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目のないあの子は忘れんぼう

 光を纏って飛び交う蛍が彼の口に飛び込んだ。躊躇いなく咀嚼し嚥下を終える。粉々になった蛍がつい今し方、胃液の海に没した。光を喰らい終えた彼はふっと閉ざしていた両の眼をこじ開ける。なんの光をも宿さない二つの水晶が虚空を眺める。定まらない視点の先を辿って行くと、また新たな蛍が翅を開いている。先刻起きた悲劇を再演すべく彼の顎が開く。舌を突き出し待ち構える。そうして新たな光を食もうと待っている。

 何度目かの一度目を見ていると、まるで蛍に身体の内から照らされた彼に対してある種の神秘性を感じさえした。虚ろでいて澄んだ彼の目は心そのものだった。物質を捉えない代わりに様々なものが綾を成してくるくると映し出される。
 つまり、盲目な彼は目を失って心を得たのだ。
 すると途端に忘れんぼうになったという訳なのだった。最初でもなく最後にもなり得ない翅の味わいに舌鼓を打つ。食べてはいけないものでもなし、私は彼を止めずにいた。彼もまた何度やっても飽くことなく儚く舞う光を喰らい続けた。
 その内気の毒にも逃げ遅れた蛍が私の指先を掠めて、忘れっぽい彼から逃れようとしていた。

 「どうぞ」

 故にその舌先へ光を乗せた時の高揚は一入で、心なしか微笑んだ彼の、つられて引き上がった頬を撫でていた。
飲み込まれていく蛍にいっそ嫉妬すら覚えながら破砕される光を見ていた。

しもべ

 先を行く時針がふっと時刻を知らせ間違っていた。以前にも何分か誤差を認めたが今ほどでなかった為に巻き戻そうとする手間をかけなかった。そのツケが今日只今、僕一人の時間感覚を狂わせている。
幸いにも手元に時計はもう一つ二つあって、全てを合わせた平均値を『今』として納得させてみた。だが最も付き合いの長い時計が一番信用ならなくなってしまった事実には少なからず失望させられた。
 一方僕自身の概日時計はというとこれまた明け透けに空腹を訴えて丁度夜半時を報せた。どんな日に訪れようとその飢餓感だけは耐え難かった。食うにしろしないにしろ目が冴えて仕方がない悲嘆に暮れる。
 腑の底を襲う呻きを鎮めるにあたり、ない頭に鞭打ち四つ目の時計の在り処に唸った。一際喧しい上に恥も外聞もない四つ目の時計は狂い知らずで如何ともしがたい。時に主従の関係を当て嵌め、従順さが備わっていればまだ救いようがあった。つまり年季の入った古株のそれと腹の虫が手を組んでくれたのならば願ってもないのだ。
 しかしずれにずれた時の従僕となって、飢えすら夜と超えたとしてもどの道ずっと先を行ったいつかに戻って来る外ない。結局、いずれの時間の中にもそれなりの狂い方があってどれに対して従いたいかについてまで考えが及ぶ。
話が逸れてしまったらしい。ともかくも次こそは予め針を巻き戻しておかなければならない。とやかく小言をぼやかれ、世話を焼かせる男だと思わせたいのでなければ。これ以上怠惰を極めてはならない。
 思索のような空想の綿布団に包まれて次第に瞼を重くさせていれば必定、群れなした針の向こうから苦々しい渋面が浮かんでしまうのだった。

汚水管

 私の友人はよくよく写真を撮った。金などないからなるべく出費の少ない方法であちらこちらを巡っている。趣味だという。しかしその友人が昨夏からぱったりとそれらを全て辞めた。訝しんで彼に何かと理由を付けて外へ誘った。それとなく事情を聞き出したかったのが原因だった。

 自宅近くの喫茶店で、清潔な居住まいのまま彼に正直な気持ちを打ち明ける。趣味一つでとやかく言って鬱陶しく主張を押し付ける人間だと思われまいとしたのか、嫌に饒舌な私は弁明に徹した。諦めが付いたのか、友人は渋々といった様子で何も言わずに懐に忍ばせていた一枚の写真を恐々とテーブルの上に置いた。
 何かと思って手に取ると何のことはない。何処か知らない場所のスナップで、聞けば団地の共用部である外廊下壁面に設けられたスペースを使って配管が何本か通っており、写したのはその内の一本であるという。そして被写体として選んだと思しきピントの合った中央左寄りに伸びるパイプには大きく『汚水管』のラベルが貼られている。一体これがなんだと言うのだろう。持ち歩いていることにしても、何かあるな、と私は彼に目で先を促した。

 「俺はこれを祖父が死んだその日に撮ったんだ。この配管は住んでいた部屋から外に繋がっている。それを収めた」

 彼が何を言いたいかを薄々察した。つまり原因がこれだったと言いたいのだ。だから私はなるべく慎重に先の言葉を選んだ。

 「君は確か道端で死んでいた椋鳥や野良猫や烏、色んな死骸を撮り溜めていたじゃないか。何故この一枚をそこまで酷く恐れているんだ?」
 「恐れてはいないよ。ただ」
 
 言い淀んだ彼の唇は真っ青になっていた。「ちらつくんだ」と続ける。

 「この写真の表面が問題じゃないんだ。何か、俺はこの写真に良くないものを写したんだ。でもはっきりとは分からない。分からないから不安なんだ。それがどうしても頭から消えない」
 「不安?」

「よくないもの」。復唱すると写真を見る。そうは言われても、撮り手としての主観と他人から見た印象は異なっている。どんよりした色調であればまだそれらしくも見えたろうか。しかし画面は特別暗くもなく、不気味な感じは受けない。被写体に寄り気味の為にぱっと見がとても抽象的な写りなので彼だけが際立った反応を見せているだけに過ぎないとも言えた。
 私は彼が示す原因とは最終的に、被写体を撮ろうとレンズを向けた時の何か惨たらしい衝動が後から見返した際に何と呼ばれるかについて、見つけられずにいるからだろうと類推する。だからやり場のない『不安』を形にすることが出来れば所謂スランプのこの状況を脱せると思ったくらいだった。そして彼の言う『正体不明の不安』に私は覚えがある気がした。

 「罪悪感とは違うのかい?」
 「え?」
 
 それは罪悪感に似てはいないだろうか。後ろめたさに目を背けたいのにもう手遅れな罪悪が呼び起こされてしまうから彼は写真を辞めたのではないか。彼は不可解な言に先程の私と同じく復唱する。「罪悪感」。

 「いいや、違う」
 
 きっぱりと言い切る彼の目が一瞬間異様な光を灯した。頼んだコーヒーをそこで一口含み、もう一度。今度は意気消沈した面持ちで「違う……」。

 「どうしてそう言える?」
 「だって俺はこの不安をどこかで見たことがあるんだ。お前だって写真は撮っていたろう」

 ぎくりと肩が軋んだ。彼は私の目を見てやけにはっきりと切り出した。そこで私は何か嫌な予感を催して咄嗟にマドラーを使ってグラスの中身を態とらしく掻き混ぜてはみたものの、動揺は隠せていなかったに違いない。
 私は彼のようにスナップは余り好まない。しかしポートレイトを頻繁に撮る。老若男女問わないが、内の何枚か、いや何十枚かには上る枚数に彼を収めていた。当然了承も得ているから盗撮ではないし、そんな私の趣味の一体何を彼は聞きたいのだろう。知り合ったきっかけとは離れているが、ただそれだけ。それだけのことを。

 「実は俺も、お前に聞きたいことがあって来た」
 「あ、ああ。何だ?」

 そうか。私は気付いた。だから態々写真を懐に入れていたんだな。何か交渉をしたがっている。彼はそう思わせるに足る圧をもって少しだけ唇を歪ませた。

『お前の撮った俺の写真にも同じ『よくないもの』が写っている』

 もしこんなことを言われたらどうしようかと手に汗握っていた。有り得ない、全て彼の思い違いだ。私は言い聞かせるとマドラーを回していた手を止め、グラスを口に運ぶ。驚くほど味がしなかった。

 「もし気を悪くしたなら許して欲しい」

 神妙な顔付きで、差し向かいに座る彼は前傾姿勢になっていた。

 「君をそんな風には思わないよ。何なりとどうぞ」

 私は『不安』を押し殺して、彼の続きを待ったのだ。

たぶん、羨望

 ある謂れがあってそもそも彼を彼たらしめたのは純一さの錯誤であったからに違いない。 
 覚めていた。
 俺の頭は全くもって覚めていた。
 冷徹及び悲嘆の権化、その由来はこうだ。

 彼はある意味においてのみ俺を蔑み、平時においては皮相な譲歩をのみ纏いながら、諸口に流されいじましくも一等の嫌忌を塗した破綻の切れ端を汗水漬くになって欲していた。

 こんな訳だから「共に歩む努力」だとかいうお仕着せの協調を跳ね除けて、ただ時の許す限り閨に散った髪を梳る間中、ひたすらに重い頭の中を紛らわす為の放言を弄し合った。嬲りものにされた追懐は酷く不満気であるし、それを察してもいた。にも関わらず二人にそんな勝手が許されて、かつてしでかした罪科を角逐し合う関係の何が疎ましかったかと問われると、やはり俺の身体の半分が別人だったからだろうと感ぜられる。

 かねて彼の半分も別人であった。
 本人と呼べる部分のいくらかが晒されたからといって、鬼の首を得たかの如き得意顔をして恥を重ねるには余りに厚顔無恥なので、ほんの一部を見咎めて何がしかのやり取りを交わそうという魂胆はない。もう半分が別人であるかを改めたいと働く好奇心を殺し、残されたもう半分がアリバイを持ち得るかどうかの捜査権があるのは俺だという事実を知らしめることが何より肝要だった。
 
 例えば彼の半分に愛人が居たとする。だがその愛人は彼のもう半分に関して幾らかの興味を示し得るかと思いを馳せてみる。全くの意味がないものとして切り捨てて平然を装うだろうし、また別の考えではやはり皮相浅薄の放言を繰り果てのない戯れに限られた人生を浪費しないとも限らない。

 しかしかえってもう半分の片割れが悪事の一切を認めたとしたらどうだらう。
 不一致の彼の半分は一つになり、その時に俺は一つになった「彼」を、男という男、女という女をそっくり壺抜きにしてしまいながらも、無垢なままのもう半分を溶け込ませた彼を見る。その姿が渾然一体となって、俺ほどの男のもう半分をも卑しめ、残忍な見せしめにしはしまいかと畏れを抱きながら、余す所なく徹頭徹尾舐り尽くし、味わってしまいたがらないと果たして言えるだろうか。
 片方ずつに分かれさした、辱めを甘んじて肉の内に受け容れる欲情的な色魔を飼い慣らす彼には、どんな清廉潔白さ、誠実さも敵いはしまいという予感に打ち震える。ただ一方で、不必要に敏いもう一方が思い詰めるあまりに俺のもう片方を盗み去って何処ぞの往来に置き去りにしてしまわないと——どうして言えるだろうか。

無為な杞憂と言って貪るのも良し、案ずるより産むが易しと誑かされても良し。いずれにせよ、彼を思うこの腑の底を占めるものそれ自体が俺には大変贅沢な、或いは世間一般に言ってどうしようもなく不純な代物なのかも知れず、けばけばしい耳年増の売女が諦め悪く彼の半分に擦り寄って猫撫で声を上げる様、要するに彼らの蛮行が悉く横行するのを見るに、まだもう半分を鏡に向かって写そうともしないから、彼の目にすら入らないのである。よしんば入り得たとして取り入る望みは薄かろう。

 彼の半分と、俺の半分は互いを疎ましがる致命的なまでの別人であり、隣人にすら程遠いのである。
 だが同時に、どうだ。俺の半分は彼を信じている。彼も恐らく外面を超えた何処がしかでもう半分を。

これはたぶん、羨望だった。

いばらとしらゆき

 扉にのたくう有刺鉄線は、眠りに就いた国を守る為に張り巡らされた荊になった。助けは来ない。魔女も小人も死に絶えた。
 けれどわるいろうばの差し出した果実を奪う口付けに毒なんてものが仕込まれていたらきっと、迷わず 僕は 食べてしまうに違いないのだ。口付けも吐息も全て。
 そうして深い微睡みの向こうに居る君と再び城で 睡りに就いて。

 浅い眠り浅い夢間の浅い朝の昼も夜もない小部屋の話。誰かは囁いて、けれど目を開けるともう誰もいない。そういう夢をまた見てる。何度も何度も、何度でも。
何処に居ても居なくても棘が拒めばやがて全ては同じこと。でも諦め悪く何度でも子供が結末の変えられない絵本を開く様にいばらの城へと足は向かう。

 「あさだよ」

 白み始めて間もない、生温くなりだす景色に背を向けている。しかし冷たいコンクリートが剥き出しの天井や壁の至る所にはまだ夜の足跡が残っていた。

 「眠い」
 「俺もねむい」

 「…​…​眠る気なんてない癖に」一晩中、何処かに夢だけ忘れて来たみたいな眼をして“眠れない”のだと宣う男が目を擦る。

 「はやくかえりな。学校遅れるよ」

 空の缶を片手に灰色の部屋の主が時計を指した。とてもじゃないがそんな気は起きない。いつもの時間に取り決めた予定通りに一日が続いて行く。規則正しい針の筵が腹を空かせて待っている。

 「眠い」
 「こら、ゆき」

 全く弾まないベッドへ再び出戻るとコン、軽くて空っぽな頭とおんなじ音が後頭部の方で聞こえた。ゆきなんて、どこにもいない。勝手に呼ばれて馴染んだだけの何処にも居ない俺が此処に居る。

 「きょうはちゃんとかえって寝なよ」

 約束しただろと苦笑する傍らで、無理にでも追い出そうとする気配はない。いつものように、笑うだけ。
 どちらにせよ今はまだ無理だった。脚と腰が引き攣って動けそうにないから。
 犯人が白々しく仕方ないな、と笑う。薄情で、儚いなんていう 似合わない言葉がよく似合う。

 「送ろうか」
 「いいよ」

 送られる気なんてさらさらなかった。俺の何一つも知られる訳にはいかない。男の事はこの廃屋を使っていること。それから酷い不眠症なこと。右手の薬指に何かを縛り付けた様な痕があること。それ以外の事は何も知らない。だから私情を知られるのはフェアじゃない。何かが傾けば均衡を保つ為に片方が動かなければならない。破綻を伴うバランスは、危う過ぎて手に余ってしまいそうで。
 微睡み始める瞼の向こうで欠伸が聞こえる。

 「ゆき」

 段々と室内に差し込み始める温もりが訪れる頃に、
 この廃屋からは人が途絶える。乾涸びた鉄の荊とひしゃげたフェンスの弱々しい金切声の残響が取り残される主の居ない空の城は、そうして目覚めないまま夜を渡る。

 「ねぇ」
 「なに?」

 「昨日、何燃やしてたの?」

 辛うじて動かせる腕で仰向けになって目を向けないまま天井の一点を見つめる。記憶の端のまだ新しい赤々と煌めく炎は此処には不釣合いに思えて、どうしても訊かずにはいられなかった。

 「……本だよ。随分古い本だった」
 「どんな?」

 「分厚い本。気になる?」

 訊いているのはこっちの筈なのに、意識していないと直ぐにでも逆転している。そうじゃない、と伝えてみても大抵効果は薄い。
答えに窮していると、男が勝手に喋り出した。

 「騙されやすい王様に、色んな所の色んな話を披露する本」
 その色んな、を話す気はないらしい。途切れた言葉を継ぐように疑問を口にする。

 「……絵本じゃないの?」

 それに近いやつなのかな、と再びの欠伸に紛れて男が言う。
「だれかが置いてったのかも知れないし、棄てて行ったのかも知れない。いつからあったのか憶えてないから」
ほんの少しだけ早口になっている。

 「……そう」
 「ゆきは絵本、読んでた?」

 『どうして燃やしたのか』を訊く前に、男が訊ね返して来た。滅多にない事に、思わず問い返してしまった。

 「なんで?」
 「……なんでも」

 その時男の瞳が、僅かに数度瞬いた。直接言った事はなかったけれど、喜怒哀楽の喜と楽に偏った起伏に乏しい男の、多分、哀に近い方の変化。一瞬過ぎて、気付いた時にいつもと変わらない顔がそこにある、無かった事が過ぎていく。本なんてあまり読んだことはない。空想の世界は子供の目には毒だと思う。

 「へんなの」

 男程じゃない気がする。

 「俺はこっちの方が毒だと思うよ」

 男は二人しか居ない辺りを見渡してこっち、と目配せをする。誰もが忘れてしまった嘘みたいな場所は毒であるべきだと。飲み込んでしまうとどうなるかなんて、小人も知ってる常識を笑って見せた。

 「そうかもね」

 どちらも劇物であるならば選び取ることは容易い筈だ。ふつりと呟いた言葉の雨垂が床へ耳へと滴り落ちる。ずぅっと眠らないで覚めない夢を見られたら良かった。

 「そんなのしんじゃうよ」
 「わかんないよ」
 「そうかな」
 「そう」
 「……そうだね」

 当たり前の様に近付く唇を受け容れる。
 
 「ん……」 

 暗い脳裏に思い描く物語の続きに、訪れる眠りの中に君はいないのだ。

 「ゆき?」

 意識すら既に手の中にはなかった。

 またね。

 そんな 眠たい声を、聞いた。

「…… おやすみ しらゆき」

放課後

 目の端に付かない方法を探している。窓際最前列の席から臨める、中庭で並ぶ影が伸びていくのを。

 ホームルームを終えた教室にたった一人残っている理由を聞かれない事を祈りながら、赤錆びたベンチに座る二人は何を話しているのか大体の想像が付いてしまうし、そんなことで働く想像力に寒気を覚える自分にすら呆れている。
 いつになればあの二人を見ずに済むだろうか。胡乱な目で見た時計は既に閉門時刻を指し示そうとしている。こんな時間まで、俺もあの二人も学校になんて残って。
 どうかしている。

 どうか。

 「榛葉!」

 ガタつく窓を無理矢理こじ開けて喉が裂けんばかりの声を上げた。実際には何とか届く程度。だけどいい、届いたならそれでいい。
 

 「何、奇遇じゃん。何してんの」

 たった今届いた声に、榛葉は振り仰ぎ奇妙な笑顔を向けた。驚きと——後はただの願望になっていそうだから表さないでおく。

 「補修!なぁ、帰り一緒していい?」

 誤魔化せている気が微塵もしないあからさまな誘いを確かめもせず、榛葉は即答した。手を軽く振る様は、拒絶ではない意思表示。

 「早く来い。待ってるから」

 待ってる。
 その一言に霞んでいた頭の霧が瞬く間に晴れていく。
 隣に並ぶ不機嫌な表情を見なかった事にして。
 

 ざまぁみろ。どうせ俺のいない所では好きなだけ拝んでいるのだから、このくらい良いじゃないか。勝手な自己弁護を喚き散らしながら鞄を引っ掴んで教室を飛び出した。

溝川

 見窄らしい格好のまま溝川を浚う。道ゆく人々が皆一様に鼻を摘み過ぎて行く。もっと上手い方法があるとか、業者に金を積めばいいとか、一人過ぎる度に声がする。とうの本人の鼻は既に使い物にならない。止せばいいのに素手で汚物を掻き回していると、見るに見かねた誰かが水を撒いていった。『これで少しはマシになったでしょう』。
 重くなった服の替えもなく、倍の力で汚物と水の混ざりものらしき泥の底を浚う。耐えかねた誰かがすれ違い様嗤った。『やめたらいいのに』。
 腕に巻き付いた〈清掃係〉の腕章は直に肌に縫い付けてあってどうしようもない。いつからあったのか、どうしたら外れるのかは分からない。
 腕ごと捥いだらいいのか。立ち止まって全て投げ出せばいいのか。濁った泥の底に何があるのか。
 分かっているのは、棒のような二本の足とぶら下がる二本の腕の他はどんな美しいもの、醜いもの、動くもの動かぬものも泥の中には見えていないということだけだった。

new order

「あだだだ。なー、もうよくね?何個開けんの?」
「俺と同じ数だけ」
「つってもお前左右で十五個はあるじゃんよ……俺持つ自信ないんだが」
「がんばれがんばれ」
「殺す気かよ。まだ前のだって安定してねーのにさぁ。てかこれでも痛がってんだってマジ」
「針のが綺麗に開くんだよ。ほらこっち」
「もーいーって……まさか楽しんでる?」
「否定はしないけど」「してくれよ」

「じゃー今度は俺の開けて。それであいこ」

「……それ間接的に俺のも増えてない??」
「へーきだろたったの十六個くらい」

「ほんと無茶ばっかり言いやがってもー」

misfit

misfit不適合

 テイクアウト可、とデカデカと書かれたデジタルサイネージが眩しい。出す場所間違えてね?と言ったらアウェー丸出しかも知れない。でも何か癪だ。別に一見じゃないし。せめて近所のファストフード店で見たかった。何であの店持ち帰れないんだろ。頑固店長の怠慢なんじゃないだろうか。

 「ぇ、ねぇって」
 「なーに」
 「何杯?」
 「三……いいや、二回にしといてくれる?」
 「はぁい」

 透明なグラスに黄色のキューブが幾つか放り込まれていくのを眺めていた。炭酸にゆっくり沈んで行くとさながらレモネードのような。丁度この量で二回分の効果が期待出来る。でも最近効かなくなってんだよな。元々効きが弱いのか俺の耐性の所為なのか知らないけどそろそろ度数を上げないといけない。
 
 「じゃ一番行きまーす!」

 周囲のコールを浴びて一気にグラスを煽ると見る間に嗚咽を漏らしながらアーウーとゾンビめいた呻きを上げる。続け様に三々五々似たような奇声喚声の雨霰。
 こんな中から選んで持って帰ってねと言われても気が乗らないよな。でも一応そういう場なのである。白けてしまってグラスに手を出せずにいた。だがその中で一人周囲に紛れるフリをしてグラスを煽っている、至って冷静な奴がいた。見た目は平々凡々な男にしか見えないが。

    おまえも?

 目が合ってしまったので、ジェスチャーで交信を図ってみた。騒々しい空間の為に声までは届かなかったが何とか唇の動きを読むのに成功した。

    おんなじ
 
 唇の端が持ち上がり、交信相手は派手に色付いたキューブを直接噛み砕いて見せた。ちらりと覗いた八重歯の先端は溶けたキューブの所為で青く染まっていて、紫色の舌が舐め取る。しかし青か。強いのキメてんな。少し強いだけってレベルじゃない。ヤバいやつが来てるってのに、他の奴になんか構ってられなかった。

 「やっぱり緑貰える?ペールで」

 いつもより一つ上げたオーダーに変え、品定めが済んだ手元に新たなクラスが運ばれて来るまで、灰色の妄想に舌鼓を打っていた。
 

たからもの

 暗路を進む勇気もなく昼日中の街道を堂々と歩く自信もなくただ街灯の並んだ薄暗い道だけを選んで行く。真っ黒に塗り潰されていない道を辿って。
 宝物を見付けておいでと言われた。それ以外に道はないのだと。それまでは決して戻って来てはいけないよ。
 唯一の値札が僕にとって意味がないように、無理に見付けた結果が腕の中で干からびていくのを待つ。それは本当の唯一がないと分かった惰性の延長でしかないのに、不思議と涙が溢れていった。
 何処にも通じない道だけ目一杯に広がっている。でも宝物は何処にも無い。
 それだけを見付けて、僕は。

◼︎ひとり

 独りっていうのは例えば
 空いた駅のベンチに座って
 定刻通りの電車を見過すこと

 一人っていうのは例えば
 雑踏に行き交う人に
 ぶつからないよう気を配ること
 

 ひとりっていうのは例えば
 向かい側に座る君から目を逸らして

『知ってる』を砂糖だらけのコーヒーと一緒に飲み干すこと。

◼︎ない人

 歩いている。

 首から上が寸断している人達を見る
 すたりすたり過ぎ行く足元の忙しなさに驚いている

 どうやら僕には人が半分から下しか見えていないのだが、首から上が真っ黒だらけ達の通り過ぎる風景は、やはりどうしても酷く無彩色なのであるし
 スニーカーで走ろうと、ヒールで立ち止まろうと
 それは僕の見えない部分にだけ彼らというものが詰まっている徴しなのであるし

 ねぇ君たちにちゃんと頭は乗っかっていますか。何処か他所にうっかり落としていやしませんか。
 聞くに聞けず、見るに見られずにいる僕には結局とんと見えないものらしいので
 僕の方でも
 他と変わりなくない人なのだと思い知りながら今日も