれ男弦、中弦、女弦が張られていて、全長以外の佇まいは三味線そのものだ。混同しやすいのも頷けるし、実際始めたばかりの頃は違いもよく理解していなかったのが本音だ。
「弾けるの?」
「まぁ、練習中で」
「そういうことなら、偶に土手の向こうで弾いていたのは君だったのかな。良かった、幻聴かと心配してたんだ」
 外なら消音のウマを使わずにいても平気と考えたのは甘かったようだ。彼は思ったよりも気さく、かつ奇妙な物腰で三線の爪を矯めつ眇めつしているが、一応止めておくことにした。
「カラクイには触らないで。弦が緩む」
「カラクイ?」
「糸巻き棒のこと、ここだよ。張るのにコツが要るから」
「そうか、それは悪いことしたな」
「え?」
「いや、もう一本切れてるみたいだ」
「……ええ?」
「いやいや、俺じゃないよ。出してくれた時にはこうだった」
 止めようとした時には既に遅かった。糸巻きの先に立てるうたくちと呼ばれる板が外れており、三本伸びている筈の弦が一本切れていた。不法侵入の罰だろうか。張り替えてから暫く経っている弦でも、こうは簡単に切れたりしない。といって、嫌疑をかけたい彼は、今一信用しにくい風貌なものの濡れ衣を着せたくなるような悪人の様相には些か乏しい。自らの落ち度があったと思って三線を仕舞い込んだ。
 この先もうずっと弾かなくてもいいのだ、という気分に追い落とされてしまっていたに違いない。彼は慰める様に手招き、隣を促した。用意の良いことに足元にはきちんとシートも敷いてある。傍らで平積みになった何冊かの本を見るに、それが読み終えて積み上がったものなのか、これから開かれていくものなのか——厚くもなく、流行りに疎い所為でそれらの表紙からどんな本かも分からない。自分がよく目を通すものは、遠く離れた地元の台風を警戒する記事と三線の教則本くらいだから仕方のないことである。
「……何の小説?」
「これは辞典だよ」
「文庫本だけど」
「サイズは関係ないよ。ケースに入った辞書の方が馴染みがあるのかもね。編纂者がいるようなきちんとした辞典とは違うものだけど、立派な“辞典”だ、紛れもなく」
 差し出されたページは幾つもの単語の先に、注釈の形で見慣れない説明が書き添えてあった。字義そのものの説明ではない何か好き勝手な独り言が、ふんだんに込められた皮肉混じりに長々と書き連ねてあるだけに見える。そういうニヒリズムの溢れた人が著したもの、ということだそうだ。
「これを書いた人はね、消えてしまったんだ」
「消えた?」
「出かけたきり行方不明のままだって話だそうだよ。でもきちんと本だけは後世にこうして伝わっていてね。興味深くなって、何度も読み返してるとここに来たくなる。というか、読み終えるといつも荒野か、何もないだけの風景が見えて来る気がして。そうやって気づいたら想像通りの、この場所を見付けてた、が近いかも知れないな。君は外で三線を弾いてて何か浮かんだりする?」
パラパラとページを捲っているだけの彼は感想を呟くだけ呟いて、視線を紙面に戻す。人を空地の一部にでもしようと目論んでいるのか、訊くだけ訊いて反応を気にする素振りはない。尻込みした時間はどうやら無駄だったらしい。空地を目指している誰かがいるというのもおかしな話だが、その内空地に溶け込んで行くんじゃないかと俄かに考え始めてしまった。実際、今まで遭遇した経験がなかったのだから生えて来たと自己紹介されていたら信じただろう。雑草でもあるまいし。
 そんな雑念に区切りを付けてケースを叩いた。

「何にも。調弦が苦手だから、いつも弾いてて合わなくなるのが嫌だ、とかそんなことしか浮かばない」
「案外生真面目だね。ズレててもここからだとそんなに気にならないけれど、そういうものか」
「口笛じゃないんだから分かる人には分かるよ」
「なら俺は分からない観客かな?」
「俺もこんなとこで聞く人初めて知ったけどね……」
「結構快適なプレミアシートだよ」

 軽々に言ってのける彼は、また空地の何処か遠くの方を見ていた。季節外れの秋茜でも見付けたいのか。

 二人の前には、生い茂った背高の薮がある。薮を超えると、すぐ隣にバイパス道路と畑が何食わぬ顔をして広がる。けれどもこの薮から視線を上げないことにはそのいずれも見ずに済むのだ。

 蜻蛉は疎か野鳥の一羽も飛ばない、切り取られた空地の向こう側の埋める土手を浮かべてみようとした時、それが上手くいかない代わりに、先程にも増して嫌に切れた弦の切れ端が眼裏をちらついた。
 一体何処に行ってしまったのか、ヒナゲシを踏み付けて立ち上がった。と彼の方からボトルを差し出された。紅茶の生温いボトルが琥珀色を湛える。

「蓋は開いてないからどうぞ。付き合ってくれた駄賃にでも。それとも紅茶は苦手だった?」
「そうだね、あまり飲まない」
「だったら押し付けるのはやめておくよ。また弾きに来るんだろう?」
「どうかな。いつも同じ場所で弾いてるんじゃないし」
「そうか。まぁそっちに観に行くつもりはないけれど、俺ならここにいるから君が良ければまた来て欲しい。居なかったら申し訳ないけど」

 申し出なのか、打診なのかをはっきりさせないままにケースを背負い込んだ。
「だったら、また下手くそなのが聞こえでもしたら俺の知らないところで笑ってて」
キャップの開く小気味の良い返事がした。

 顎を持ち上げる。バイパスの頭上に描かれた長く長い白線を臨むと、青い涼風が頬を撫で付ける。

◼︎ああ僕ら

ああ僕ら皆
すれ違う傘と並ぶ束の間
一時にだけ、肩濡らす雨は止み

ああ僕らは屋根なしのドブネズミを
泥の底から嘲笑う

憐憫の慈雨に打たれて
今日も地を這う 肉を這う

トライボロジー

 全く参った。いやもう、焦った何の。
 これでもそれなりの下準備と兼ねてからの計画を遂に実行する好奇心とを両輪にここまで来たのだ。まさかこんな事態になるとは——確認は怠らなかった筈なのに。仕方がないと割り切れない。これが運の尽きだと諦めるのは正直非常に悔しい。道半ばで終わらせたくはなくて、だけどこれでは。

「どうすっかなぁ」

 通り雨があれよあれよと言う間に滝のような豪雨を降らせて早小一時間。物の見事に黒んだ空を恨めしがるだけ恨めしがってから肩を落とす。どうにもならなかったとしてもどうして今なんだ。
 広大な駐車場を有するSAは近年大幅なリニューアルを遂げていた。一般道からも利用出来る構造が売りで、観光地に向かう途中に出来た小観光地、と言った触れ込みで改装当初から客の入りが盛んだった。ところが都合の悪いことに、オフシーズン中の現在、閑古鳥が鳴いていた。これも運の無さというかなんというか。ガソリンスタンドが併設された立地だけあって旅客が居ない間は一般車より大型車の出入りが特に多かった。
 悪天に足止めされたのなんて幼い頃以来だ。野外活動で集合時間に遅れた原因を懐かしんでいると、広大な駐車場に入って来た四トン車から慌ただしくドライバーが駆けてきた。雨宿りをする自分のすぐ近くにまで辿り着いた時にはもう、何十メートルとない距離を走っただけには思えない有様になっていた。肩で息する背中に近付いていく。

「使います?」

 バックパックからタオルを手渡すとドライバーがこんがりと日に焼けた顔を皺くちゃにしてはにかんだ。

「気が利くな。ありがとよ兄ちゃん」
「いえいえ」
「つーか見てたな?」
「はい、バッチリ。俺も走ったなーって。凄いっすよね」
「台風の影響だってよ。線状降水帯がどうのこうの。ったく、こんな天気でもこき使われてたらいつおっ死んでも不思議じゃねぇよな」
「ご苦労様です」
「悪いな、ちょっくら取引先に連絡して来るわ」

 愚痴っぽくぼやきつつテキパキとした、こういった職業ドライバー特有の臨機応変さを尊敬しつつ、下心を隠している親切心を恥じた。きっと彼同様電話口の相手も悪天に憤懣やる方ないのだ。一方こちらは目的の為に手段を選んでいられない状況を招いた身だ。ここは腹を決めて押し通す方が後腐れがないだろうか。
 連絡を済ませたという男性は片手にコーヒー缶を携えて戻って来た。しかし何故か二本握られていて、その手から一本が放り投げられる。慌てて受け止めたものの、腹を括った勢いがその一瞬の出来事で霧散してしまった。こうも気前よく奢られてしまっては突き返せそうにはなかった。

「ほらよ、飲みな」
「いいんですか?」
「いいってことよ。しかしまた酷くなってきやがったなこりゃ」
「いつ止みそうですかね」
「暫く無理だ。お前さん予報聞いてないのか?」
「ラジオですか?」「おうよ」

 ドライバーの男性が気さくに話しかけてくれたものの浮かない顔はあっさりと見抜かれてしまった。渋っても仕方がない。単刀直入に訊いてしまおう。

「悪ぃなぁ、今日のは急ぎなんだ。乗せてはやれねぇよ。つっても元々狭ぇし、後ろは荷物だし」
「ですよね……すいません、なんか」

 見事な玉砕、分かってはいたが落胆せざるを得ない。勿論はっきりと言ってくれた事に感謝を述べつつ、当然直面しなければならない問題を解決すべく考え得る限りの案を探し、探した挙句どれも役には立ちそうになかった。
 八方塞がり、万策尽きたかに思われた。
「おう」売店の向こうから丁度やって来た、まだ若そうなドライバーが数秒こちらを眺めていた。かと思うと踵を返したのだ。それを見かけた男性は目聡くも立ち去ろうとする背中を見逃さなかった。浅く会釈する彼の目は何処か淀んでおり、疲労が窺えた。

「なんだよ居たのか。隣県か?」
「……っす。朝一で出て」
「でまだここか、おつかれさん」
「やってらんねぇ、ほんと」
「そう言うなや。その分貰ってんだろ?若ぇーんだから」
「俺の明細見ます?」
「っははははは!んなもん轢かれても御免だわな!」
 
 顔馴染みの元同僚なのだという二人の話に花が咲いている横で居場所をなくしていると、思い出したように若い方へ男性が紹介をしてくれた。胡乱な目付きながらさして興味もなさそうな会釈は素気無く感じさせる、ごく一般的な、何一つ不自然さのないものだった。
 
「そんで?なんだってまたお前さんはこんなところに一人で来たんだ?観光ってんでもなさそうだけどよ」
 
 そうして、至極当然だと言わんばかりの問いが目の前に現れた。どう取り繕うかが肝心なのは分かっていた。幸か不幸か成功も失敗もこの一言にかかっている、強弁すればボロが出るし、自信のなさは疑心を招く。一回限りの正念場には足りないものがあった。
「へぇ?」
 その意気地のなさを彼が何処となく小馬鹿にした調子で返される。『どうせ大した訳もなしにぶらついているだけなんだろう』。こんな具合に。
「そう、なんですよ」
 対抗心じゃなかった。もっと不純な弁明。俺はもう違うんだ、と他に考えるべきあらゆる事情を三段飛ばしにしてしまったのだ。
 

「「ヒッチハイク?」」

頓狂に重なった反応を、何処かしてやった気になってから項垂れていた。もっと上手い言い回しは浮かんだ筈なのに。返答は至極真面と言える。

「輪行なら俺もあるけどよー。流石に歩きはねぇなぁ」
「……あほくさ、映画の見過ぎだ」

まさか荒野のど真ん中で『乗せてください』と書いて立っているでもなし、線路の上を歩きたがる子供達でもなし。彼の言い様は流石に辛辣な気もしたが片や急ぎの仕事中の労働者、片や暇人な不審者——いや、こちらにもそれなりの事情が、などと言い訳をしてもやはり返って来るのは似たり寄ったりのそれだろう。ただ何が受けたのか男性は与太話の出来損ないを疑わないでいてくれた。ばかりでなく、あろうことか願ってもない提案をしてくれた。渡りに船とはこの事だった。
相手が彼でなければ。

「そういうことならお前が乗せてってやれよ。ここから近いんだよな?」
「はい、割と……」
「だってよ」
「嫌っすよ。遅れるし。そもそも何で俺がこんな奴のお守りとか」
「あのなぁ、思いやりってもんはねぇのかよ現代人」
「昨今の防犯意識舐めないで下さいよ。大体何が一人旅だよ、他人任せだろうが」

そう言われてしまうとぐうの音も出ないが今時一人旅に憧れて決行した、とでも呆れてくれていたならかえって都合が良い。こちらにだって選ぶ権利があるのだ。他人に口を出される筋合いはない。説明する手間が省けて願ったり叶ったりだ、とコーヒー缶のプルタブに指をかけたきり、開かない缶を握り締める。何ならこのまま握り潰せそうだった。足りない握力の分は奥歯に込めることにして口を閉ざす。次にその唇が開いた時、折から躓かせられっぱなしの状況にもいい加減うんざりし始めていたから、少しでも面食らわせてやろうとして俺はまたぞろ口を滑らせた。

「そうですよね、今時失恋で……なんて」
「失恋?へぇ、それはそれは」

 本来の目的、そのおよそ半分程の真実を伝えてみる。しかしそれだけては寧ろ疑わしさは増してしまったようだった。それはそうか。漸くしくじったことが実感されて来る。お陰で見ろ、二人共既に不審物を見付けたような顔付きになっている。通報されでもしないだろうか。ともかくもこれ以上ない居た堪れなさをコーヒーの苦味で押し流そうとすると、悪天は変わらないながらも徐々に晴れ間が見えて来た。でも今更止んでももう足がない。立ち往生は決まってしまった。悄気る自分を尻目に庇の下から駐車場へ男性が出て行く。彼はもう行くようだ。
 
「お、止んだ止んだ。そんじゃお先」
「コーヒーありがとうございました」
「いやいや、躓く石も縁の端ってな。そっちも気ぃ付けろよー」
「はい、どうも……?」

 『気を付けろ』?特別おかしくもないが違和感の残る言葉を貰う。首を傾げつつも戻すと、彼もまた妙な表情をしている。
  
「ったくあのおっさん」
 
 大仰な嘆息にハッとする。ああ、こんなのってない。ここから上手く別れを告げられるだろうか。今更ながらあんなことを言うべきではなかった。後悔に苛まれている傍らで、彼は不承不承にぼやいた。
 
「あの人さ、送り届けたことあるんだと」
「?」
「態々修学旅行のバスに乗り遅れた子供を似たようなSAでさ。タクシーでもあるまいし、結構離れてたから仕事先からは大目玉食らったんだとさ。何つーか、お人好しってやつなんだろ。地元のニュースになったとかって聞いたな」
「凄いですね。有名人だ。その子の旅行がダメにならなくって良かった」
「俺だったら合流とか面倒くさいし、そのまま家に帰って寝てるよ」
「……」
 
 邪険にされるかと思いきや多少の愛想はあるらしい。よく分からない人だ。一先ず話を合わせようとした矢先、少々捻くれた反応があった。この手の美談を嫌う性格をしているらしかったが、彼が自分より年上というのが何よりも解せない。この人、大人気なさ過ぎる。
 かと言ってじゃあ、判で押したような当たり障りのない文句ばかりを並べ立てられてもどうしようもない。俺は何を求めているのだろう。
 やめよう。旅行なんて所詮俺の我儘に過ぎない。彼の言う通りだった。ここで安易に誰かを頼るくらいなら一人で終わらせよう。でなきゃ始めた意味がない。彼の言った通りだ。自力以上を求めなければいくら時間がかかってもきっと何処かには着ける。思っていたより遠くまでは無理なのだろうけれど。そうして途切れた会話の気まずさを利用して、恐る恐る別れを告げようとした。改まって面と向かった彼はそれまでとは百八十度異なっていた。はっきりそうと分かったのが自分でも不思議だった。

「……あの、今止んでる、みたいですけど」
「一つ訊くけど」
「はい?」
「さっきの失恋旅行って嘘だろ」
「なんでそう思ったんですか?」
「勘」
「勘て……」
「正直言うと希望的観測。で、どっち?」
 
 当たった?とそれまでにこりともしなかった仏頂面が不敵に歪み、たじろいだ。触れられたくない部分に踏み込まれてしまいかねない圧力を秘めた口角だった。黙秘、で通せないだろうか。そうこうしている内に嘆息が聞こえてから、意図はどうあれ彼は意外にも承諾してくれた。
 
「いいよ、乗せてやる。けど一つだけ条件」
「条件」

 鸚鵡返しに訊ね返す。そこでまた彼が口端を上げた。
 
「乗ってる間は俺の言う事を素直に聞くこと。どう?」
「……それはまぁ、無理のない範囲で」
「交渉成立。それじゃあこれ鍵。先乗って待ってろ。勝手にエンジンかけんなよ」
「分かり、ました」
 
 何処をどう辿ったか、こうして俺は不用意にも救世主を得た。のだが、この救世主、もといドライバーの物集という男は全くもってそんな都合の良い存在ではなかった。
 
 





船を漕いでいた。高速道路の流れがあんまりに速くて目で追うのが億劫になるのも超えて。
路面の状態も良く、下手な変化に乏しければ自然と瞼も降りて来るというもので。

「よく寝るな」
「すみません……」

「別に良いけど」。カーステレオも聞こえない走行音の中、物集の運転に甘えて眠りかけていた。ナビは音声案内が切ってあって、地図の上で現在他の把握は出来ても今一何処をどう走っているのか曖昧に感じる。それもこれもここ数日中のどの移動手段より確実に心地の良い振動のお陰だった。電車通学していた頃を思い出せば安定した運転は通勤ラッシュに味わう苦痛なだけの時間とは雲泥の差だ。もっと荒い運転をするだろうという不安はあっさりと消えた。少なくともSAで見た横柄さとは無縁のハンドルさばきが助手席からでもよく分かる。でも小言の方は流石になくならない。そして逆らえる立場にも当然ない。今俺は同乗者というより喋る荷物だった。

「吐かれるよりはマシ」
「あでも、乗り物酔いとかしないですよ俺」
「強いの」
「本とか読んでても割と」
「うわ」
「うわって」

眠気を払う為に片手間に口を動かしているだけ、といった会話には中身なんてものはなく、ちらと窺う横顔はフロントガラスの方を向き時折ルームミラー越しに視線が動いていた。そこに映り込む車内は荒れていない程度に雑然としていつつ所々に生活感があった。長期間乗車していれば自然そうなるものだろうか。ぼんやりと殺風景な自室を思い浮かべる。捨て忘れた物は無かったろうか、と。
ETC専用ゲートを通過して数十分後、見えて来たのは寒々しい風景だった。木々の枯れた山々の横腹に口を開けたトンネルへトラックが吸い込まれると、何分と経たずに抜けた。僅かな間ではあったけれど急激な光の飽和に目の前が瞬く間に白飛びして、それまで重怠かった瞼に激痛が走る。眩しい。数十分走っても暫く目を開けられずにいた。晴れていなくて良かった、とは考えないようにしてやっとのことで目を開ける。
「あ、」
言葉が喉の奥に引っかかって、その上に物集の声が重なった。

月泥棒の蟹と夜

 月じゃ涙は拭えない、と浜辺で蟹が言った。拭うまでに飛んでいってしまうからだ、と聞いてから首を傾げた。涙が飛び散る前に肉が散ってしまうのが先じゃないか。
 蟹というのはあの茹でると赤くなる蟹のことで、どの道立派な二つの鋏で拭おうだなんて高望みに過ぎる。つまり、この話題には身がない。反論はこうだった。

 「中身がないってこともない。だろ?」
 「そうかなぁ」
 「そうさ。見てみろよ、潮の満ち引きに合わせて仲間達が集まって来る。あの尊大に照る月の所為で、ということは俺達とは深い仲、これ豆な」

 「酷いこじつけだ、集まるのは卵抱えた亀だろ?そもそも君達はあの光が怖いんだと思ってた」
 「怖い?怖いだなんて言うのはきっとあんたがこの夜長を嫌うからさ。そういう晩は特別光がはっきり見える。鬱陶しいというなら、こうして」

 節々の爪先を騒めかせた蟹の甲羅は潮水の為に濡れしょびれ、ゆっくりと開いたり閉じたりした鋏で掴むみたいにして真円になり切らない光を手中に収めようと泡を吹いた。水泡の一つ一つに映るそれが一粒ずつ割れ消えては幾度も再生を繰り返した。

 「どう?これで分かったろ。奴を捕まえちまえばいい、そーすると段々眠くなる。瞼が重くなったらさぁ、ベッドへ向かって一直線」

 あんまりな一時を俺は黙って見ている。だって、蟹の一匹に含蓄があるとかあまつさえ感心してしまったとはいくら何でも馬鹿馬鹿しくて冗談にしては不出来だ。

 「……なにそれ、あれを泥棒でもする気?」
 「よく効くおまじないってやつだ。試してるみろよ」
 「やだよ」

 到底盗めやしない、大層眩しいお宝を滲む世界から眺めている。なんだ、大して綺麗でもないじゃないか。
 眠くなって来たな。砂塗れになってもいいからここで寝転んでしまおう。
 
 「ベッドが泣いてるぞ」
 「はは、それでもいい」

 洗い立てのシーツだって俺のことはお断りだろう。鋏を真似て、二本指で光を挟む。もう暫く蟹の謡う泡沫の隣にいさせて欲しがるように。

真ん中

 
 
 
 液晶がちらつく数字を示している。部屋を借りた際に押し付けられた配給品のPDAが小煩く日の出を知らせているからだ。俺はずぶ濡れになって重い四肢を引き摺る野犬か何かのように、嫌に不機嫌な唸りを上げて役割ばかりを主張するアラームを止めにかかった。まただ。また始まるのだ。

 寝ぼけ眼を瞬かせると枕元を弄った。金属の感触に安堵する。無造作に放り投げてある時計は、PDAと殆ど同じ時間に合わさっている。ズレが生じると修正機能が働いてしまう便利なそれは、外見こそ真鍮製で鍍金めいた古めかしさだけは充分にある代物だ。今日日染め革のベルトなんてものを備えた、ちぐはぐな時を刻んでいる時計の風防ガラスに爪を立てて、竜頭を捻る。ぐんぐんと進めてから、慌てて巻き戻す。いけない、進む向きも分からなくなっている。早く目覚めてしまおう。

 いつもの通りに、時間にも満たない時間をもうずっとこうして毎日巻き戻している。ずっと、もうずっと。長い間同じことを繰り返し過ぎた為に、外の時間を知らないでいる方法を手に入れてしまったのだ。とはいえそんな時間も叩き起こされるまでの束の間にしかこの手にない。はっきりとした意識の中では自ら、児戯に違いない、一刻も早く辞めてしまわなければと省みさえしている。だが床に就く寸前には何の効果も得られなかった。
 俺は昨日には会えない。逆説的に明日には労せずして会えることになる。一連の、馬鹿げた、まじない風の、そういった類のつまらない習慣はそれ自体について説明とか理解とかいった具体的な形に何一つ結び付いていかなかった。遠からず出る結論を意味もなく先延ばしにしている。

 あいつの顔を見ない日が来ないか、といったことばかりが脳裏を過る。
 昨日に戻れば、時が進まなければ見ずに済んだ。あいつのあんなにも穏やかな顔を、俺はもう二度と目にしたくないんだ。その為になるのならば何だってするだろう。出来得る全てに手を染めたって構わないとだって考えもしたろう。その一心で、今日も針を戻している。

 【不甲斐のない男にはこの行為がどんなにか恨めしい罠になっているか知るには遅過ぎた。】

 また朝から始まる朝に俺は何か一つの転機を迎えたことを察知した、というには過言だ。しかし、ほんの些細な入れ違いに罠は容赦がなかった。
 いつも通りに腕時計の針を巻き戻せるだけ戻して、身支度を整える。小さな違いについて思い出せたのは玄関を潜る間際も間際だった。

 寝室と別にある部屋のドアから向こうがこの時間にしてはおかしな感じがして大して身構もせず開け放った。
 果たして部屋の真ん中に居たのは、見覚えなんてある筈のない赤の他人だった。一体全体何処から入ったというのか。施錠はおろかロビーを通るだけでもブザーを聞かずに抜けられないのにだ。

 「なんだ、あんた」

 この部屋をどうやって嗅ぎ付けたのだかは糺さないでおくとしても、見ず知らずの男を上げるような用は入っていない。
 酷く緩慢な動作で男が正面を向く。のっぺりした、何というかあんまりに不出来な妄想から飛び出して来たのだ、と紹介を受けたなら信じてしまいそうな男の、さも無関心そうでいながらも燥ぎたがっていそうな気さえする佇まいが鼻につく。お前なんかこれっぽっちも知らない。誰だが知らないが、早く出て行ってくれないか。この部屋に誰かを入れるなんて冗談じゃない。

 「なんだ、なんてご挨拶。僕が何に見えるっていうんだ?」

 男は呟くように言うと——ベッドの上を指差して訊ねる。

 「彼にもう一度会いに行くか、それとも時間を巻き戻すか。君が僕に示せるのはこの二つだけだ。分かっているんだろ?」
 
 死神だ——俺は一切を聞かなかった素振りをして、部屋を飛び出した。戻って来るともう室内に立っているのは俺一人で。
 

だけだった

 同じクラスの僕らが同じだったことは殆どなかった。選択教科も違う教室、部活が一緒だったこともなく、挙げれ始めばキリがないほどもうからきし共通項がない。あらゆる美点欠点を突き合わせて並べてみても、その差には恐ろしさを覚える。クラスメイトとの唯一同じものといえば誕生日くらいなものだった。
 いや嘘だ。一応性別も同性だ。生まれてから男でなかったことはないし、誕生日も変動した試しはない。ある人がいたら方法を教えて欲しい。何せ全く同じ誕生日の他人を気にかけるようになってしまったのだから。

 下校途中。校舎から見えた巨大な球形のガスタンクのシルエットが、今やコインランドリーに整列する洗濯槽の影に没して消える。夜、街中のライトアップされた通りに並んだベンチが二脚分ぽっかりと空いている横を過ぎる度、居もしない幻燈に振り回されている。

 八月二日のたった一日だ。ただ同じだけだった。きっかけは単純だった。
夏の真っ只中に生まれると、夏季休暇が何となく嫌いになる。曜日はともかく学校で誰かに触れて貰える機会を失ってしまうからだ。祝って貰いたかった、なんてちっぽけないじましさが発端となった思い出話が、僕らの間に思いの外良い効果を齎したのだ。

 だけどそれだけ。友人と言って貰える関係だったか自信がない。

 今からすればもう遠い昔に起きた、実に取り止めもない時間だった。
だけど何度となく繰り返してしまう。

 もっと同じだったのなら、良かったのに。

ぜいたくな二人

 
 鼻先の霧の向こうを眇め、電話口のコールが途切れるのを心待ちにする。川面を望む出窓は結露に覆われて景色の色味ををぼんやりと滲ませてしまってもいる。年中こうなものだから今更とやかく思うこともないが、何度か掛け直すよう予め告げられていたにも関わらず受話器を握る力が強まった。

 若気の気分転換と偽って、余暇の合間に遠く離れた土地に赴く趣味を持っていた頃。汽水湖で知名度を誇るとある旅先。そこで奇妙な男と相部屋になった。宿の空き具合からして、何も態々旅先に不知り合いと泊まりたくもなかったのだがそこは互いに懐事情。成程確かに決して上等とは言えない部屋の並んだ木賃宿だ。一部屋分を出すには惜しいが、折半ならば構わないという腹積りでいたのだ。あらゆる国に住んでいながら何処にも定住しない贅沢な旅人風情。それが男を招き入れた印象だ。
 
 よくよく確かめてみた男の本性はというと、実のところ旅人でも放浪者でもロマでもなく、食べ歩きの専門家だった。あらゆる土地の文化に根差した郷土料理を中心にしているという。食べ歩きというのも語弊を生じかねないのだが、所謂美食家とか食通だとか、そういった肩書きで呼び表すには少々違和感が残る。なので最終的にこの形に落ち着いた。
 方々を巡っていると時折巡礼者と間違われるだの、何を思い違ったのか施しを受けて困ったなどといった笑い話は殆ど面と向かって交わされた試しがない。どうやら土産話は持って帰らない作法らしい。
 遂に耳元に現れた男は慌ただしく第一声を上げた。
 

 「全く羨ましいね。こちとら湿気た看板の上げ下げでも一苦労だって毎日なのに」
 『仮にも名高い旧市街に住んでいながらよく言うなぁ。バチが当たっても知らないぞ』
 「バチだって?水路のお陰で霧はしょっちゅう、舗装されている割にどんな車でも快適に乗っていられない街の何処がいいって?」
 『こっちだって好きで飛び回ってるんじゃないぞ?浮世離れの旅烏なんて夢のまた夢だ』
 「夢だろうとなんだろうと現にあんたはこっちには居ないんだ。俺には正しく悪夢だよ」
 『贅沢だな、君は』
 
 肥えた舌が何を言う。それに、そう。
 美しさが自慢の街を忌んで溢れた文句ではないのだから、見えないところで笑うのは止して欲しい。今度会う予定を取り付けたいならほんの少しの本音は必要だ。

 「なら早く帰っておいで」

 四目並べの盤面は依然元に戻されず樫の古めかしいテーブルの上で勝負の続きを待ち侘びていた。